これは消える箇所あるところに、誰かだけのお姫様にならなかったお姫様がいました。
花が落ちた街路樹の向こうを、車が通り過ぎていく。昨日眠たい中スチームアイロンを当てたはずの戦闘服【スーツ】の座り皺を、朝一セットしたはずの髪の毛のアホ毛を、ちょこっとボーナスで奮発して買ったビジネスバッグを、照らしながら。
(ずっと私はお姫様になりたかったのに)
背筋を伸ばさず歩く様は、お姫様よりも、彼女を彩る魔法使いだ。
帰り道は、一日の中で一番人生を想う。
仕事で疲れた頭あの先を往く高齢の品のいい女性のように自分はなれるのだろうか(なりたいのか)だとか、しょぼしょぼと歩みを進める新社会人はまるで昔の自分のようだとか、綺麗に髪を巻いて歩道につけた車にのっていった彼女は選択の違う自分だったかもしれない、だとか。
いつもそうだ。
風が吹く。
(冗談じゃない)
前髪をかきあげながら、プライベートを重視する子が先に帰っていくのを見送って。
(いいな)
旦那や子供へのスナック菓子みたいな幸せな悪口を、曖昧な笑みを浮かべながら聞いて。
(うらやましいな)
誰もがうらやむ仕事に向けてストイックに頑張る友人の、愚痴を聞きながら。
(私もああだったらいいのにな)
元カノの結婚報告の手紙に載っていた、可愛い女の子を見つめながら。
(どうしてあの子はああなのに私はこうなんだろう、あの子もこの子も)
中途半端なわたしはいつも、自分が歩めなかった綺麗な人生をいつだって羨んでいる。そしてそのうらやむ人生が上澄みにすぎないことも、知っている。人生とは深い海だ。
(人の人生ってなんでこんなに綺麗なんだろう)
でもこれだけは分かる。人の人生を見てモダモダとしているだけの私って、すごく醜い。ああ、嫌になる。
自傷して、皮肉的に分かった気分になって口角をあげてあゆみを進める矮小な私を、
カツン。
一人の同い年の女の子がかろやかに足音を立てて私を追い抜いて行った。音がしなかったのにしたのはきっとそれが私が追い抜いたからだろう。
さらに追い抜いていった車がウェーブかかった栗色髪を照らして、透き通って消える。スーツもくたくた、あんまりお化粧っけもない。だけど、ローヒールだけど背筋がピンと伸びていて、なんだか私の方まで襟を正したくなるような、明日が楽しみになるような、まだたくさんの選択肢があるような軽やかさだ。
きっと、彼女もこんな時間に帰っているのだから、何かをせおっているだろうに。
(私も同じなのかもしれない)
そのまま過ぎ去っていく彼女を見送りながら、今さら私も背筋を伸ばして一つ息を吐くと、くしゃくしゃだった心が健やかに張った。もう彼女は遠い。だけど人をうらやむだけだった私は、いくらか、当たり前に、人の、彼女の、幸いを願っていた。
(私も背筋を伸ばして、軽やかに生きたい)
人の人生の上澄みをうらやむだけの単純な私の特性の恩恵を、今私は受けている。ああ、後三日ぐらいなら頑張れそうだ。
彼女もデートだろうか。遠くの、彼女を想う。車で恋人みたいな人と待ち合わせて、これから舞踏会にでも向かうのだろうか。
ああ、きっとそうだ。そうに違いない。今日残り少ない時間がよい時間になってほしいと思う。
お姫様と、その彼女を迎えに来る王子様に。
(事務仕事だからって、ヒールを履いてきたのは失敗だったな)
境界線の向こう、真っ暗なアスファルトに欠けた『止まれ』という文字が浮かんでいる。
彼女宛てじゃない三文字を無視すると、一歩がリズミカルな音を奏でた。