Shut up Kiss meキッチンから軽やかな鼻歌が聞こえる。
遅めの朝食を済ませ、アオキはソファの上でネッコアラにブラシをかけていた。鼻歌の主であるチリは、ざっくりしたセーターの袖を何度も折ってまくり、泡に覆われたスポンジで食器を擦っている。
「ご機嫌ですね」
「ん? 聞こえとった?」
チリは顔を上げて穏やかに微笑む。
「朝ごはん、美味しかったな思て」
「それは何よりですが、……やっぱり手伝います」
アオキが作った朝食をふたりで食べたあと、「片付けはウチが」と、チリは食器洗いを買って出た。好意に甘えて任せていたものの、少し前から聞こえ始めた愛らしい鼻歌にどうしても意識が向いてしまう。キッチンとリビングのわずかな距離がもどかしく、立ち上がってチリの隣に並んだ。
「ええのに」
「自分がしたいので」
「ほんま?ならええけど」
洗い終わった食器を手渡され、水を出して泡を落としていく。その間にもチリは、先程と同じフレーズを繰り返した。
「何の歌ですか」
「ん?これ?……しゃらっきっみほーみったーい」
唐突に発せられた言葉はまるで聞き取れず、一瞬思考が停止する。
「………今なんと?」
「黙ってキスして抱いて!てな歌詞やな」
「……もう1回、さっきの……」
「しゃらっきっみほーみったーい」
チリの呪文と異国の文字面は合致したが、2度目の呪文が堪えきれない笑いとなってアオキを襲った。それを見たチリは怒るでもなく、笑顔のまま洗い物を続けている。
「なはは!珍しぃな、アオキさんがそんな笑うん」
「ずいぶんと発音の良い……」
「馬鹿にしとるやろ」
「まさか。……積極的な歌ですね」
「それがそうでもないんやな〜」
チリは得意気にそう告げると、手の中にあったマグカップを手早く洗ってこちらに寄越した。アオキの前には、大きさも柄も全く異なるマグカップがふたつ並んでいる。
「どっちかっちゅーと、喧嘩するカップルの歌」
「そう、なんですか」
「せやなぁ。こう、片っぽが相手を信じられんくて、わーわーなっとんのを、ちゃんと好きやから大丈夫やでーって言うような曲、かな。チリちゃん中では」
喧嘩というワードが、覚えのない焦燥感をもたらす。目だけを動かしてそっとチリの表情を伺うが、変わらず穏やかな笑みを浮かべていた。
「ここのフレーズが好きなだけで、なんの含みもないさかい、安心してええですよ」
振り向いたチリと目が合う。こちらの動揺を悟ったのか、チリはまた声を上げて笑った。
「けど、こういう不穏な歌、けっこう好きやねんな」
「不穏……」
「不穏、ちゅうか、なんやろ。綺麗なだけやないやん、人と人が一緒に居るいうんは」
再び手元に視線を戻したチリが静かに続ける。 流れ出る水を止めて、チリの言葉に耳を傾けた。
「愛は苦しいもんやから、一緒に傷付こうとか、そんな歌もあって。あれも好きですね」
すべての食器を洗い終えたチリは、スポンジを置いてアオキの方へ向き直る。真っ直ぐに見つめられ、隠しきれなかった不安が口をついて出た。
「本当に、含みはないんですよね…?」
「なはは!ないない!むしろ逆や」
「逆…?」
「いつかアオキさんと喧嘩してもきっと大丈夫って、お守りみたいな感じやと思う」
チリの言葉に、彼女との「いつか」を思い浮かべた。
ふと、過去の苦い記憶が蘇る。「わたしのことなんて好きじゃないんでしょ」と平手を食らわせてきたのは誰だっただろうか。その時は反論できずに見送るだけだったが、隣にいる彼女にも同じことができるだろうか。
こちらの沈黙をどう取ったのか、チリが小さな声で続ける。
「それにな、アオキさんのこと好きになってから、片思いのしんどい曲ばっか聴いとったから、こういう……その先の歌に共感できんのが嬉しいねん」
思わずチリの名前を呼ぶ。同時に水音が響き渡り、蛇口から勢いよく水が流れ出した。食器をすすぎ始めたチリの耳が微かに赤くなっているのが見える。
「あかん、恥ずいこと言うてもうた……顔見せられん」
「あとで、チリさんの好きな曲、教えてください」
「うん……わかった」
「とりあえず、」
チリの背後に回って、その細い肩を抱きしめる。
「ぎゃ!濡れた!手ぇ拭いてやアオキさん…」
「…ちょっと、黙って…」
「ちゅうか、そこはキスやないんかい」
チリが振り返る。いつもの笑顔でアオキの視線を捕らえた。
「ご所望とあらば」