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    inaeta108

    @inaeta108 イオ の物置です

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    たりないふたり1

    #キラ白
    cyraWhite

    安っぽい使い捨てコップの縁はつるりと滑らかだ。中は薄緑色の液体でなみなみと満たされ、鍛えられた右手の動きに合わせてほのかに苦みを纏った香りが立ちのぼる。ナイーブT細胞はひとつため息をついた。収まりの悪い金髪がふわりと揺れるのを見る者は誰もいなかった。

    リンパ管の隣、平行に伸びる大きな血管。無数のカフェや飲食店、商店が軒を連ねている。それに混じって聳え立つのは居住施設や公共施設。そこには無数の細胞たちの暮らしが垣間見えた。笑っていたり落ち込んでいたり、友達と言葉を交わしたりひとり物思いにふけったり、暇を持て余したり仕事に励んだり。平和だからこその光景だ。日中はそんなふうに賑わう通りだが、夜になると皆が寝静まり静寂に包まれる。すっかり人通りが少なくなった血管内は暗く染まり、所々にある街灯と飲食店や住宅から洩れる灯りだけが暖かさを添えていた。
    ナイーブT細胞はその風景を誰もいない官舎の屋上から眺めるのが好きだった。この広く大きな体(せかい)を、守る。その決意を新たにさせてくれる。

    その中に一体の好中球を見出したのはいつのことだっただろうか。確かまだ季節がまだ汗ばむ陽気の頃だ。いつも真新しい白の制服を着て血管の壁際をよじ登ったところにあるちょっとしたスペースで休んでいる。そうでない時は血管をぶらぶらと歩いていた。遠目なので確証はないが、右側だけ長い前髪と好中球の中では高くすらりとした肢体、そして何より同じ行動パターン。おそらくは同じ個体だ。そして今日も、暗く眠る体(せかい)を見下ろす位置で壁に凭れている。
    ーー呑気なもんだな。
    ナイーブT細胞はフン、と鼻を鳴らした。
    多分相手は気づいてすらいないだろう。血管をのんびり眺める自分がこうして更に見られているなんて。



    それは胸腺学校時代から続けている、いわば日課だった。
    訓練や雑務を片付けた深夜や非番の日の空き時間、疲れた肉体に鞭打って行われる秘密の特訓。同期の嫌味なメガネに言われるまでもなく、自分が不器用で要領が悪い事など身に染みている。だからこそ他の何倍もの努力を重ねてきたと言う自負はあった。強くなりたい。免疫細胞として、T細胞として。それこそがこの体(せかい)で生きる理由であり、拠り所だった。
    訓練には少しばかりの楽しみも必要だ。と言っても、胸腺学校卒業直後、ほぼ訓練生のひよっこであるナイーブT細胞にはさほどの自由はない。少しばかり贅沢に、ドリンクを二個買いするくらいだ。ひとつは水分補給用のスポーツドリンク。もうひとつは特訓終わりにゆっくりと飲むための珈琲。だが今日は、背後から聞こえた先輩の声に驚いて、スポーツドリンクと間違ってよく知らないお茶のボタンを押してしまったのだ。痛恨のミス。勿体ないと香りだけは嗅いでみたが独特の苦味はどうにも慣れない。先ほどから両手にコップを握りしめてはいるものの、中身が減るのは左手ばかりだ。
    そういう訳でナイーブT細胞は今、官舎の屋上でひとりフェンスにもたれ、特訓後の心地よい疲労を感じながら珈琲を飲んでいる。


    びゅう。
    ヒスタミン放出パイプの不具合か痛みの前兆か、一陣の強い風が吹いた。
    その風は運悪くナイーブT細胞の帽子を吹き飛ばした。両手にコップを持っていたのがいけなかった。咄嗟に手が出せなかったのだ。ゆっくりと遠く小さくなってゆく黒い帽子。リンパ管の外には許可なく出られない。だが、戦闘外での備品紛失は懲罰対象だ。さらに、こんな時間に屋上で何をしていたか追求は免れないだろう。引き締まった口唇から「あああ」と意味をなさない言葉が溢れた。思考が渦を巻き、焦りが全身の毛穴を開かせる。
    その時、視界の端で白い影が動いた。壁際の狭い隙間から飛び出すと素早い身のこなしで落下する帽子に近づき、掴み取る。そうして辺りをぐるりと見渡した。視線が交差する。ひとつ首を傾げるとひらりとリンパの壁を乗り越え、するすると官舎の壁面を登ってきた。軽やかな身のこなしにナイーブT細胞は目を見張った。

    「お前のか?」
    「あ、ああ。悪いな。落としちまって困ってたんだ」
    「いや、偶然目に入っただけだ」

    息ひとつ乱さず屋上の柵を乗り越えた好中球は事もなげに淡々と答える。
    そう雄弁なタチではないようだ。会話はぷつりと途切れた。
    印象的な黒い瞳がふいと彷徨う。なんとなしに視線を感じて、ナイーブT細胞は自分がまだ両手にコップを握りしめていたことに気がついた。肝心の帽子を受け取ってすらいない。どうやら相当動揺していたらしい。気恥ずかしさを感じて肩をすくめ、そしてそれらを一気に誤魔化すべく右手をずいと差し出す。
    「飲むか?ちょっと癖があるけど」
    少なくとも興味を逸らすことには成功したらしい。黒い瞳はぱちりと瞬いた。

    「いいのか?」
    真っ直ぐにこちらを見つめる顔は、存外幼かった。


    ーーーーーーーーーーーーー


    白い喉がごくりと動く。これまた白い口唇からは「美味しい」と小さな呟きが漏れた。
    それ、苦くないか?
    ナイーブT細胞は問いかけを喉の奥に押し留めた。なんとなく格好悪いと思ったからだ。代わりにこちらも珈琲を口に含む。香ばしい苦味と砂糖の甘い風味が鼻に抜けた。
    好中球は少し減った水面に目を向けてからナイーブT細胞を見た。
    「何してたんだ?」
    また少し風が吹いたが、それは水面に細波を立てる程度だった。好中球の視線は黄金の瞳を捕らえたままだ。こちらの言葉を待っている。言い繕おうかとも考えたがナイーブT細胞は正直に話すことにした。どうせ嘘や言い訳は苦手なのだ。

    「ーー特訓だ。ガキの頃からずっとやってる。強くなって、体(せかい)を守りたいんだ。努力して鍛えれば自分を変えられるって、強くなれるって思うから」
    訥々と語られる言葉を、好中球は少しの相槌を挟みながらじっと聞いていた。その横顔は青白く冴えている。ナイーブT細胞の脳裏に、不意に胸腺学校時代のことが浮かんだ。授業について行くのがやっとの自分を揶揄い、無駄な努力だと茶化す同級生。ひとり地道に勉強する姿を馬鹿にする冷ややかな視線。動揺に乗せられて、少し話しすぎたのではないか。後悔が頭をよぎった、その時だった。

    そうか、と好中球は真摯にひとつ頷いた。
    「すごいな、お前は」
    「…え?」
    「ずっとそうやってひとりで努力を続けるなんて、なかなかできることじゃない」
    「!!! そうか!?」
    ナイーブT細胞の顔が輝いた。そんな事を言われるのは初めてだ。
    「俺も、辺縁プールから体(せかい)を眺めるのが好きなんだ。何に変えても他の細胞を、この体(せかい)を守ろうとそう思える」
    「!! 俺もだ!」
    まさか同じものを見ながら同じように考えてる奴がいるなんて。思いもつかなかった偶然にナイーブT細胞の心は浮き立った。



    「お前いつも壁のとこで休んでるだろ」
    「見てたのか!? まあ、休んでるというか待機だな。何かあればいつでも飛び出せるようにはなってるぞ」
    そういうと好中球はふわりと微笑んだ。そうすると身に纏う淡々とした空気がくにゃりと崩れる。なんだかペースが狂う奴だ、とナイーブT細胞は心の中で首を捻った。胸腺学校やリンパ管の中にはいないタイプに思えた。いたとしても教官に怒られて、あっという間に脾臓行きだな。自分のことは棚に上げてそんなことを考えた。
    「あ、そうだ」
    大事なことを思い出したナイーブT細胞は慌てて口を開いた。
    「特訓のことは秘密にしてくれ!就寝時間に部屋を抜け出してるのがバレちまう」
    「わかった」
    好中球はまたしても真剣な表情で頷くと、リンパは厳しいんだなと小さく呟いた。
    手にしたコップはいつの間にか空になっていた。それが別れの合図となった。

    「じゃあな」
    「おう」

    好中球は軽い身のこなしで降りていった。屋上から地上へ、リンパの壁を乗り越えて。ふわりと踊る風のようだった。
    ナイーブT細胞はその白い背がいつもの場所に落ち着くのを目で追った。邂逅はあっという間だった。ほのぼのした空気だけが残っていた。あいつも雑菌やらウイルスやらと戦ったりするのだろうか。呑気そうなあいつのことだ。いつ怪我でもするかわからない。かたやこちらは戦場デビューに備えて鋭意訓練中の身ではあるが。
    ーーもっともっと強くなって、いろんなものを纏めて守れるようになってやる。
    眼下に広がる風景を眺め、ナイーブT細胞はひとつ息を吸い込んだ。


    ーーーーーーーーーーーーーーーー


    その日、緊張と戦意が溢れかえる瓦礫の中にナイーブT細胞は立っていた。戦場だ。
    朝晩の冷えが手足を刺すようになった頃だった。こう言う時期はウイルスが侵入して来易い。今回もそんな、単純な季節性ウイルス侵攻のはずだった。ただ、その頻度がいけなかった。短期間に大量に攻められすぎた。免疫細胞が足りない。動けるヤツならなんでもいい。そんな事情で、未熟なひよっこであるナイーブT細胞たちもやむなく最前線に投入されている。戦闘は混乱を極めていた。


    ウイルスに感染した一般細胞は普段の姿と似ても似つかないほど禍々しい。肥大化しぼこぼこと隆起した腕、苔色に変わった肌、そして落ち窪み感情を乗せない眼窩。まさしく異形だった。感染細胞は咆哮をあげると腕をぶん、と振り回した。瓦礫が轟音と共に崩れ落ちる。直撃を免れたナイーブT細胞はよろめきながら立ち上がった。手も足もある。視界も良好。セーフ。ラッキー。だが喜んでいる時間はない。感染細胞の虚な目がこちらを捉えている。

    せめてもの抵抗をと震える腕を叱咤して再び防御の姿勢を取った。喉が引き攣り、脚は麻酔でも打たれたようだった。
    ああ、だめだ。
    襲い来る衝撃に備えて息を止めた時、閉じることすら忘れられた黄金の瞳の前を影が横切った。勢い良く走り込みざま、手にしたナイフを感染細胞の首筋に素早く差し込む。一呼吸おいて赤い体液が吹き出した。半身を派手に染め上げながら事もなげにナイフを握り直す。それはあの好中球だった。ふいとこちらに目線が動いたのは、間一髪難を逃れた同胞の無事を確認したのか、それとも次の獲物を探してか。白い背はすぐに砂埃の中に消えた。
    咽頭班の先輩達と合流できたのはその直後だった。間を置かず、産生した抗体を抱えたB細胞も姿を見せた。勝利への光明が刺し込んだ。


    目の前には建物だった物が無惨な姿を晒している。屋上からいつも見る風景の一部、だったものだ。ナイーブT細胞は唇を噛み締めた。悔しかったからか、震えを止めるためかはよくわからなかった。

    どうして足は張り付いたように動かなかったのか。どうしてナイフの一撃、拳の一発すら見舞うことができなかったのか。
    ナイーブT細胞の脳内で先程の光景が閃光のように瞬いた。
    ホノボノのんびりしてると思ったあいつはあんなに血塗れになりながら敵を屠っていたのに。
    置いていかれたと思った。いや、それすらも勘違いだ。横に並び立つことすらできていない。
    お前なんて所詮落ちこぼれの役立たずだ。キラーT細胞になんてなれない。
    ぐるぐると笑い声が響いた。
    わかってただろ?お前は何も守れない。
    ナイーブT細胞は強く目を閉じた。

    先輩キラーT細胞が咽頭班集合を呼びかけている。早く向かわなくては。それなのに足はちっとも動いてくれなかった。
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    MAIKINGたりないふたり2「あの好中球」と久々に再開したのはつい先だっての戦場だった。広い体内、そして数多い好中球である。巡回中にしろ戦場にしろ出会うことはなかった。モニター越しには何度か一方的な対面を果たしていたから、生きていることは知っていた。相変わらず右側だけ長い前髪と、無駄のない鋭い動きはモニター越しにも目を引いた。そのうち偶然会うこともあるだろう。そうしたらお互いの無事の再会を祝えばいい。キラーTは密かにそう思っていた。
    それなのに、ウイルスや雑菌をあらかた片付けた戦場で遭遇したあいつは。瞬きほどの間こちらを見て、首をひとつ傾げて、仕留めたのであろう雑菌を無造作に引きずって仲間のもとに歩いていった。それだけだった。
    めでたく活性化を果たしてエフェクターT細胞に、そして鍛錬を積んでキラーT細胞咽頭班班長に上り詰めた今でも、初めての戦場のことを思い出すと頭が熱くなる。禍々しい感染細胞、絶望と恐怖。そしてあいつのこと。一時は屋上にすら足を向けられず、特訓場所も変えざるを得なかったほどだ。
    その焼けつくような記憶が身体中を駆け巡った。悔しいのか、悲しいのか、苛立っているのか。どれも正しく思えたし、どれも違うよ 6646