日下部×冥冥 「…ったくあのガキども」
苛立ちながら日下部は自宅の夜の九時を周った時計の前で部屋着からスーツに身を通しネクタイを首にまわし苦しそうにしめた。
宿直担当の翌日である今日は丸一日緊急呼び出しもなしの休日のはずだった。
徹夜でクタクタの身体を引きずりながら早朝に帰るやいなや昼過ぎまで惰眠を貪り、ダラダラと夕方まで過してシャワーを浴び、まさにこれからビール片手に釣り番組を見るというときにスマホが鳴り、自分の担当する生徒達が本日あたった任務で馬鹿をやり過ぎたらしく、担任として先方に謝りに行ってほしいとの半強制的な呼び出しを受けたのだ。
完全にオフだと言うことは知っていただろうし、せめて少し前に身体にアルコールを通しておけば充分に非難されることのない正当な理由として断れただろう。
「あー…大丈夫、今から向かえます」
しかし連絡を受けたのはその前だ。仕事嫌いではあるが生真面目な性格ゆえに、泡が徐々になくなってゆくコップを前に正直に問題無いと返答した。
楽しみにしていたテレビを消して着替えて嫌々ながら廊下を歩いて玄関へ向かうとこちら側から開ける前に鍵が施錠される音がした。
「やあ」
ハリウッド女優と並んでも劣らないほどのスタイルと顔の造形を持つ美女が色気と共にかって知ったるといった様子でご機嫌そうに顔を覗かせた。その仕草も見た目も現在居る庶民的なうちの玄関からはとても浮いている。勿論何の連絡も受けていないし引っ越してからの住所も伝えていない。
「………いや、やあって何しに来たんですか冥さん」
「今日はオフだと聞いてね」
ふらつきながらもハイヒールそのままズンズンと廊下を進み遠慮なく入って寄りかかってくる彼女をなんとか支えてせっかく着替えたスーツに香水とアルコールの臭いが移らないようにしながらヒールを脱がす。
足元が相当ふらついているのと元が色白なのもあるのか顔のみでなく品がありつつも露出の高いイブニングドレスから覗くデコルテや二の腕もホンノリと赤みがかっていて相当呑んで来たのだと分かる。
「迷惑ですから他所に行くか帰ってくださいよ」
「いやぁ…ホントに…あの銘柄が良いって…」
ーーああ、めんどくせぇ
ブツブツと恐らく金融関連の単語を口にする彼女相手にまた苛立ちが募る。
自身には全く縁のないFXや株価取引なんかで普段500万溶かしてしまったなんてサラリと言ってのける彼女でも流石に動揺するほどの額の損をしたとき、よく呑んだくれた状態で押し掛けられて所謂ワンナイトの相手にされたことがかつて若いときに何度かあった。
「すいませんけど、今から呼び出しくらったんで」
「…んーー?」
「今から出なきゃいけないんで、タクシー呼びますし帰ってください」
耳元でハキハキと大声で完全に酔っ払い相手の口調で呼びかける。
「……分かった、ちょっと待ってくれ」
少し姿勢を正して帰ってくれるのかと思いきや、小さな革製のブランドバッグからスマホを取り出し何度かタップするとすぐさま投げ捨てた。
「安心したまえ、もう行く必要は無くなったよ」
「…………」
誰に何をどう連絡したのか分からないが明日には確実に噂のタネになってるであろう。
もっと早く連絡が入って外に出ていれば、どっちみち勝手に侵入されていたとはいえ、こうはならなかっただろう。
どうしてこうも先程からタッチの差で不幸な目に合うのか。
「いやいやホントに、行くなら七海や五条んとこに行ってくださいよ」
廊下からリビングにそして寝室へとズンズン侵入してゆく彼女をなんとか阻止しようとする。
せっかくの休日終わりだというのに出勤日の明日の朝に女の香りを纏って目覚めるのだけは御免だ。
「だって、変な勘違いや後腐れしないけど何かあったら責任取ってくれる男は私の知ってる中で君ぐらいなんだもの」
甘える声でおだてるように返されたが、要は単に都合のいい男という完全な悪口だった。
イブニングドレスの彼女にスーツ姿のままベッドに連行されて押し倒されズシッと捕獲されるように重い腰に跨がられると流石に反応してしまう。
「………うん?私の顔に何か付いているのかな?」
「いえ何も…」
異性として特別タイプという訳ではないが普段仕事での打ち合わせの際なども、この多文化国でない日本で中々目にしないそのヨーロピアンな美貌にどうしても一瞬見惚れてしまう。
一般的なスポーツの格闘技と同じで同じ1級術師といえど、体術的な面での男女差は勿論あるし何より向こうは酩酊状態だ。跨がられて自分も少しその気になってしまっているとはいえ、我を忘れて抱き潰そうと押し倒し返すほど盛んな歳じゃない。2人とももういい歳した大人だ。多少荒くなってしまうが無理にでも引き剥がした方が翌朝どころか今後のお互いのためだろう。
ひとまず冷静になろうとベッドサイドの小さなテーブルにかけている写真立てに目線を移そうとすると、まるで先手を打つように彼女の大きく綺麗な手に雑に倒された。
中に入っていた七五三参りのときの母親である妹と二人写っている写真と甥っ子が亡くなる2週間前に半ば家族サービスのような形で一緒に観に行った子供向けの映画のチケットが一緒にテーブルから派手な声をたてて落ち、一気に罪悪感に襲われる。
「……ホントに勘弁してくださいよ、俺にとって禊ぎみたいなものなんですよ」
「写真と映画のチケットがかい?フフ、相変わらず面白いオトコだねぇ」
上向いて覆っていた手を退けられて首を絞めるようにネクタイを引っぱられ、顔を合わせられる。
こんな映画でしか見たことのない行為もきっと他で沢山してきたのだろう。自然に慣れた手付きで無理して格好つけているような所がなかった。
「最近ご無沙汰なのかい?どうしようか私も今ゴム持ってないよ」
あぁ畜生、もうどうにでもなりやがれ
対して困ってもなさそうな口調でキョロキョロとベッドサイドを見回しサキュバスのような笑みを浮かべる彼女を前に、半ばヤケクソに諦めて放心しかけたが今しがた倒された写真立てから唐突に思考が回り迫ってきた上半身を押し返す。
「待ってください、そういや弟さん今どこにいるんですか?」
「んー?ホテルでひとり待たせてるよ」
「戻ってください」
急激に頭が覚め、肩と柔らかい胸を再び遠慮なく押し返した。
「なんだよ、姉離れのいい機会だろう?」
「こんな時間帯にひとり待たせてなにかあったらどうすんですか」
「そんな、まだまだ子供とはいえもう飴玉を喉に詰まらせるような年でもないよ」
今のは酔いゆえのものなのか本心から出た言葉なのか、どちらにしろその脚を暴力という形になってでもなんとかベッドから下ろさせようとするも、面白がるようにその両手首を掴んでベッドに貼り付けられる。
「七海とか…頼むから他の男のトコあたって下さい」
のし掛かる体重任せで力なんて一切入れていないすぐにでも振りほどけるような弱々しい縛りを受けたまま呟いた。子供を待たせている女ひとり帰せず別の男になすりつけるとは、正直こんなに自分が情けないとは思わなかった。
しかしそれよりも仮に飴玉を喉に詰まらせこそしないものの彼に何かしらあった時の責任をとるのが怖くてしかたがない。
もうこれ以上自分は同じ罪を背負って生きてはいけない。
「私も独りきりであの子をずっと見ているのにそんな…無責任な保護者呼ばわりはされたくないな」
腰を押し付けるように上下に淫らに振りながらの一向に変わらない口調での返答に頭に血が昇る。
「酒入れて男んとこ上がり込んでる間ホテルに放置なんて充分無責任で保護者失格なんだよ、今すぐ帰れ」
無愛想で可愛げがないが、その姿を目にする度、今はこれぐらい成長していたのかとどうしても目視で背丈を測ってしまう。子供といえど産まれたときから全く別世界の人間だったのだが、生死に関わるこの仕事を酷い現場や深夜帯などにも姉さ付きとして同行しているというのを聞くと余計と分かりつつも心配せずにはいられない。
誰も居ないとはいえ、いつもの明らかに歳相応でない型苦しそうな服を着たまま今もまだ背筋を伸ばして呑みに出かけた姉の帰りをひたすら待っているのか、それとも子供じみたパジャマを身に付けとっくに眠っているのか。どちらにしろホテルの室内でひとりそんな彼の姿を想像すると先程とは別の理性が働かなくなり、珍しく口調が荒くなり喧嘩腰になる。
「日下部君はさ…毎晩寝る前に毎朝起きた瞬間にも自身の禊としてアレを見てさ…」
暫し考えるように目線を泳がせた後髪の毛をかきあげて告げられる。
「なんとでも言ってくれて結構です。でも弟さんに何かあったときにその顔歪めて後悔してる貴女まで見たくない」
思わず強引に腕を振りほどきその綺麗な顔の頬に手を這わせる。気をつかってお金も費やしているのだろうが無理に若作りしていないその歳相応の綺麗な肌だった。
「うん……でもいいじゃないか今晩くらい君のことだけ見つめていても、君も今晩くらい私のことだけを見つめて感じておくれよ」
「…………」
ほら、それを言われると、私は退くしかない
決して甘えることを許してくれない無敵の言葉だ
私は欲の無い人間が物心ついた時から苦手だった。
そして対価や貸し借りなどを気にせずに他人を頼るという行為も考えただけで虫酸が走る。
それができる人間関係を気を許せる仲、とでもいうのだろうか、しかし十年来の仲だの実の兄弟姉妹だのという解釈も実のところ中々未だに腑に落ちていない。
なんの見返りも求めず期待せずに手を差しのべてくる人間が。金や女や博打や出世や勝利や…大っぴらに人前で話して感心されるものではないが、だからといってそれらを全く欲する気配が一切無い人間には人間味を感じず何処かアンドロイドじみてさえ見えた。
だからこそ昔から自身の保身のため大っぴらに良くも悪くも目立つような行動はせず大人しくこの業界に流されるがままの彼が好きだった。ブツブツ不満を漏らしながらも断れない急な残業に取り掛かったり、嫌煙派の世論が強まるなか窮屈そうに一服していた姿。一級術師となったのも教職に就いたのも、ひとつひとつ淡々と楽な人生を歩むためのスタンプラリーをこなしているようで堪らなかった。
それゆえ神様とは中々残酷なことをするものだ。まさかあんなにやつれる彼を目にすることになるとは思わなかった。
反逆的な人間やその身内が不慮の事故に合い後々あれは計画的なものだったと聞かされることは多いが彼に限ってそんな恨みを買う行為をしてきた人間ではないと断言できる。
妹さんでなくその息子である甥っ子というのも、そして存在しない息子を追うように妹さんも徐々におかしくなっていったというのも全てが酷だ。
それまで断りはするものの一応顔合わせ程度はしていた見合いもそれからは誰からの紹介だろうと確固として断り、その色っぽい手は煙草でなく棒キャンディーを持つようになり、酒の付き合いも断ち、浮いた噂も一切耳にしなくなった。
この業界身内が犠牲になり贖罪を償うため慈善活動のようにノーギャラ同然で仕事を請け負いだす人間は少なくない。そんな人間は一番苦手なタイプだったし大概が1ヶ月と持たずまるで吸い寄せられるかのように本人もご臨終となる。
そうなるのではと噂だった頃、彼らしいという意見も挟んだが、そんな日下部君は許せなかった。
今よりまだ小さくも言語も金融市場の知識も難なく姉である自分の為ならと吸収してゆく憂憂を前に何度も自身がこの子を失ったらどうなるか考えるようになった。自身も男に抱かれたり抱くことを自制し、酒やギャンブルを我慢するようになるのだろうか。そんな私は私といえるのか。
夜蛾正道のことを教えてあげた。耐えられなかったのは彼でも彼の妹さんでもなく私の方だったのだ。
そうしてようやく私の知ってる日下部君は帰ってきた。禁煙や見合いはそのままでもたまにの奢りでの呑みに喜んで付き合ってくれて遠慮なく生徒達の愚痴をこぼすそんな決して感心は出来ないけれど利己的で少しずるい日下部君が。一抹の嫉妬を彼の妹さんと甥っ子に覚えながらもその事に非常に安堵している自分に驚いた。