『あなたに逢えてよかった』――――――――
遠くにガーディの遠吠えを聞きながら、夜の廊下をたったと駆ける。
アオイは美術室を目指していた。
宿題をやろうと鞄を開けたら、筆箱が入っていなかったのだ。今日最後に受講したのは美術だった。デッサンの時に使って、そのまま忘れてしまったのだろう。
アカデミーは夜も開講している。とはいえ、昼に比べればやっぱり少しだけ静かだ。自分と同じような年の子どもが減り、社会人の生徒が多くなるからかもしれない。
だからアオイは気が付いた。
扉の向こうの鼻歌に。
「……?」
どこか聞き覚えのあるフレーズだった。今よりもずっと小さな頃、アオイはこの歌を聴いていた。なんとなくママを思い出し、懐かしい気持ちが込み上げる。
誰が歌ってるんだろう。男の人だ。美術室に通う何人かの生徒の顔を思い浮かべ、アオイは静かに美術室の扉を開けて——。
そして、入り口近くでクロッキー帳を携えるその人と目が合った。
「おや、アオイくんではないですか!」
「……ハッサク先生? おひとりですか?」
「ええ。誰もいなくて、びっくりしましたか」
いつも誰かしらがいて、思い思いに作品に打ち込んでいる。美術室にはそんなイメージがあったから、無人は確かに意外だった。
「こんな日もたまにはあるのですよ。今日は部活動もございませんでしたからね」
「先生は何してるんです?」
「あなたたちのデッサンを見ていたら、小生も描きたくなりまして。……もうこんな時間なのですね。夢中になりすぎて、時間を忘れておりました。ところで、アオイくんは何故ここに?」
「あ……えっと、忘れ物をしちゃって。筆箱なんですけど……ちょっと探してもいいですか?」
「構いませんとも。小生もお手伝いしましょうか」
言いながらさっそく手中のノートを机に置こうとする先生を、アオイは慌てて制した。
「いえ、大丈夫です! すぐ見つかると思うので!」
「そうですか? ……手が必要ならいつでもお声かけくださいね、小生はまだこちらにおりますので」
右腕にクロッキー帳を乗せ、再び入り口の彫像と向かい合う先生に軽く会釈をして、アオイは教室の奥へと足を向けた。
美術室には先生ひとり。ということは自動的に、鼻歌の主は先生だ。
時間を忘れてしまうくらい……ハミングするくらい楽しく絵を描いていたのだろう。邪魔するのは気が引けた。
(……そういえば、あの歌……続きはどんな感じだったっけ)
静まり返った教室に、先生の走らせる鉛筆の音だけが軽快に響く。
でもそれだけだった。アオイに遠慮しているのか、もうあの歌は聴こえない。
机の上に自らの筆箱を探しながら、アオイは記憶を手繰り寄せ、途切れてしまった歌の続きをなんとなく口ずさんだ。
「……〜〜♪」
メロディラインも歌詞もあやふやだったけれど、先生の音程を真似てハミングしているうちに、アオイはこの曲をどこで聴いたか思い出した。
今よりもずっと小さなころ、ママが夕食をつくりながら歌っていた。
茜色に染まるキッチン。リズミカルな包丁の音。ホシガリスと一緒に晩ご飯を待ちわびる小さな自分——懐かしく幸せな思い出に、自然と頬が緩む。
(……あ、あったあった)
お目当てはすぐに見つかった。
作品の影に隠れていた筆箱を手に、アオイは再び出入り口の方へ体を向ける。
すると、ぱちりと先生と視線が合った。なんだか驚いたような顔をしている。
「……聴いてらっしゃったのですか?」
「え、……あっ。ご、ごめんなさい。美術室に入る前に聴こえてきて……懐かしかったから、つい」
「懐かしい、ですか」
「えっと、ママが前に歌ってたのを思い出して。それで……」
先生にじっと見つめられて、アオイは思わず目を逸らしてしまった。
——聞いちゃいけないものを盗み聞きしてしまったような気がして、追加でごめんなさいと謝った。すると先生はふっと目元を緩め、首を振る。
「いえいえ、咎めている訳ではありませんですよ。……そうですか、ご母堂が。いやはや、憶えてらっしゃる方もいるものですね……」
先生はなんだか照れくさそうな、バツの悪そうな顔をして、鉛筆の頭でこめかみをとんとんと叩いた。
「……アオイくん、あなたは……今の歌をどう思われますか?」
「えっ? 好きですよ。ママのおいしいご飯のこととか思い出します!」
「そうですか。……そうでしたか、あの歌が……誰かの幸せな思い出の一部になれたのですね」
「……先生?」
「……。……すみませんですよ。小生もすこし、懐かしい気持ちになりまして」
そう言いながら、先生はかすかに微笑んだ。——アオイと目を合わせてはいるが、琥珀色の瞳はアオイの手の届かない、遥か彼方を見つめているようだった。
「あれは、もうずいぶん昔……『とある若者』が路上で歌っていた曲なのです。知っているのはほんの数人だけのはずなのですが……まさか、あなたから聴けるとは思いもよりませんでした。いやはや、すごい偶然もあるものです」
思い出を懐かしむようなしみじみとした口ぶりの中に、ほんの少しだけ寂しそうな響きがあった。
――アオイはふと思い出す。いつかの日、エントランスで教えてもらったハッサク先生の昔の話。
音楽で食っていく。そう宣言して故郷を飛び出したこと。
その後「なんやかんや」があって、このアカデミーで美術を教える先生になったこと。リーグ四天王となったこと……。
「……あの、先生。……『とある若者』って、もしかして、」
先生のことなんですか。
そうアオイは訊こうとして、けれども続きを呑み込んだ。
——自分を見下ろす先生の、どこか寂しげな微笑みに、アオイは胸がきゅっと締まった。
続きを言葉にする代わり、彼の近くへと歩み寄る。
手を伸ばし、そっと、緑色の裾を捕まえる。
「……アオイくん?」
先生が少し戸惑ったように、アオイを呼んだ。
それでもアオイは離さなかった。
何かを。——何かを言わなければいけない気がした。
先生が曖昧に濁した過去をほじくるのではなく、もっと別の――彼の心を『今この場所』に縫い留めておくための何かを。
でなければ、普段の元気いっぱいさが嘘のように儚く笑うこの人が、遠く遥かな思い出に連れ去られてしまうような気がした。
そんなのは、嫌だった。
「あの、私……! ……先生が先生で、よかったです!」
静かな美術室に渾身の叫びが響き渡った。
木霊のように反響する自分の声を聴いて、——アオイの頬が赤くなる。
先生からしてみれば、急に何を言い出すんだと思われても仕方が無い突拍子もない台詞だと、言ってしまってから気が付いた。なんだか急に恥ずかしくなって、アオイは俯いてしまう。
数秒の間無言が続いた。いたたまれなくなって、アオイは裾を離そうとした。
その手を、あたたかな感触がそっと包んだ。
「……あなたはいつもそうやって、小生を救ってくださいますね」
――いつの間にか、先生はノートも鉛筆も机の上に置いていた。
アオイよりずっと大きな両手で、小さなこの手を包むように握り込む。
先生の手は大きくて、思ったよりも硬かった。こどもの自分の手にはない感触に、先生の歩んできた時の長さをアオイは感じた。
大人の男のひとの手だ。そう思った時、なぜか心臓がどきんと跳ねた。
「アオイくん」
「は、はい」
……跳ねた心臓がなかなか元の位置に戻らなくて、返事が少し上擦った。
顔、上げなくちゃ。先生が話しているのだから、ちゃんと目を見て聞かなくちゃ。
そう思いつつも、アオイの首はかちこちに固まってしまって動かない。
そうしていると、上から先生の声が降ってきた。
「小生は……今でも音楽を愛しております。ですが、教師になったことを悔んだ日などございません。……どこへも行ったりしませんですよ」
「――! ハッサク先生……」
「はい、ハッサク先生です。先生はずっと先生ですよ。今までも、これからも」
――『やめないで』。
アオイが『あの時』と同じきもちになったことを、先生は見抜いたのだろう。
どこにも行かない。その一言が嬉しくて、どうしようもなく嬉しくて、アオイは心臓がまだどきどきしているのも構わずに、パッと顔を上げた。
握り込んだ手を撫でながら、先生はアオイを見詰めて微笑んでいた。
「教師になってよかった。そう心から思いますですよ。でなければ、小生はあなたに出逢わなかった。……時を越えてこんな風に救われることも、なかったでしょうからね」
……先生は音楽の道を志し、「なんやかんや」の後に先生になった。
濁されたその「なんやかんや」に、寂し気な顔の理由があるのかもしれない。
自分の知らない先生の過去。
興味がないと言えば嘘になる。
でも今は、これ以上は聞かない。訊かなくていい。
そんなことより――それよりももっと、彼に伝えるべき言葉がある。
そう思った。
「私も……先生に会えてよかったです」
永遠の夕陽を飴玉の中に閉じ込めたような、黄昏色の目を見上げ、アオイは先生に笑顔を返す。
「アカデミーで、ハッサク先生に逢えてよかった。先生の授業を聞いて、こうやってお話して、ポケモン勝負したりして……先生と一緒にいると、毎日、すっごく楽しいから! だから先生――、」
夕焼けのような、宝石のような、ずっと見つめていたくなるような不思議な色の先生の目が、少しだけ見開かれたように見えた。
「先生が先生で、よかった。……先生になってくれて、ありがとうございました!」
「……!」
今度はさっきと逆だった。にっこりと見詰めるアオイの視線から逃れるように先生はばっと俯き、目元を手で覆った。
「あ、……アオイくん……! あなたという生徒は……!!」
それが泣き出してしまう直前の動作であることをアオイは既に知っている。
ハンカチ持ってきてたかな、とズボンのポケットを探る。
その時、ふと目の前が暗く陰った。
アオイがポケットからもう一度視線を先生に戻すと――ゆらあ、と、先生の体が前に倒れてくる所だった。
「、、――――ぐッッ!!!」
「ふーーーーーっっっ!!!?」
がばーっ、と音がしそうな勢いでアオイは先生に抱き締められた。
どきーっ、とこれまた音がしそうなほど大きくアオイの心臓が跳ねた。あんまりびっくりしたものだから、せっかく取りにきた筆箱をどこかへ放り投げてしまった。
「せっ、せせせせ先生!!!? どどど、どうしたんですか!!」
「ず、ずぜ……! 小゛生゛、感゛極゛って゛……!! ありがとうアオイくん、小生もあなたのような生徒に出会えて本当に……嬉゛し゛と゛……!! ……う゛、」
「せ、せんせ」
「う……う……――――うぼおおおぉぉいおいおいおいおいおい!!ぉぃぉぃぉぃぉぃぉぃ………」
――大人の男のひとの大きな体が、力強い腕が、アオイの小さく華奢な体を強く強く抱き締める。そのまま先生はおーいおいと泣き続けた。
鼓膜が痛い。あと正直ちょっと苦しい。
……でもアオイはその苦しさが、どうしてか嫌ではない。
「……ハッサク先生、」
小さな体に縋りつく先生の背中を、アオイは抱き締め返した。
「な……泣かないで、先生。いいこ、いいこ……」
ポピーの口調を真似ながら、けれどアオイは心の中で、正反対のことを願った。先生に嘘はつきたくなかったけど、本当の気持ちを言ってしまえばきっと怒られてしまうから。
(――悪い子だ、わたし。……このまま先生がずっと泣き止まなければいいのに、なんて)
先生の胸の音と、いつまでもどきどきと逸る自分の胸の音を聞きながら、アオイは大好きな先生の大きな背中を、ずっと優しく撫で続けた。