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    藻屑の倉庫

    @mokuzu_sv

    キャラ解釈と書き手の趣味(9割後者)によりR-18系のハサ主♀は結婚済・aoi卒業/成人済でお送りします

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    藻屑の倉庫

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    八尺様パロな🍊💙。何でもいい人向けです。

    『姉なんていなかった』――――――――――――――――










     蝉が鳴いている。
     蝉が鳴いている。

     僕の頭の中に、ずっとこびりついている。


     ◆


     バスの降り口が開いた途端、ぬるく湿った風が僕を包んだ。昨日は雨だったのかもしれない。降り立った地面は少しやわらかくて、路傍からは雨露を纏った野草の青い香りと、水を孕んだ土のにおいがした。
     嗅ぎ慣れたふるさとの匂いだった。ほんの数年しか離れていなかったのに、ずいぶん懐かしい感じがする。
     たった一人の乗客だった僕を降ろし、バスはのろのろと来た道を戻っていく。砂利道に揺れる『回送』の文字がだんだんと遠ざかるのを眺めながら、僕は急に不安になった。村に立ち寄るバスは一日一本。こんな辺鄙な場所まで来てくれるだけマシなのかもしれないが、これで僕は完全に、今日中に市街地へ戻ることはできなくなった。
     はたして、家族は僕を家に泊めてくれるだろうか。むしろ、家に上がらせてくれるだろうか――いや。大丈夫な筈だ。「向こう十年は帰ってくるな」、その言葉を翻して帰ってこいと言ったのは他ならぬじいちゃんなんだから。
     そう自分を納得させて家へ向かおうとすると、
     くしゃり
     ……と、一歩めで何かを踏んづけた。
     誰かが捨てたお菓子のゴミだ。
     田舎道を覆う下生えの中に転々と、この辺の駄菓子屋じゃ買えないようなお菓子のゴミが落ちていた。面白半分で心霊スポットに来るような人たちが捨てていったものだろう。故郷を汚された腹立たしさより、やるせなさの方が先立った。この村を心霊スポットにしてしまった原因の一端は僕にもあるからだ。
     ゴミを拾いながら、僕は歩き出した。
     泥に塗れたスナック菓子の残骸を、投げ捨てられた空き缶を、何度も踏みつけられて歪んだ飴玉の包み紙を、ひとつずつ拾って、これもまた落ちていたビニール袋――多分、市街地にしかないコンビニのレジ袋だ――に詰め込んでいく。

     ……蝉が鳴いている。
     村の周りをぐるりと山が取り囲んでいるせいか、遠くから、近くから、この村のいたる所から、蝉の鳴き声が聴こえてくる。
     それがことさら暑さを煽る。ゴミを拾い始めて数分、はやくも汗だくになった僕はうんざりした気持ちになった。袋がいっぱいになった辺りで、それ以上拾うのは諦めた。キリがない。

     蝉が鳴いている。
     ぶらぶらとゴミ袋を揺らしながら歩く僕を、蝉の合唱が取り巻いている。
     無駄だと分かっていても、うるさいと叫んでしまいたくなる。
     うるさい。うるさい。蝉がうるさい。胸に込み上げる帰郷の感慨さえ塗りつぶしてしまう程にうるさい。
     小さな頃から虫なんて慣れっこだけれど、蝉だけは我慢がならない。
     嫌いだ。
     蝉なんて大嫌いだ。
     耳を塞いだ。地響きのようななきごえを無視するように、俯いて歩いた。

     蝉の鳴き声はいつまでも僕の背中を追いかけてきた。

     ◆

    「あんた――どうして帰ってきたの!」

     玄関で顔を合わせるなり、母は声を荒げてそう言った。
     その顔に浮かんでいるのは、怒りではなくただ深い狼狽だった。

    「おじいちゃんに言われたこと忘れたの? 少なくとも十年は戻ってくるなって言われたでしょう!」

     久しぶりに顔を合わせたというのにただいまもおかえりも親子らしい会話は何もなく、母は慌てた様子で僕を家の中に引っ張り込んだ。
     荒っぽくドアを閉めて、すぐさま鍵をかける。まるで誰かに僕を見られることを恐れているみたいに。
     母に強引に引っ張られる形で、僕は土間を抜け家の中に足を踏み入れた。なぜか外よりもいっそう強く蝉の声を感じる。出窓の裏側に一匹の蝉がへばりついているのをうんざりと眺めながら、そのじいちゃんに呼ばれたのだと伝えると、母は半信半疑で「私はそんなの聞いてない」と呟いた。
     この暑さにも関わらず真っ青な顔の母に向け、僕はスマホの画面をかざす。先日、祖父から受け取ったメールを見せるためだ。

    『やっと とりもどす 準備 できた。
     かえってこい 繧「繧ェ繧、』

     機械に不慣れなじいちゃんが、なんとか打ったであろうメッセージ。文末は意味不明の文字が並んでいるが、たぶん僕の機種が対応していない絵文字でも送ってきたんだろう。
     画面を見ていた母の眉間に、その困惑を表すかのようにみるみる皴が刻まれる。
     一見、何を言いたいのか全く意味の分からない文面である。僕だって、貰った瞬間は母と同じ顔をした。けれど、すぐにじいちゃんが何を言いたいのか理解した。
     すぐに思い当たった。じいちゃん達が、僕が、母が、ずっと取り戻したいもの。
     あの日の夜に失ったもの。二度と帰らぬはずのもの。
     窓に張り付いた蝉の声が、黙り込んだ僕らの周りを劈いて響き渡る。
     ……こんな風に蝉のうるさいあの夏の日に、『あの子』はいなくなった。
     母さんは信じられないという表情を浮かべて、困惑の中にその心を置いたまま、僕の肩を掴んで言った。

    「……おじいちゃんと、おばあちゃんを呼んでくる。あんたはここにいなさい」

     訊けば祖父母はこの時期は、日暮れまで山仕事に出掛けているらしい。そして山仕事に出向くとき、かれらは携帯を持ち歩かないという。話をするには彼らの仕事場まで直接赴く必要がある。
     祖父はどういうつもりでこのメールを僕に寄越したのか。準備とは何か。『あの子』は本当に取り戻せるのか。僕だって、祖父の意図を知りたかった。でも僕が山に入るのを、母は絶対に認めなかった。
     ……僕ひとりをここに残すことも躊躇っていたようだが、山に入らせるよりはマシだと思ったのだろう。

    「絶対に外に出ちゃだめよ。お願いだからここにいてね、……ハルト」

     そう言い残して、母は祖父母を呼びに家を出た。
     震える母の唇から零れた言葉に、縋るような哀れな響きが滲んでいた。
     母はあの日から山をずっと恐れているのだろう。
    『あの子』が消えたあの日から。
     八年前、あの子が――アオイが僕らの前から姿を消した、あの日から。

     ◆

     蝉がないている。
     蝉がないている。

     ◆

     蒸し暑い夏の日暮れ時。
     学校からの帰り道、そこかしこで鳴く蝉に紛れて、不思議な声をアオイは聞いた。
    「うぼぼ」とか、「ぼぼぼ」とか、声とも音ともつかない曖昧な空気の揺れが、急に頭の上から降って来たのだ。
     不思議に思って顔を上げると、塀の向こうに男の人が立っていて、アオイをじっと見下ろしていた。
     大きな人だった。こどものアオイにしてみればその塀だって相当に大きく感じたのに、その男の人はそれよりもずっと背が高かった。
     アオイは、その場から動けなくなった。
     その人が、とっても綺麗だったからだ。
     まっしろな帽子の下、お日様みたいにきらきらした金色の長い髪が揺れて、夕焼け空の色の目が、うつろにアオイを見つめていた。
     なぜかは分からないけれど、アオイはそれが嬉しかった。もっと見てほしいと思った。もっと彼の近くにいきたいと思った。彼の近くにいたいと思った。
     その人は塀の向こうから、アオイに向けて手を伸ばした。
     男の人の口が割れて、また「ぼぼぼ」という声が聞こえた。笑ったのだろうか、夕焼け空の色よりも真っ赤な口の中が見えた。それも、とても綺麗だった。
     伸ばされた大きな左腕を、ちいさな両手でつかまえた。そして、男の人を見上げて、「ぼぼぼ!」と彼を真似て笑った。
     大きな男の人は、なぜかひどく驚いていた。夕焼け空の目がにじんで、ぼたりと大きな涙が零れ落ちた。ぼぼお、うぼおい。蝉の鳴き声に混じって、男の人の泣く声が地鳴りのようにアオイの胸に響いた。とつぜん泣き出した男の人にびっくりして、アオイは慌てた。どうしたの、とか、だいじょうぶ?とか、なかないで、とか、いっしょにいるよ、とか、泣き止ませるために、とにかく優しい言葉を投げかけた。
     男の人は一度、大きな大きな、リコーダーみたいにおおきな指で、アオイの頭を優しく撫でた。
     そしてポケットからハンカチを取り出そうと一瞬目線を逸らした間に、煙のように消えてしまった。
     あたりを見渡しても、塀によじ上ってみても、どこにもあの人の姿はなかった。

     蝉がないている。
     蝉がないている。

     アオイの中に、蝉の声に混じって聞こえたあの人のおおきな泣き声が、ずっとこびりついていた。


     ◆


     ——小さな頃のアオイの声が、今なお鮮明に心のなかに蘇る。


     ねぇねぇ、ハルト。今日ね、ふしぎなひとに会ったの。
     どんなひと?
     すっごく大きい男のひと。あの塀よりも大きかった。
     そんなひと、いるはずないよ。
     でも、わたしお話したもん。うぼ、うぼぼって、何言ってるかわかんなかったけど。
     外国のひと?
     そうかも。あのね、とってもきれいな金色のかみでね。わたしがぼぼぼ!ってまねしたら、とつぜん泣きだしちゃったんだ。
     なにそれ、へんなの。そのひとそれからどうしたの?
     どっかいっちゃった。ねえハルト、あのひとちゃんと泣きやんだかなあ。
     ……しらない。アオイ、もう忘れなよ。そんなへんなひとのことなんて……。



    「だめだよ」



     ——心臓が、ばくんと跳ねた。
     ただの思い出の筈なのに、まるですぐそばでアオイに囁かれているような気がした。
     思わず家の中を見渡した。
     当たり前だけど、そこには誰もいなかった。
     無意識に、僕はズボンの裾をきつく握り締めていた。
     ……蝉が。蝉が、鳴いている。
     さっきまで窓に張り付いていた蝉がいつの間にかいなくなっている。
     見に行くと地面にぽとり落ちているそれが、力なく肢をわななかせ、空虚な瞳で僕を見つめて、最後の力を振り絞るように鳴いている。
     蝉が鳴く。末期の声を張り上げて。命の最後のなきごえに重なって、懐かしい姉の幻聴が聞こえてくる。

    「あのひとのところへいかなくちゃ」

     ふらふらとパジャマのまま部屋から出ていく姉を、小さな僕は追い掛けなかった。寝ぼけているだけだと思ったから。夢見心地でトイレにでも行ったんだ、きっとすぐに戻ってくるって。

     けれども、アオイは二度と僕らの家に戻らなかった。
     ……あの時。アオイをふん縛ってでも家の外に出さなかったら。
     アオイが出遭ってしまったモノが、この地に旧くから伝わる忌わしき化け物だと気付いていたら。
     今でもアオイはここにいてくれたのだろうか。
     僕の隣に。この家に。

    「……」

     家を出るな。そう母に言われた事も頭になく、ふらふらと玄関へと向かった。
     アオイの面影を感じる場所に留まっていたくなかった。それに——、じっとしてなんていられなかった。

    『やっと とりもどす 準備 できた。
     かえってこい 繧「繧ェ繧、』

     ——祖父からのメールを思い出す。
     そうだ。僕は取り戻すのだ。そのために僕は帰ってきた。
     姉を。アオイを取り還すためにここへきた。
     リュックを背負い直して、僕は家を飛び出した。
     行かなくちゃ。
     山へ——【ハッサクサマ】のところへ。

    「……行かなくちゃ」

     こぼれ出た言葉はどこか懐かしい響きで、僕の胸を締め付けた。

     ◆

     ――【ハッサクサマ】。あるいは八朔様、ハッシャクサマ、ホヅミノカミ。
     それは僕の村に代々語り継がれているおそろしい伝承。少女を山へと拐う異形の伝説。
     所謂『口裂け女』や『花子さん』のような多くの人間が知る話ではない。それでも僕の村に住む者は、みんなハッサクサマを知っている。
     ……僕はあれを、寝物語に聞かされるお伽噺だと思っていた。悪さをするとハッサクサマが来る。子どもらに言うことを聞かせるために、大人たちが考えた空想の存在なのだと。
     だから信じなかった。
     だから姉は拐われた。
     姉が消えたあと母は深く悲しんだ。何日も何日も泣き叫び、やつれ、憔悴し、顔の似ている僕を姉そのものと思い込んで、『いかないでアオイ。おねがいだからここにいて』、と僕を抱き締めて離さなかった。
     アオイに似た僕まで狙われるかもしれないと思ったのか、じいちゃんは僕にちょっとしたお祓いを受けさせてから、僕を遠い町へと送り出した。
    『落ち着くまで向こう十年は帰ってくるな、手紙を寄越したり電話を掛けたりもするな。絶対にこっちのものと縁を結ぶな』と、それは恐ろしい顔で言われたものだ。
     母は悲しんだ。祖母は怯え、祖父はただ怒っていた。
     僕のせいだ。僕のせいでアオイは消え、消えたアオイのことをクラスメートが『ハッサクサマの神隠し』と面白おかしくSNSに流した結果、僕の故郷はオカルト好きの配信者連中に呪われた村として知られてしまった。
     いくつも茶番じみた動画が出回った。荒れた祠。壊された地蔵。原因不明の悪寒と幻聴、不気味な笑い声に行方不明の出演者。僕は村が匿名の興味と好奇に踏みにじられていく様を、ふざけたテロップ越しに見ることしかできなかった。今ではほとんど非公開になっているが、それでも未だに面白半分でこの村を訪ねるよそ者がいることを、道端に投げ捨てられているゴミの多さで察した。
     全部僕のせいだ。そう思った。
     じいちゃんに言われるまでもなく、罪悪感が僕から家族へ連絡する気持ちを奪った。
     ……でも。
     あの夜のことを忘れた日は一日だってなかった。
     ずっと。ずうっと。あの日に聞いた蝉の声が、僕の中にわんわんと響いているのだ。
     新しい町で学校に通いながら、僕はアオイを取り戻す方法を探した。
     血眼になってハッサクサマのことを調べて回った。
     近隣の図書館という図書館に通いつめ、僕の村を含めたこの地方の郷土史から眉唾物のオカルト本まで、関わりがありそうなものを片っ端から読み漁った。
     アオイのために。僕がアオイを取り戻すために。
     僕はなんとしてもハッサクサマに会わなければならなかった。
     じいちゃんも母さんも薄情だ。『全て忘れろ』だとか、『どうか新しい人生を生きて』だとか。忘れられるわけがないのに。絶対に忘れてはいけないのに。
     だって忘れてしまったら、僕はアオイを永遠に喪ってしまう。そうなったら、ひとりぼっちになってしまうじゃないか。
     学校と図書館を往復する毎日だった。そんな僕をなぜか好きになってくれる物好きが結構いた。
     調べものに疲れ果てた時、気晴らしにその内の何人かと付き合ってもみたけれど、全部うまく行かなかった。デートらしいデートもせず、休日と言えば図書館に籠り切りの僕が愛想を尽かされるのも当然のことで、ほどなく付き合った全員と数日で連絡が取れなくなった。

     村から出てからもずっと僕はハッサクサマに囚われていた。
     来る日も来る日もハッサクサマのことを考え続けた。
     そうしてやっと見つけ出した。海辺近くのある町の図書館で、とうとう僕は見つけた。
     アオイへの手がかり。
    『ハッサクサマ』の由来となった物語――、

     海より来たりて娘を攫う、おそろしい竜神のお話を。

     ◆

     ――心霊スポットとして知られる前から僕の村は過疎化が進み、村のあちこちに空き家があった。
     誰も住んでいない家。誰の気配もしない家。誰かが住むために生まれたのに、その役目を果たせず朽ちることしかできない場所というのは、子供心に物寂しくて、不気味で、見るとなんとなく悲しい気持ちになったのを覚えている。
     家を飛び出し、走り続ける事数分。
     僕はとある寂れた空き家の前にたどり着いた。正確に言えば空き家をぐるりと囲う、背の高い塀の真ん前に。
     そこにはとある行方不明児童のチラシが貼られている。
     色褪せ、擦り切れ、もはや誰かも分からないほど風化した紙面の中に、かろうじて三つ編みだけがわかるぼやけた姿の少女が写っている。

     アオイはここでハッサクサマに会った。

    「……アオイ」

     塀に手をかけて、僕はかつて僕の半身だった少女の名前を呟いた。
     あの海辺の図書館で見つけた、ハッサクサマと非常によく似た逸話が記された本――その中で、それは『八朔比丘』と呼ばれていた。
     人魚を食らった八尾比丘尼さながら、竜神の肉を喰らって不死になった人間だとも、或いは竜神そのものとも言われている、月色の髪に落ちた陽の色の瞳が炯々と煌めく、翡翠の装束に身を包んだ——こどもを攫う大男の異形。
     アオイが見た『ハッサクサマ』は白い服だった。ここに伝わる話とは出で立ちが違う。他の地域に伝わる『こどもを攫う白い服の怪異』と混同されて語られるうちに、すこしずつ姿かたちが変わってきたのかもしれない。

    「アオイ」

     もう一度彼女の名を呼んだ。さっきよりもはっきりと、この場にいない者にも届くように。
     アオイはここでハッサクサマに会った。
     出会って、魅入られ、そして山に連れていかれた。
     彼の『ツガイ』になるために。

    「アオイ」

     恐ろしく古びたその本は、かの土地に古来から語り継がれる伝承を纏めたものだった。
     装丁は崩壊寸前で、補修用のテープをビタビタに貼り付けられてかろうじて本のかたちを守っていた。一体書かれてから何年、何十年、下手したら何百年の時が過ぎているのか、中のページもシミだらけで、当時の印刷技術の限界を思わせるように、文字は所どころ滲んで潰れてしまっていた。
     その中でもマシな文字を拾い上げ、長い時間を掛けて僕は『八朔比丘』の物語を読み進めた。本を見つけ出してくれた司書に不気味がられるくらい読み込んで分かった。――『八朔比丘』がなぜ娘を攫うのか。

    『八朔比丘』にはかつてひとりの番がいた。
    『八朔比丘』は深く番を愛したが、結ばれてすぐに番は寿命で死んでしまった。
     彼女は人間だったからだ。
     番を喪ってほどなく、『八朔比丘』は集落の娘を攫うようになる。
     はじめは海の神として奉じられていた彼は幾度も子を攫ううちに民からの信仰を喪い、やがて守り神から子を海へと攫うおそろしい化け物へと在り方を変える。
     時には教師に化け、時には里長に成り代わり、人に変じて世に潜み、『八朔比丘』は娘を海へと連れ還る。

     八朔比丘に攫われる娘は、記録に残る限りすべて共通した名を持っている。
     八朔比丘は闇雲に子どもを攫うのではなく、彼が喪った『最初の番』の生まれ変わりを取り戻そうとしているのだとされている。

     やがてその海辺の集落では、その名前は忌み名となった。
     その名を娘に与えてはならない。彼に『呼ばれて』しまうから。
    『彼を呼んでしまうから』。

     文字同様ところどころ滲んだ版画で刷られた挿絵の中、やさしげに微笑む一人の男の姿を思い出しながら、――僕はそっと姉の三つ編みを指で撫でて、姉を呼んだ。
     その忌み名を。彼の地では決して口にしてはいけない名を。


    「『アオイ』」


     ——ぬるい風が吹いて、髪が肌の上を揺れるくすぐったさに目を瞑ったときだった。
     蝉の鳴き声に混じって、声が降ってきた。
     水の中で喋ったときのような、地鳴りのような声が、「ぼぼぼ」、と僕を笑った。

     目を開け、首を上に傾けた僕の視界に、彼はいた。

     真っ白な帽子。真っ白な服。塀よりも高い大男——『ハッサクサマ』が、僕をじっと見下ろしていた。

    「――ッ……!」

     ドクドクと胸の拍動が速まり、一瞬で口の中がカラカラになる。得体の知れない感覚がざわざわとお腹の奥に広がっていく。
     震えそうになるのを、僕は硬く握りこぶしをつくって耐えた。
     怖くなんかない。怖がっている場合じゃない。
     僕は自分の意思で彼を『呼んだ』のだ。
     僕の姉の名前を。彼のかつての番と同じ、彼にかつて攫われた少女たちと同じ『アオイ』という名を使って。


    「……『ハッサクサマ』……!」


     僕がその名前を口にすると、『ハッサクサマ』は塀越しに目を細めた。笑ったのだろうか。化け物の笑顔を認めた瞬間、心臓がどきんと大きく跳ねた。背中から腰を寒気が下る。
     こいつだ。こいつが、アオイを攫った。僕から僕の半身を奪った。
     落ち掛けの陽を受け、暗い朱色に染まった大男を睨んで唸るように言った。

    「あ、……アオイを、かえせ……!」

    『ハッサクサマ』が大きすぎるせいか、僕を見下ろすその顔には、色濃い蔭が落ちている。
     どんな表情をしているのか全く読めない。それでも不思議なことには、暗い蔭の中でもその瞳だけは奇妙な琥珀の光を湛え、爛々とかがやいているのだった。
     かがやく瞳は未だ細められたまま僕を見つめている。
     宇宙の深淵でまたたく星のように遥かで遠く、巨きいその目に、……不意に、母さんが僕やアオイを見つめるときの優しいまなざしを思い出して、僕は戸惑った。

    「あ……アオイはどこだ。どこにやったんだ!」

     困惑を振り払うように、大声を張り上げる。
    『ハッサクサマ』は細めた目を少しだけ開いた、ように見えた。
     蔭にうずもれた黒い体が黄昏のなかでふるりと揺らぐ。塀の向こうから、その巨大な体躯に見合った長く大きな腕が、塀を乗り越えて僕のもとへと差し出される。
     掴まえられる。咄嗟に僕は身構えて、飛び後退った。
     けれど『ハッサクサマ』は僕を捕えようとしなかった。人差し指を一本だけ僕に真っ直ぐ向けて、また「ぼぼぼ」と言った。
     意味がわからなくて、僕は何も言えなくなった。『ハッサクサマ』は腕を引っ込めると、塀の向こうへ姿を消した。

    「まッ……待て!」

     僕は慌てて塀をよじ上った。『ハッサクサマ』は塀の向こうへ、その空き家の中へ——ではなく、廃れた家屋のさらに奥の、山へと続く木立の中へ、庭を通って消えて行った。
    『山』。——『ハッサクサマ』の出ずる場所。
     きっと、アオイもそこにいる。

     ――『八朔比丘』は番の魂を求めて海より現れ娘を攫う。

    『八朔比丘』と『ハッサクサマ』が同じものなら、『ハッサクサマ』はきっとアオイの中にかつての番の魂を見つけ出した。だからアオイを攫ったんだ。
     番を喪い狂った竜が、どうして海を捨て僕らの山へ住み着いたのかは分からない。でも、理由なんてもはやどうでもよかった。
     あの化け物を追いかければアオイに会える。僕はアオイを取り戻せる。
     そうすれば、ひとりぼっちじゃなくなる。
     迷いなく僕は塀を越え、廃屋の脇を走り抜けて、ハッサクサマを追いかけた。

     ◆

     黄昏の山に常夜が満ちる。
     まるでこの場所だけ光を失ったみたいに。
     まるでこの場所だけお天道様に見放されたみたいに。

     立ち止まって見上げた空は、闇を塗りたくったような暗い緑に覆われていた。
     枝葉が天に蓋をして、見渡す限りに濃く深い影を森の中に落しているのだ。かろうじて差し込む夕陽も下生えに飲み込まれ、陰鬱な雰囲気を晴らすには至らない。
     ――山に飛び込んだはいいものの、ハッサクサマの姿は見当たらなかった。あんな目立つ姿なのだから、きっとすぐに見つかると思っていたのに。
     風が梢の隙間を吹き抜けて、ざわわと不気味に森が揺れた。枝葉の揺れがそこかしこで鳴いている蝉の声と混じって、森そのものが嗤っているような、薄気味悪い錯覚に囚われる。
     感情のまま突っ走ってしまったことを後悔しかけたその時、突如スマホが振動した。
     画面を見る。祖父からだった。そうだ、じいちゃんは今ばあちゃんとこの山に入っている。もう既に母とも落ち合った頃だろう。もしかしたらみんなと合流できるかもしれない。僕は天の助けと通話ボタンを押した。

    「もしもし、じいちゃん?久しぶ……」
    『ハルト!! この馬鹿孫め、今どこだ!!』

     ……僕の声にかぶさるように、怒号が耳元に轟いた。八年ぶりに聴くじいちゃんの声に懐かしさを覚えたけれど、今はそれを伝える時間も惜しかった。
    『ハッサクサマ』を見たこと。彼を追いかけて山にいること。それを端的に伝えると、じいちゃんは言葉を失ったように一拍押し黙った。空白の時間に母の取り乱したような悲鳴と、母を落ち着かせようとする祖母の声が聞こえた。
     電話の向こうの異様な雰囲気が気になったが、どうかしたのか、と問いかけるより先にじいちゃんが『早く戻れ!』と叫ぶ。僕は反射的に抗った。

    「だめだ。アオイを取り戻すまで僕は帰らない!」
    『何を馬鹿なことを……!』
    「馬鹿なことじゃない! それより、じいちゃん達は今何処に――」

     ――どこにいるんだ。そう言おうとした時、通話口で微かに聞き馴染みのある音楽が聞こえた。子供のころ、日暮れ時によく聞いたメロディ。防災無線だ。しまった、と思った。山仕事のとき、携帯電話を持たない祖父から着信があった時点で気付くべきだった。みんなはもう僕と入れ違いに山を降り、家に帰っている。

    『……頼む……戻ってこい、戻ってきてくれ……』

     ふと、怒りの圧が消え、代わりに焦りの滲む声でじいちゃんは言った。何かを懇願するように。「お願いだからここにいて、」そう僕を家に残していった時の母によく似ていた声だった。
     何故だか胸が苦しくなった。僕は今じいちゃん達を困らせようとしている。悲しませようとしている。それも、決して取り返しのつかない方法で――なぜだか、そんな気分になった。

    「……だめだよ。もう、戻れない」

     合流できなかった事に気落ちはしたが、それでも僕に今更ひとりで戻る選択肢なんてない。
     僕はスマホを握りしめて言った。

    「ねえ、じいちゃん、教えてよ。『アオイを取り戻す方法』って、何なんだ」
    『……』

     じいちゃんは再び黙り込んだ。
     母の悲鳴混じりの泣き声が聞こえる。アオイ。アオイ。泣きながら母は姉の名を呼び、その声にばあちゃんのすすり泣く声が重なる。
     僕は母さんたちが何故泣いているのか分からなかった。だって、今こそアオイが戻ってくるんだ。悲しいことなんて何一つない。
     無い筈だ。

    「僕さ、村を出てからたくさん調べたんだよ。『ハッサクサマ』のこと……アオイを取り戻す手掛かりにならないか、って」
    『……』
    「聞いて、じいちゃん。『ハッサクサマ』は『八朔比丘』だ。海辺の町の『八朔比丘』って竜神様の逸話に、とてもよく似てるんだ。海で生まれて、どうしてか今は僕らの山に棲みついてる。どっちも、女の子を攫うんだ。死に別れた番の生まれ変わりを求めて、女の子を攫うんだ」
    『……』

     アオイを取り戻す為に必死になって集めた『ハッサクサマ』の手がかりを伝えても、じいちゃんは喋らない。
     ――代わりに、ぎしりと何かが軋む音が聞こえた。スマホを強く掴んだのか、それとも歯を食いしばったのか。
     僕は知らなかった。物言わぬ祖父の心のなか、後悔と哀しみのぼうふうが巻き起こっていることなど露と知らないまま続けた。

    「でも……あの本には『八朔比丘』の倒し方なんて載ってなかった。攫われた人たちを取り戻す方法も。だから、じいちゃん、だから僕は戻ってきたんだ。『じいちゃんが教えてくれたから、僕は戻ってきたんだよ』」
    『……ハルト……』

     低く、沈んだ声が僕を呼んだ。その声に怒りの色はもう無い。
     何かを堪えているようにも聞こえた。そして、何かを諦めたようにも聞こえた。
     同じ声音で、祖父は言った。

    『俺は、そんなもの送っとらん』

     その声は微かに震えていた。
     怒りでもなく、哀しみでもなく、ただ、どうしようもないことを前にしたとき、人間の根源から溢れる感情が、祖父の喉を震わせている。
     ――僕はじいちゃんが何を言っているのかわからなくて、 は と間の抜けた声が出た。

    「な……何言ってるんだよ、じいちゃん……」
    『頼む、ハルト。逃げてくれ……戻っ……れ……』
    「じいちゃん? ……じいちゃん!?」
    『それは……■だ、とり■すな……■オイは、もう、おまえじゃ……』

     じいちゃんの声が、徐々に遠ざかるように小さくなる。
     ちがう。じいちゃんが遠いんじゃない。
     蝉がうるさいんだ。
     じいちゃんの声が聴こえないくらいの大音量で、暗い森の中に潜むたくさんの蝉が鳴いている。
     ――耳が、痛い。頭も痛い。走るのを止めてから随分経つのに、何故だか胸が酷く苦しい。
     鳴り響く蝉の声。それに紛れて聞こえる母さんの声。

    『おねがい、かえってきて……』
    「……かあ、さ……」
    『連れて行かないで……その子を……お願い、わたしの、たった、ひとりの――』

     ――ふつ、と。そこで、通話は切れた。

    「…………」

     悲痛な母さんの声が、耳の奥から離れない。
     その声を。その言葉を。どこかで僕は聞いたことがある。
     そうだ。これは、アオイがいなくなった夜――。

    「……ッ」

     どきりと心臓が跳ねて、また頭が痛くなる。
     泣き叫ぶ母。
     怒ったように、そして怯えたように僕を見つめる祖父の顔が、胸のなかに蘇る。
     何か。
     何か取返しのつかないことを、とんでもない間違いを、僕は犯しているのではないか。
     そんな気持ちが強くなって。僕は頭を振った。
     違う。間違いな筈ない。
     僕は取り返すんだ。アオイを。手段はあるんだ。じいちゃんがそれを教えてくれなくったって僕がひとりでアオイを。――ああでも

     じいちゃんは あのメールを 送ってないって 言った

    「……」

     震える手がスマホの画面をタップする。
     メールを呼び出す。一番上の行。
     送り主は『じいちゃん』。
     本文を開く。
     やっぱりあのメールがある。
     確かに僕のスマホの中に。


    『やっと とりもどす 準備 できた。
     かえってこい 繧「繧ェ繧、』


    「……ほら。ちゃんとあるじゃないか。じいちゃん忘れちゃったのかな。もう年だし、物忘れが始まっちゃったのかな。しょうがないなあ……」

     震える声が、山の中に頼りなく消えて行く。

    「機械苦手なのに、慣れない絵文字なんか使うから……文字化けだってしちゃってる。……帰ったら、ちゃんと教えてあげないとだなあ……」

     どく、どく、と、僕の鼓動が耳に届いた。
     相変わらず蝉はうるさい。それに負けないくらい、心臓が僕の中でばくばくと暴れまわっている音が、うるさい。
     ――いつの間にか完全に陽が落ちたのか、辺りの闇は色濃くなった。
     ただ僕のスマホの画面だけが場違いな明るさを放っている。その液晶画面が、不意にちかちかと明滅を繰り返した。
     その中で。
     ――表示された文字が、一瞬ぐにゃりと渦を描くようにねじ曲がった、ような気がした。


    「な……ッ」


     見間違いかと思って目をこすった。
     文はもう捩じれていない。が、――画面の中の文字が、奇妙にザラつき、揺れた。



    『やっと とりもどす 準備 できた。
     かえってこい 繧「繧ェ繧、』


    『やっと とりもどす 準備 できた。
     かえってこい ■「オ■、』


    『やっと とりもどす 準備 できた。
     かえってこい 繧■オイ』



     文の末尾の文字列が、瞬きの合間ブレて歪んで、新たな文字に入れ替わる。
     見ちゃだめだ。咄嗟にそう思った。
     見ちゃだめだ。見てはいけない。けれど、僕の体はかなしばりにあったみたいに動かなくなっていた。
     目線が画面に釘付けになる。
     冷や汗がとめどなく吹き出て、薄手のシャツにシミが出来る。
     胸が苦しい。きつい下着の中、潰して締めあげた胸の向こうで、心臓がバクバクと不快に跳ね回っている。
     こんな時でも、蝉がやかましい。
     蝉が。
     蝉が鳴いている。
     ぼぼぼ。ぼおう。うぼおおうと、山合に蝉の声が木霊して。
     僕の頭が蝉の声でいっぱいになる。

     だめだ。
     これ以上いちゃだめだ。
     これ以上ぼぼ、いちゃだめだ。
     これ以上ぼぼぼここにいちゃぼぼだめだ。
     逃げなければ。ぼぼぼ。うごかなければ。ぼぼぼぼぼぼぼ。
     いやだ。こわい。ぼぼぼぼぼ。こないで。きえて。ぼぼぼぼぼぼ。わたしのなかにはいってこないで。ぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼ――――。

    (――――いやだ、いやだ、みたくない!)

     文字列のブレが少しずつ収まっていく。
     そして僕は見てしまった。



    『やっと とりもどす 準備 できた。
     






     おかえりなさい アオイ』



    「――――いやあっ!!」


     甲高い悲鳴をあげて、『僕』はスマホを投げ捨てた。


     ――山合に。
     蝉の音が反響する。
     ぼおう。ぼおう。
     蝉がないている。
     蝉がないている。
     ぼおう。うぼおう。
     蝉の音が頭のなかに咲いて響いて跳ねて膨れて、僕の頭をぐちゃぐちゃにする。
     違う。これは、蝉じゃない。
     ぼぼぼぼ。ボおう。うボおう。
     地鳴りのように響くこれは。
     耳障りな羽搏きでも、末期に響かす断末魔でもない。

     彼が鳴いている。
     彼が泣いている。
     彼が哭いている。

     母とはぐれた子供みたいに。
     主に捨てられた犬のように。
     だれかをもとめてないている。



    『わたし』を もとめて ないている。




    「――――■■■くん」




     どうして。どうして忘れていたんだろう。
     あの時出て行ったのは姉じゃない。
     だって姉なんて、最初から僕にはいなかった。

    『姉』なんていなかった。
    『僕』なんていなかった。

     あの日、彼に魅入られたのは、あの日、山へ行こうとしたのは。

     ――最初からひとりだった。

    『私』だけだった。

     ああそうだ。あの時出て言ったのは姉じゃない。

     ぼくだ。わたしだ。

     どうして。どうして忘れていた

     どうして戻ってきた。

     息が苦しい。
     頭が重い。
     だってだって呼ばれたから。
     誰に?


    「■■■くん」


     冷たい声が、降ってくる。


    「■■■くん」


     やさしくつめたくかわいてしめって、わたしの心をひっかく声がこれ以上聞こえてこないように、ぼくは耳を塞いだ。

    「ぼ――……ぼくは、ハルトだ!!」

     耳を塞いだ。大きな声で吼えた。
     その声を聞かないように。
    『呼ばれないように』。
     真夏なのに酷く冷たくこごえるかぜが、海の匂いのする風が、僕の髪をそっと撫でた。
     だいじそうに。いとしそうに。
    『あの日』と同じやさしさで、
     ……ぼくの、かみを、なでた。


    「■■イくん」


     ……そうだ。
     あの日。あの夜。
     あのひとに呼ばれて出て行こうとした私を、母さんが泣き叫びながら抱き締めた。
     ばあちゃんがずっと念仏を唱えてくれて。
     じいちゃんは私の髪を切って。お酒と、私の名前と一緒に、山へ、あのひとへ捧げて。
     私はそれから名前を変えて、男の子の格好をして、村のお寺でお祓いを受けて、黄色くて鼻の大きな不思議ないきものの前に連れていかれて、その振り子を見ていたら、だんだん記憶も人格も、全てが曖昧に溶けていって。
     山から、村から、『ハッサクサマ』の及ぶところから、遠く離れた場所に逃げて――、

     そうして、私は、僕になった。

     僕は逃がされた。みんなが逃がしてくれた。
     でも逃げきれなかった。
     ぼくは戻ってきてしまった。
     じいちゃんのふりをしたあのひとにだまされて。
     ――あの、海辺の図書館で見付けた本の一節を思い出す。

    【時には教師に化け、時には里長に成り代わり、人に変じて世に潜み、『八朔比丘』は娘を海へと連れ還る】――。


    「ア■イくん」


     やめて。
     よばないで。わたしのことをよばないで。
     逃げなきゃ。逃げなければ。
     逃げなきゃ、いけないのに。
     怖くて仕方がないのに。どうして、どうして――体が、思うように動かない。
     どうして。
     どうしてもっと呼んでほしいと思うの。もっと見つめてほしいと思うの。もっと近くにきてほしいと、もっと求めてほしいと思うの。ちがう。そんなこと思ってない。そんなの、そんなの僕じゃない!


    「ぼくは、ハルトだ……ぼ、僕は、ハルトだ……!!」


     ――ぱさり。
     何かの落ちる音が聴こえる。
     投げ捨てたスマホの明かりに照らされて、ぼくのすぐそばに、こげ茶色の糸の塊が落ちているのが見える。
     それを、
     ――黒々とした大きな蛇がぬるりと咥えた。蛇。違う。それはまるで山蛇のようにすら見えるほどの、大きな黒い指だった。
     ぼくのめのまえにハッサクサマが立っている。
     暗い森のなか、真っ白に浮かび上がる大きな体が見えても、――もうぼくは恐怖を覚えなかった。
     夜目に慣れ始めたぼくの目の前に、大きな指が差し迫って、摘まみ上げたそれが何かを、ぼくにどうしようもなく見せつける。

     紅白の髪飾りにくくられたそれは。
     かつて鏡の中に見慣れたそれは。

    『いつものみつあみ』。

     わたしの三つ編み。

     あの日、あの夜、わたしの代わりに、わたしがぼくになった夜に、彼に、捧げた筈のもの……。



    「アオイくん」



     うぼぅ、ぼおうと、地鳴りのように響くだけだったその声が、
     ……鮮明にわたしの名を呼んだ。
     その瞬間に ぼくは、 ああ、 と息をこぼした。

     低く冷たく体の中に心地よく響くその声が、ぼくが僕であろうとする心を、無慈悲に塗り潰していく。


    「アオイくん」


     ハッサクサマがわたしのみつあみをずいとぼくに近づける。
     ざわりざわりと肌がうずく。
     みつあみが意志を持ったようにざわざわと蠢いて、わたしの頬に髪に触れる。
     触れて、絡まり、結ばれようとしている。



     ……戻ってくる。



    「どれほど、この日を待ち焦がれたことでしょう」



     歌うように彼は言った。



    「おかえりなさい、アオイ。我が妻、我が運命、我が永遠」


     かえってくる。

     アオイが、ぼくのなかに、



    「小生の、たったひとりの番」



     ――――還ってくる。



    「う、あ………いやだ……いやだ…………!!」


     ――わたしの中に残る『ハルト』が、最後の力を振り絞るようにハッサクサマから逃げようとして。
     その体がふわりと浮いた。
     ハッサクサマが大きな手で、まるで人形を扱うみたいに易々とぼくのからだを掴んでいる。
     目の前に帽子を被った大きな男が笑いながらぼくを見る。
     白く大きく分厚い歯が闇の中に浮かび上がる。
     人間と同じ形をしたまったく別の生き物が、ぎょろりと蠢く大きな目で、ばくりと開いた大きな口で、ぼくに笑いかけている。

     それでもぼくは怖くなかった。
     そのことが堪らなく恐ろしかった。
     どうして、どうしてぼくは――こんなにもドキドキしているの。


    「い……いや……」


     白い帽子。
     青白い肌。
     夕焼けに染まる海の色の目。
     赤く、昏く、遥かで、少しだけ寂しい、吸い込まれそうなくらい深い色の目。
     わたしを見つめて泣き出した、八年前と同じ眼差し。
     六十年前と同じ。千年前と同じ。

     どれだけ時が経とうとも、どれだけ姿が変わろうと、『あなた』のその綺麗な目だけは、ずっと初めて出逢ったころのまま――。


    「アオイくん」


     力強くてやさしい声がわたしを呼んだ。


    「アオイさん」


     厳しくて、だけどいつも寂しそうな声がわたしを呼んだ。


    「アオイ」


     いっぱい甘やかしてくれる懐かしい声が、『私』を呼んだ。
     何度も、なんども、
     呼んでくれる度、私の心の中から『僕』が少しずつ消えていく。いなくなった『僕』にとってかわるように、目の前の彼への愛おしさが膨れ上がる。

     ――何度生まれ変わっても、その度にあなたは私を見付けてくれた。
     絶対に逃がしてくれなかった。
     海を捨て故郷を捨て、神様の力の殆どを失ってただの妖怪になり下がってまでも私を求めて陸に上がり、山に登った。

     なんて愛おしい、私の番。私の竜。世界でたった一人だけの、最初で最後のだんなさま。
     尻尾を、爪を、鱗を牙を、竜たるすべてを無くしても。その獰猛で美しい瞳だけはずっとあの頃のまま。


    「……アオイ……」


     ぼたりと頬に大粒の涙が落ちてきた。
     すぐ泣き出すところも、ちっともちっとも変わらない。

     ぜんぶ思い出した。そして安堵した。  
     ぜんぶ思い出したから、少なくとも、今の寿命が尽きる数十年の間はこのひとをひとりぼっちにさせずに済む。

    「……ただいま、ハッサクさま」

     『アオイ』をちゃんと取り戻して、私達は笑い合った。


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