『在りし日の竜の子とフカマル先輩の話』――――――――――
読んでいた本に斑模様の影が落ちて、少年は顔を上げた。
窓の外にちらちらと白いものが舞っている。
本を閉じ、窓を少し開けて腕を伸ばす。手中にひらり舞い降りたそれは、少年の肌に一瞬の冷たさを残して淡く消え失せた。
初雪だった。
去年よりもずいぶん早い。
じきに里は白銀に染まり、長く厳しい冬がくる。ドラゴンポケモンにとっても、そして、この地に住まうドラゴン使いにとっても。
「フルツカ!」
抗議するような声と共に袖を掴まれ、少年は苦笑と共に窓を閉めた。
「申し訳ありませんデスよ。あなたは寒いのが苦手デシタね」
「フカフカ!」
「というか、また勝手に出てきましたデスね。モンスターボールの中にいた方が快適でしょウに」
「……フカァ?」
「ふふ。喋り方が気になりマスデス? これはね、練習です。異国ではこの地の言葉も、僕の身分も通用しマセンデスのでね。なるたけ丁寧な言葉づかいを身につけないと——」
「ハッサクさま、お迎えに上がりました。修練のお時間です」
襖の向こうから聞こえた声に少年は表情を消した。
膝にじゃれついているフカマルを撫でながら機械的に声を返す。
「わかった。場所はどこだ」
「フスベです」
「りゅうのあなか。遠いな」
「支度ができ次第、門へお向かい下さい。長がお待ちです」
「……わかった」
一族の嫡子に余計な口を聞くな、とでも教えられているのだろうか。
分家の人間は最低限の伝言のみを残して襖の奥から気配を消した。
ハッサクは手早く出立の準備を整えると、フカマルの入っていたボールに手を掛ける。
「さ、フカマル先輩。行きマスデスよ」
「フカ……」
何かを言いたげなフカマルと目を合わせ、微笑む。
「だいじょうぶ、心配しないで。こんな場所に置いておけないから連れてきマスデスけど、あなたは勝負に出しません。……一緒にいてくれるだけでいいんです」
違う、とでも言いたげに彼はパタパタと手を動かした。何かを懸命に訴え、抱きついてくる。
短い手がハッサクの腕を撫でた。服の下には昨冬の修練で裂けた皮膚の傷痕がしぶとく残っていた。
この地に住まうドラゴン使いは、みな一度は凍傷を負う。
ドラゴンポケモンはその多くが冷気を嫌う。ポケモン勝負においても同じで、ドラゴンにとってこおりタイプは天敵だ。弱点の少ないドラゴンタイプを相手取るとき、多くのトレーナーはこおりわざを使ってくる。里に立ち寄った旅人から聞いた話によれば、世界のどこかには『フェアリー』という脅威が存在しているらしいのだが、少なくとも里の周囲でそんなタイプのポケモンは見たことがない。
畢竟、手持ちのドラゴンポケモンは多くの戦いで冷気に晒される事になる。
ドラゴン使いは、正しい心で手持ちの心に寄り添わなくてはならない。
その痛みを理解しなくてはならない。
彼らが戦いで受けるこごえるような寒さを、身を斬るような冷たさを、凍傷で赤く腫れ上がり、べろりと剝けた皮膚の奥から流れ出る血の感覚を、身を以て知らなくてはならない。
まして長の嫡子ともなれば、他の誰よりも過酷な修練を乗り越えねばならなかった。
「フカ、フカカ……」
まだ未熟なハッサクにポケモンの言葉はわからない。けれど、彼は悲しんでくれているのだと思った。
ざりざりとした肌を抱き返すと、胸にあたたかいものが灯る。
これから自分を待ち受ける厳しい修練への不安が、手に溶けた粉雪のように消えていく。
「……ありがとうございマスです。心配してくれるのデスね」
「フカ」
「僕はだいじょうぶ。少しだけボールの中で待っていてください。だいじょうぶ、ほんの少しだけ……僕がもう少し強くなるまでの辛抱ですよ」
さめはだを手に受けながら優しく背中を撫でてやると、一度フカマルはハッサクと目を合わせたのちに、大人しくボールに戻った。
真っ黒な瞳はこの身を案じるようでも、励ますようでもあった。
ぎゅ、とボールを抱き締めながら窓の外を見つめ、ハッサクは目を細める。
……もう少し。
(もう少し。この降り積もる雪が溶け、厳しい冬を乗り越えたら、僕はもっと強くなる。……そうしたら僕は、僕たちは)
ボールをベルトに取りつけ、読んでいた本の背を撫でる。
旅人から父母に内緒でこっそり買い取ったものだった。
異国の文字で綴られた、見知らぬ誰かのぼうけんの記録を文机の奥深くへ隠し、ハッサクはマントを翻して、部屋を出た。