『背伸びする子供、悪戯する大人』――――――――――
営業という仕事に携わる以上、ある程度の太鼓を腹に抱えるべきだという事は、重々承知している。
自らを鼓舞するはらだいこではなく、他人をおだて持ち上げる為の太鼓である。
キミキミ、ボクの投球フォームはどうだね。いやあ、若いころはもっとつるのムチのように腕もしなったのだがね。
と言う取引先に対し、
とんでもございません、さながらリーフブレードを振るうジュカインがごとき鋭い投球です。
と即座に且つ自然に返せる程度の素養は持っていなくてはならない。
重々承知している。
だがわざの存在を知っていようと、そのわざがどうしても攻略上必要だろうと、適正のないポケモンには覚えさせることが出来ないように、人間にも理解した上で出来る事と出来ない事が存在する。
重々承知している。
自分は後者である。
そして、今それを改めて実感している。
「私、最近大人の色気が出てきたと思うんですよ」
夕飯時を迎えた宝食堂の賑わいが一瞬聞こえなくなった気がした。無論アオキの錯覚である。
定位置のカウンターで思わず箸を止めて、隣に座る少女を見る。
出来たての焼きおにぎりを「おいしー!おいしー!」と景気良く平らげた直後の発言だった。なんならその手には既に二つ目が握られていた。序でに言えば、食い余した米粒が堂々その口元に鎮座していた。
何を言うべきか思考していると、少女は(恐らく)悩ましげに細めた(彼女なりの)色香を纏う視線をこちらに寄越した。
「見てわかりませんか? 私のこの、ほかほかおにぎりの湯気のように匂い立つ色気が……!」
例えからしてもう既に『色気』という単語から遠ざかっている気がするが、アオキはひとまず何も言わずに少女の姿を見定めた。求められているからと言ってノータイムで「色っぽくなりましたね、アオイさん」などと返すほど無責任ではない。しかし――、
「……。えーと……」
丸く曲線を描く頬。華奢な首筋、狭い肩。
「すとん」、という擬音がぴったりな起伏の少ない体は、頭も手足も、ハーフパンツから覗く膝小僧に至るまで何もかもが小さい。
年相応に可愛らしいとは思う。
だが、幼げな愛らしさそのものに女色を感じるかと言われれば、そうでもない。
……どうやらこの物凄い得意げにしている子供に、自分は成熟したのだと思うに至る『何か』があったのだろう。
しかし事案の二文字が頭を掠めるほどまじまじとアオイの体を検分した所で、やはりアオキにはその『何か』がわからない。皆目見当が付かない。わからないなりに何か気の利いたことを言うべきか。だがそんな器用さがあれば、アオキの営業成績はもうすこし、マシな数字になっている。
無言を貫くアオキに焦れて……というよりは自分を見つめたまま動作を停止したアオキを心配するように、アオイは遠慮がちに声を掛けた。
「あ、アオキさん?」
「……」
「アオキさーーーん?」
「……。…………すみません、考えてました」
「え」
「一体あなたのどのあたりに色気を感じるべきか」
「えっ……一目瞭然じゃないですか!ほらよく見てくださいよ、背が伸びてるでしょ! 二センチくらい!」
「……」
わかるか。
という言葉が喉から出かかったが自重した。成長を喜ぶ子供に水を差すのは、大人として褒められた行動ではないだろう。
「おめでとうございます」と返せば、拗ねたようにつんと尖った唇が見る間に綻び「ありがとうございます!」と笑顔になった。
「今日、身体測定だったんですよ。そこでミモザ先生に『すくすく育ってんねー』って言われちゃって! 保健の先生のお墨付きで成長してるんですよ私!」
「……言われてみれば、少し目線が近づいた気がしますね」
「ふふん、ですよね! あ、でもアオキさん……」
アオイは一度言葉を切った。
勿体ぶるように吐息を零し、しどけない仕草でカウンターに頬杖をついて、流し目をこちらへ向けてくる。
「いくら大人びてきたからって……――――オレに惚れたら、やけどするぜ?」
「……」
「ふ……オレの魅力にお口がジッパーしちまったようだな」
「…………」
――化石のような口説き文句は一体どこで仕入れてきたのか。
その前髪付近を撫で付ける仕草は、というかそのキャラはなんなんだ。
せめて持ったままの握り飯を置け、
その前に顔の米粒はやく取れ、
あなたの切り札はマスカーニャなのだからやけどするのは寧ろそちらの方では……などなど言いたいことが渋滞し過ぎてまたしてもアオキは無言になった。
無言のまま、ちょうど食っていた料理に目を落とす。
そして備え付けのスプーンを取り、料理に付いてきた小瓶の中身をほんの小指の先程も掬うと、
「アオイさん」
「なんだい、chico」
「こちらをどうぞ」
二回り近く年上の男を遠慮なく『小僧』呼ばわりしてきた娘の口元へ、匙を運んだ。
アオイはぽけっとしていたが、先端が唇に触れると条件反射のように小さな口をかぱりと開いて、素直に匙を頬張って、
――――間髪入れずに「ンエッッッッ」と鳴いた。
流石に吐き出しはしなかったが、いつも勝気に弧を描く眉をへにょりと垂らし、一生懸命口に入ったものを飲み込もうとする様を見て、なんとなく顔中をしわくちゃにしたピカチュウの姿が脳裏に浮かび、アオキは匙を引き抜きながら思わず顔を逸らした。
「んえええ……あお、アオキひゃ、なんれすかこれ……」
「大人の味って奴です。あなたにはまだ早かったですね、申し訳ありませ……ふっ」
「なに笑ってるんですか!?」
涙目で憤慨するアオイに水を手渡して、アオキは気を抜くと震えそうになる声を咳払いで落ち着けた。あのしわしわのピカチュウが脳裏に過る度に笑ってしまいそうになる。
「山椒、という香辛料を知ってますか」
「サンショー……家庭科で習ったスパイスにそんな名前のがあったような……」
「それですよ。料理に使う調味料の一種です。味が結構独特なんで、初めて食べる人は驚くでしょうね」
「……それが『大人の味』なんですか? それがおいしく食べられなきゃ大人じゃないってことですか?」
「いや、大人でも苦手な人はいると思いますよ。そもそもそのまま食うもんじゃないですし」
「なんで食べさせたんですか!?」
「……すみません。出来心で」
「アオキさんてそういうところありますよね!」
糾弾するような視線を受けつつ、アオキは手元の料理を半分に切り分け、まだ手を付けていない方を小皿に移して差し出した。
「どうぞ」
「な、なんですか。また変なもの食べさせる気じゃ……あ、いい香り」
「ミガルーサの蒲焼です。よければ、お詫びにどうですか」
ふわりと漂う甘じょっぱい香気に、アオイは警戒を弱めたようだ。まだ幾分か身構えながらも恐る恐る一口含む。
途端、彼女に笑顔が戻った。
「お……おいしー!」
「それは良かった。……ずっと思っていたんですが、その手のおにぎりも早く食わないと、冷めますよ」
「そ、そうですね……あれ!? おにぎりが倍おいしくなった気がします!」
「米に合うんですよ、こういうのは」
「なんていうかこう、しょっぱいけど甘くて止まらないというか、舌と頭と心がいっぺんに幸せになるというか……! あれっ今食べ始めたおにぎりが無い!? 女将さん! おにぎりセット追加でお願いします!」
「ゆっくり食って下さい、飯は逃げませんから。あとすみません白米のお代わりと……蒲焼二人前頼めますか。単品で」
あいよ!と威勢のいい女将の返事がカウンターの向こうから返ってくる。
程なくして注文が目の前に並ぶと、アオイは小さく歓声をあげ、もう一度いただきますを口にした。
小さな口が握り飯にかぶりつく。ホシガリスのように頬袋がせわしなく上下する間、アオイは何も言わずにただ上機嫌に目元を和ませていた。パタパタと足を揺らし、時折鼻の奥でふふりと笑う。
何を言わずとも全身で『おいしい』を表現するアオイにつられ、自分の口角もほんの少し上がっている事に、アオキは気が付く。
自然と会話は途切れていた。
だがその沈黙に気まずさはない。
寧ろ居心地のよささえ感じながら、アオキも自分の膳と向き合った。暖かな色の電灯の下、作り立ての蒲焼が黄金色の照りを返している。見ているだけで食欲が湧き、食事中にも関わらず腹が鳴った。
その音を聞かれたか、くすっ、と隣から笑みのこぼれた気配がした。
横を向くとアオイがこちらを見上げていた。視線がぱちりとかち合う。
「おいしいですね、アオキさん!」
にっこりとアオイは笑った。
「……そうですね、アオイさん」
アオキは微笑を返しながら、アオイへ腕を伸ばした。
「……あ、アオキさん……?」
「米が」
「へ?」
「付いてますよ。そのまま……」
動かずに。
そう付け加え、人差し指で一瞬だけアオイの肌に触れた。
口許に付いたままの米粒を指の腹で掬って、自分の口に放り込む。僅かに表面が乾き始めていたが、十分甘味を感じた。一粒でうまいと分かる良い米だ。
「……」
アオイは口を押さえ、ぽかんとした顔でアオキを見上げた。見る見る内に赤くなる。
決まり悪そうに眉を顰め、恐る恐る聞いてきた。
「あの、もしかしてずっと付いてました……?」
「付いてましたね」
「いつから?」
「一つめのおにぎりを平らげた時には、もう既に」
「い、い、言ってくださいよぉ! 私ずっとご飯粒付けたまま大人の色気がどうとか言ってたんですか!? 馬鹿みたいじゃないですか!」
否定できない。だが肯定もし難い。そんな場面では黙るに限る。
茶を何度か啜って、アオイの頬から赤みが取れた頃合いに、ぽつりと言った。
「色気がどうとかはわからんのですが、アオイさんは魅力的です」
「……へっ!?」
大きな瞳をぱちくりと瞬きこちらを見てくるアオイをよそに、アオキは箸を持ち直した。出来立ての飯が冷めてしまってはうまくない。
「なっ、なななんですか急に……お、おだてても何も出ませんよ! せいぜいご飯代くらいしか!」
「おだててません。色気があろうがなかろうが、飯をうまそうに食うあなたはとても好ましく、魅力的だ」
——アオキの腹に、他人をおだて持ち上げる為の太鼓は無い。
それでもこんな言葉が出るのは、それがアオキの本心だからだ。
「それと、今日もお代は入りませんよ。……自分は大人ですから」
『あなたはまだ子供なのだから』。
アオキが言外に含めた意味を理解し、
「〜〜……あ、あ、アオキさんって……そういう所ありますよね!!」
そんな捨て台詞と共に、子供は顔を逸した。
やり込められたのが余程悔しかったのだろうか、アオイの頬に灯った熱は、別れの際まで引かなかった。