『ハッサク少年とあおいビードロ』――――――――――
ぷく、と頬を膨らます。
透明な管の先に口づける。
そうっと、そうっと、頬に集めた息を管の中に流し込む。
すると、
『それ』はかこん、かこんと鳴った。
あるいはぽっぺん、ぽっぺんと鳴った。
鈴のような鐘のような、澄んだ軽やかな音だった。
細い管から口を離し、少年は歓声をあげる。やっと、ちゃんと音になった。手に入れたばかりの頃はぽこぺこと急所を外したような情けない音しか鳴らなかったのに。嬉しくて、うっかりバランスを崩しそうになるのを、慌てて腹に力を入れて堪える。セーフ。
少年の代わりにぱらぱらとちいさな礫が岩肌を滑り、はるか下へと消えていった。あれと一緒に落ちていたら今頃崖下でぺしゃんこだ。
とある崖の中腹、かろうじてこども一人が入れる程の小さな横穴に少年は腰かけていた。
頂きまではまだ遠い。しかし既に里を一望できるほどの高さまで登ってきている。握力も体力も酷使する崖登りは修行の中でもとりわけきついが、辛いと思ったことはない。
一人前のドラゴン使いになるためには正しき心と共に強靭な肉体が必要になる。軟弱な主に頭を垂れる竜などいないからだ。
誇り高き竜の一族の跡取りとして、ハッサクはそれを理解していた。
だからこの手に滲む夥しい数の血豆も、しょうがないことなのだ。ピアノを弾くときに少し……どころではなく痛くなってしまうけど、それで上手に弾けなくて厳しい叱責を貰ってしまうけれど、それもしょうがないことなのだ。
「……」
頬に息を溜め、もう一度透き通った管の先へ口づけた。ぽっぴん、ぽっぴん、弾む音色が山合にこだまするのが面白くって、何度も息を吹き込んだ。
口だけで奏でられる不思議な笛は、里に立ち寄った行商人から献上されたものだった。
ビードロ、というのだそうだ。
下が平らなガラスの珠に、ほそく長いガラスの管が生えている。
中は空洞があるだけで、音が鳴りそうな仕組みにはとうてい見えない。最初はひっくりかえしたりんご飴のようだと思った。その昔研究者だったという行商人の話では『ふらすこ』というどうぐにも似ているらしい。
硬いのに、どこかやわこい。不思議な手触りの笛をハッサクは気に入っていた。厳しい修練の合間、澄んだ音を鳴らせるように試みる時間が好きだった。
とても薄いガラスで出来ているから、思いっきり吹いてはいけないと言われた。手荒に扱うとすぐ割れてしまうのだそうだ。
いけない、と言われるとしたくなる。これだけ綺麗に鳴るのだ。きっと、砕け散る音もきれいなのだろう……だめだめ。これは一つしかないんだから。
(僕のたからもの。……ずっと大事にするからね)
いけない好奇心を抑えつけ、ハッサクはあおいビードロを天にかかげた。
今日の空の色のように、あおい、碧いそのからだが、真昼の陽射しに煌めいた。
無性に胸があたたかくなり、そのあおいろの煌めきをとてもうつくしいと思ったとき、
「きれいだ」
そんなことばが、自然と口から溢れ出ていた。
ことばにしてから、はっとした。
きれいだとか、うつくしいとか、言葉で知ってるだけの言葉を、ハッサクは生まれて初めて口にしたことに気が付いた。
生まれて初めて胸の奥に『きれい』が、『うつくしい』が、すとんと落ちてきた気がした。
うつくしい。美しい。そうか、これがうつくしいってことなんだ。こんなにあったかいきもちで、胸がいっぱいになるものなんだ。
新たに芽生えた感情に昂揚しながら、ハッサクはふと不思議に思った。
どうして、今とつぜんこのビードロをうつくしいと感じたのだろう。
その色や形を、いま改めてちゃんと見つめてみたからか。
それとも、その音色がうつくしいことを知ったからか。それとも、『うまく吹けた』という意識そのものがいとおしく思わせているのだろうか。
……わからない。その答えを今のハッサクは持ち合わせていない。
ビードロから視点をずらして、ハッサクは空を見た。抜けるような青空を。
このどうぐをもたらしたのは里の外からきた商人だ。ここより遥か遠き地の、けれどこの空では確かに繋がっているくにの……。
——ちか、とあおいガラスがきらめいた。
閃光が目に、頭の中に射し込んだ。
『うつくしい』とは何か。
空の果てにはその答えがあるのだろうか。
この小さな里から脱して、違うくにに行けば——。
「……!」
閃いてはいけない、許されない望みを願ってしまいそうになって、ハッサクは慌てて首を振って、その閃光を掻き消した。
(なにをくだらないことを。僕はここで『長』になるんだ。そのために生まれたんだ)
腕を空から引き戻し、あおいビードロをたいせつなものポケットにしまって、腰を上げた。
少し休み過ぎてしまった。日が高いうちに登り切ってしまわなければ。
頭に過ぎったいけない考えから目を逸らすように、ハッサクは切り立つ崖に手を掛けた。