オメガバースはじぐだ前日譚・つがいになりたい 斎藤のおじさんに新しく自転車を買ってもらった。
五月の天気はとても暖かく晴れ渡っていて、授業も午前中で終わった日の帰り道のことである。
帰路を歩きながら小学四年生の藤丸立香はふと思い立った。
(そうだ、一ちゃんの学校に行ってみよう)
一ちゃんこと斎藤一は立香が住まわせてもらっている斎藤家の次男だ。
立香のことをとても可愛がってくれている。
一が通っている中学校には何度か車で行った事はあるから道は分かる。
学区内ギリギリで少し遠いけどサイクリングがてら行ってみよう。
新しい自転車を買ってもらったのだから探検はしてみないといけない。
立香の両親は一年前、事故で亡くなった。
両親が亡くなった後しばらくは親戚の家に住んでいた。だが両親と仲の良かった斎藤夫妻が立香を引き取り、こうして実子同然に育ててくれている。
斎藤夫妻が立香を引き取った理由は、仲が良かった事に加えてもう一つある。
藤丸家の一人娘である立香は珍しいΩ性であった。
そして藤丸夫妻の死から程なくして末っ子の一がβ性から後天的にα性に変わったのである。
斎藤家は代々αを輩出してきた名家だった。しかし今代は兄弟三人とも全員β性であり、αの養子を取るかこの代限りかと言う話にさえなっていたのである。
そんな時に一がα性になった事は思わぬ僥倖であった。そのため将来的には一と立香の二人を結婚させたいと言う斎藤夫妻の思惑がある。
しかしそんなことは当然ながら立香は知らない。
両親も一もそんな先のことは知らなくていいと思っているからであった。
両親が健在だった時は立香は一の事をあまり良く知らなさった。むしろ一の兄や姉に良く遊んで貰っていた記憶の方が強い。
しかし再会した一は立香の事をそれはそれは可愛いがった。中学校から帰宅すれば、ろくに着替えもせずにすぐに立香を抱き抱えて自分の膝の上に乗せる。
そして決まって「立香ちゃんおやつ食べる? ジュース飲む? 何して遊ぶ?」と長い癖毛を耳にかけながらへらへらと笑うのだ。
当の立香でさえちょっとこの人は私に甘すぎるのではないかと思っている。
しかし両親が亡くなって塞ぎ込んでいた立香にとって一の甘ったるい優しさはとても嬉しく悲しみに沈んでいた心に深く染み渡り、気付けば立香は昔の様に笑えるようになっていた。
今はこうして一の学校に行ってみようと思う位に立香は彼に懐いている。
ピカピカに光る新品の自転車は立香の好きなオレンジ色だ。その自転車を漕ぎ、立香は一人で一の中学校を目指した。
校門が見えてきた辺りで立香の耳に聞き慣れた声が届く。
「いやグダバは、もーいいわ」
一の声だ。いつになく気怠そうな声に立香がキョロキョロと辺りを見渡すと角から一が出てきた。
あれまだ二時にもなってないぞと一瞬思った。しかし中学も多分早く終わる日なのだろうと立香は無理矢理納得する。
一ちゃん、と声を掛けようとした時だ。
一の腕に制服を着た見知らぬ少女が抱きついているのが見え、立香は思わず口を噤んでしまう。
「……っ」
何故か立香は自転車に跨ったまま、咄嗟に車の陰に隠れてしまった。そして耳を澄ませていると女の子と一のやり取りする声がこちらに近付いてくる。
「ねぇ、あの、じゃあさ、これからうち来る? 今日、親いないし」
「あーじゃーそれで」
車の陰から覗き見ると、女の子はまるでテレビに出てくるアイドルみたいに綺麗な顔をしている。彼女は甘やかな、けれももどこか必死そうな声を上げた
それとは対照的に一癖毛の前髪を掻き上げながら心底気怠げに、どうでもよさそうに答える。
この二人は仲の良い友達なんだ。
そう思うと立香の胸が何故かズキリと痛む。
もしかしたら「コイビト」と言うやつなのかも知れない。
二人の雰囲気は立香からしてみたら随分大人に見える。
そう思い至るとズキズキと立香の胸が痛んだ。
車の陰になっていた立香の目の前を二人が気付かずに通り過ぎる。
だが数歩通り過ぎたたあたりで、一がふと立ち止まった。
「一、どうしたの」
「なんか良い匂いがする……」
「匂い?」
そのままキョロキョロと周りを見渡していた一が振り返る。そこで立香と目が合ってしまった。
いかにも気怠げで面倒そうだった黄朽葉の瞳がみるみる内にキラキラと輝き、立香がよく知るいつもの一の顔になっていく。
「あんれまあ! 良い匂いがすると思ったら立香ちゃんじゃないの! どうしたのこんなところまで来て! もしかして一ちゃんに会いにきてくれたの!?」
一は自転車に跨ったままの立香を見るなり、絡められていた少女の腕を突き飛ばす様に粗雑に振り解いた。
そして立香の元へ真っ直ぐに大股で近付く。
「た、探検……」
にこにこと立香に笑いかける姿は先までの気怠げな雰囲気など欠片もなく、家で見るいつもの一だ。
その様子の変化に幾分たじろぎながらも立香は内心ほっと安堵の息を吐く。
「探検? 駄目でしょー? 一人でこんなとこまできたら危ない。よーし、一ちゃんと一緒に帰ろう」
さっき女の子の家に行くと二人で話していた。
それを気にした立香はおずおずと首を横に振る。
遠慮も出来る年頃なのだ。
「大丈夫だよ。一人で来れたし帰れるよ」
だが一は立香の自転車の籠を両手でしっかり掴んで離そうとはしない。
「駄目。万が一立香ちゃんが事故に遭ったりしたら一ちゃん泣いちゃう。一緒に帰ろ?」
「でも一ちゃん、遊びに行く約束したんじゃないの?」
その言葉に一の表情が一瞬固まる。
「……あー、別にどうでもいいよそんなの。あっそうだ、立香ちゃん甘いの食べて帰ろうよ。一ちゃんグダバの新しいフラペチーノ食べたいなー? ね?」
立香に向ける一の声はいつもと同じで甘ったるくてどこまでも優しい。
しかし背後の少女がどうしても気になる。
約束をすっぽかすのはよくない、と立香は思う。
「そう言うの、良くないよ」
立香がそう言うと一は心底嫌そうな顔を見せて少女の方を振り返ろうとした。
「いいよ、一。またね」
その顔を見たからかどうかは知らないが、気遣って身を引く少女の言葉に立香は胸がスッと軽くなった。
それは気まずい雰囲気を終われたからだけではない。
(一ちゃんをとられずにすんだ)
だがそは無意識であったため立香にもそう感じた理由は分からなかった。
※※※
その翌日の放課後のことである。
立香が下校すると家の前に中学校の制服をきた二人の少女が立っていた。
一人は昨日一と一緒にいた少女である。
立香が二人と目が合うとショートカットの少女が大きな声を上げた。
「あ! あの子?」
「やっぱりいいって、こういうの」
昨日の少女は戸惑っていると言うよりは何かを躊躇している様子である。それに反してもう一人の少女は立香の顔を見るなり、ずかずかと近付いてきた。
「いいからいいから、私に任せて!」
そう言うと少女の隣りのボーイッシュなショートの少女は立香の前にしゃがみ込んだ。
「あなた、立香ちゃん?」
「……はい」
なんで自分の名前を知っているのだろうと立香は不審に思いながらも頷く。
「あのね、斎藤は中学生なんだからさ小学生のお守りなんてしたくないの。迷惑だと思うよ。だからあんまり甘えたり遊んだりするのってよくないと思わない?」
「……?」
立香は首を傾げた。
斎藤とは一ちゃんのことだろうか。
一ちゃんは私にとても優しくしてくれる。
そんなことないと否定しようとしたが、立香は口籠る。
だって彼女の言う通り、自分は小学生で一は中学生のお兄さんだ。
もしかしたら彼女の言う通り、一は立香のことが迷惑だったのかも知れない。昨日も本当は自分と帰るのではなく、遊びに行きたかったのではないか。
だって一は、立香には優しいが家族や周りにはどちらかと言うと冷たくつっけんどんな態度である。本来はそっちの方が、家族といる時の方が本当の一なのだと思う。
立香の前では無理をして優しくしてくれるのではないか。
「めいわく……」
そう思い至って立香が力なく反芻する。
立香の様子にボーイッシュな彼女はうんと力強く頷いた。
「そう、迷惑。だってそうでしょ? 立香ちゃんだって幼稚園の子と遊ぼって付き纏われたら迷惑でしょ?」
自信満々に言い切られると立香も萎れたように項垂れてしまう。
立香は元々素直な性分だ。年上の、中学生のお姉さんにそう強く言われてしまったら、叱られるように言われてしまったら、気持ちも流されてしまう。
「……そっか、一ちゃん優しいから私の事甘やかしてくれただけなんだ……」
「斎藤がやさっ……? うん、そうかもね。だからね、もうあんまりベタベタしちゃ駄目だよ? 約束できる?」
少女にじっと見つめられて、立香はますます項垂れてしまう。
オレンジの髪を垂らして俯く、その様子はオレンジ色の愛らしいガーベラが今にも萎れて枯れそうにも見える。
いつもの快活な声ではなく、消えそうな声で立香は答えた。
「……はい」
※※※
それから立香は彼女との約束通り、一の事を避けることにした。一が帰宅すれば入れ替わる様に自室に籠ったり、風呂に入ったりと距離を置いてあからさまに避けるようにしたのである。
一は明らかに戸惑っているというか、立香が避ける度にとても悲しそうな顔をしていた。
その表情に立香の胸がズキズキと痛んで涙が止まらない。
斎藤の家に引き取られた時からそうだった。
一が痛そうな顔をしたり悲しそうな顔をしていると自分のこと以上に辛くなる。
他の誰よりも、一に痛い思いをしてほしくない。
そんな顔しないでと胸を掻き毟りたくなる。
しかし立香は「迷惑」と言い切られたことが頭から離れられない。一の悲しい顔は見たくないが、一の迷惑になることはもっと嫌だった。
今日も一がリビングにやってきたので、自室へと逃げ込もうと立香は階段を駆け上がる。
だがその日は違った。階段を上がって一が追いかけてきたのである。
「なんで立香ちゃん避けるの? 一ちゃんのこと嫌いになった? 俺何かした?」
立香の部屋の前で一に無理矢理手を掴まれて立香は俯く。
「嫌い、じゃない」
「じゃあどうして」
一にじっと顔を覗き込まれる。
立香はその視線に耐えきれず俯き、小さく口を開いた。
「迷惑かけるとだめ、だから」
「誰が迷惑なの?」
黄朽葉色の瞳が立香の動きを一ミリも逃がさないようにじっと捕らえている。心の中まで見透かされそうだ。
泣きそうにくしゃりと顔を歪めて立香は観念した。
「だって……一ちゃんは大人だから、あんまり甘えたり、遊んだりしちゃいけないって言われたし、甘えないって、約束したから」
「約束? それ誰に言われたの?」
立香は口籠ってしまう。そんな彼女の様子に一がさらにじっと鋭く立香の琥珀の瞳を見つめる。
そのギョロッとした目が恐い。
立香は一に食べられそうだと思った。
「もしかして、こないだ俺と一緒にいた奴に言われたの?」
あの髪の短い人も勢いが恐かったけど、今の一ちゃんはもっと恐い。
「……その人は何も言ってない。一緒に……いた人。髪の短い」
「あー、あのクソお節介女がまた余計なことしやがったのかぁー。駄目だなーいっぺん分からせねぇと……」
眉間に皺を寄せた一の瞳が虚空を見つめる。その瞳は怒気に満ちていた。
その瞳と声色に立香は思わず震え上がってしまう。
だが立香の怯えた視線に気付くと、一はへらりといつもの優しい表情を見せる。
「立香、一ちゃんは立香のこと迷惑だなんてこれっぽっちも思ってないし。むしろ逆。一ちゃんは立香ちゃんと前みたいに、前よりも、もっとずっと一緒にいたい」
「……本当?」
「本当。逆に立香ちゃんはどう? 本当に一ちゃんのこと嫌いになった訳じゃないの?」
「嫌いじゃない、よ」
「嫌いじゃないけどお?」
おどけた様子で一が立香の顔を見つめる。
「……一ちゃんのこと大好きだよ」
立香の言葉にへらりと一は満面の笑顔を見せた。
「良かったー、立香ちゃんに大好きって言われたー。じゃあ仲直りのハグしよ?」
両手を広げる一に立香はおずおずと抱きついた。一の胸元に顔を埋める。
「あー、久しぶりの立香だー……良い匂い……」
すんすんと立香の首筋に一は鼻を近づける。近付けるところかぐりぐりと立香の首筋に鼻や口を押し付けてきた。
「あぁ、噛みたい、立香のここ噛みたいなぁ。噛みたい。うなじガブーッて噛んで、番にしたい。番にしてめちゃくちゃにして抱きたい。でも立香はまだ小さいからなぁ、まだ我慢しないと立香の首も胎も壊しちまうからなー、でも我慢出来っかなぁ……噛みたいなぁ……」
はあはあと荒い呼吸を繰り返しながら、一は立香を強く抱き締めてくる。うなじに一の長めの癖毛と熱い吐息がかかってくすぐったい。
一の体温が急に上がってきたようで密着している部分から一の匂いが立香の鼻腔をくすぐる。どきどきして、けれどもとても落ち着く匂いだ。その匂いと一の体温が立香の小さな体をぎゅっと包んでいる。
その匂いに徐々に全身の力が抜けてきて立香は無意識に一に体を預けてしまう。
ごくりと一の喉仏が上下した。
「ごめん、味見だけするね」
ベロリと大きな舌でうなじを舐め上げられ、立香はひゃっと悲鳴を上げた。
※※※
数日後。
夜寝る前にトイレに行こうとした立香の目の前に制服姿の一が立っていた。
珍しく遅く帰ってきた一におかえり、と言おうとしてシャツの胸元に点々と星のように血が付いていることに気がつく。
思わず立香はキャッと悲鳴を上げた。
「一ちゃん! 血っ、怪我してる!」
立香に指差され、一はゆっくりと自分のシャツを眺める。
「ああ、これ? これは一ちゃんの血じゃないから大丈夫」
「……え?」
首を傾げる立香に一はにたりと酷薄に笑う。
「牝豚共の血。……ははっ嘘、一ちゃん鼻くそほじりすぎて鼻血出ちゃった。大丈夫、立香ちゃんはもう寝な。おやすみなさい」
メスブタドモノチ。
一の言葉の意味は、この時の立香にはまだ理解出来なかった。だがこれからそう遠くない未来、立香は一の言葉の意味恐ろしさを思い知る事になるのである。
おわり