気づいた時はもう朝だった。
ジェラールは寝ぼけ眼を擦りながら起き上がり、身なりを確かめた。寝衣の釦は一番上までしっかりと留められて、汚れたはずの腹部もきれいになっている。きっと誰かがそうしたのだろう。
(……ヘクター…)
あんなふうに中断されるとは思ってもみなかった。自惚れとか期待とかそういうものではなく、ただ予想外すぎたのだ。途中でなにか口走ったような気もしたが、よく覚えていなかった。
途中で放り出すくらいなら、どうしてあれほど求めたのか。
昨晩の彼の様子と自分の痴態を思い出すたびに、腹が立つような恥ずかしいような曖昧な感情がぐるぐると回る。ジェラールの胸の内は落ち着かなかった。
(正直、参ったな……)
どんな顔をして会えばいいのだろう。なんとも気まずい、それ以外に言えることはなかった。
ひとつ重苦しい溜め息がこぼれる。それを聞く者は、自分の他には誰もいなかった。
* * *
人前に出れば、呆けている暇などなかった。
今日は以前から予定されていた、ニーベルへの視察の日だった。多少距離があるが、城に籠りきりでは鈍る一方だ。移動も含めて体を動かすには悪くない行程だとジェラールは思った。
既にモンスターの巣は駆除し、龍の穴の統帥——格闘家と言っただろうか、彼にも都合の良い形で事を収めてはいた。しかしその後、住民とうまくやれているのかは疑わしい。帝国領になったのだから、不利益が生じる前に対処しておかねばらない。今日の訪問は、その様子を確認するためのものだ。
予定通りの時刻に出発準備を整え、広間に向かうと、既にそこにはベアとエメラルドの姿があった。
「陛下、おはようございます。出発の準備はすでに完了しております」
胸に手を当てて敬礼するベアに、軽く挨拶を返す。横にいたエメラルドも服の裾をつまみ、恭しく膝を折った。
「陛下のご同行に、私を選んでくださって光栄ですわ」
「こちらこそ、来てくれてありがとう。君がいたほうが皆も話しやすいだろうからね」
「まあ、お上手なんだから」
うふふと楽しそうに微笑む彼女に、ジェラールも朗らかに笑いかける。
「…ニーベルは遠い。そろそろ行こうか」
時間が惜しいこともあり、話を早々に切り上げて城を発つことにした。脳裏になぜかヘクターの顔がちらついたが、それと出発を急ぐこととはなんの関係もない。それはもちろん、自分でもよくわかっていた。
けれど扉に手をかけた瞬間、背後から聞き慣れた声がして、その思考はあっさり吹き飛んでしまった。
「——ジェラール様」
振り返ると、声の主はずいぶんと神妙な面持ちでそこに立っていた。
「……ヘクター…」
昨日の今日だ。一瞬、ジェラールは眉を顰めそうになった。しかしすぐに今の状況を思い出し、平静を装って言葉をかける。
「……君は今日、非番のはずだが」
目の前の彼は、普段と同じように甲冑を身につけ武器を備えていた。頬を少しだけ引き攣らせ、こちらを真っ直ぐに見つめている。
「そんなことはどうだっていいんです。今から、ニーベルに行かれるんでしょう?」
「……その通りだが。それと君がそこにいることと、なにか関係が?」
顔を突き合わせた二人の間に、どこか不穏な空気が漂っていた。それを感じ取ったベアとエメラルドは目を見合わせていたが、なにも口を挟むことなくその様子を見守っていた。
ジェラールを見据えたまま、ヘクターは少しの逡巡もせずに返事をする。
「だったら、オレもいきます」
やはりそうなるのか。
大方、予想はできていた。彼がこの場に現れた時点で、そう言い出すだろうことは。
突き放すような言い方をしたのに、迷わず即答された。まるで昨日のことなんてなかったかのように。
これには心の中で一人溜め息をつくしかなかった。腕を組み、口をへの字に曲げていて、譲る気など微塵もなさそうだ。
そばに控える二人に目線で助け船を求める。ベアはやれやれと肩をすくめ、傍のエメラルドは物珍しそうな顔をしながらその場を観察していた。味方がいないことを悟り、ジェラールは肩を落とした。
「前衛が足りねえんですよ。どう考えてもオレが適任だと思いますがね」
「それは…そうだけど」
「……それともなんですか。オレがついてっちゃ駄目な理由でも?」
ヘクターは頑なだった。昨日あんなことがあったのによくわからないなと思ったが、押し問答をしている時間はない。もう頷くしかなさそうだ。
「……わかった。許可するよ」
短くそう言うと、彼は無言のまま首を縦に振った。それから踵を返し、大股で扉に向かって歩き出した。
(……ついていくと言いながら、そうやって私の前を歩くくせに)
いつもそうだ。多分、無意識なのだろう。それが彼なりの「守る」という意志の形なのだと、今はもう理解はしている。
かつての冷ややかな視線は面影を失くし、代わりに厚い背中が前にある。普段なら嬉しいはずなのに、今はなぜか無性に腹が立って仕方がなかった。
——君の考えていることがわからない。
「…留守を頼む。夕刻までには帰るよ。なにかあればジェイムズに伝えてくれ」
「はっ、承知いたしました。道中お気をつけて」
姿勢を正して素早く敬礼する衛兵に、ジェラールは力なく手を振って応えた。
* * *
先頭を歩くヘクターの様子は、どこかおかしかった。
草を揺らす小さな音にも剣を構え、モンスターの影を見れば必要以上に追った。何度もジェラールの方を振り返っては、目が合うとすぐに顔を背けた。途中で一瞬だけ見えたその表情は、苦虫を噛み潰したように険しかった。
(そんな顔をするなら、なぜついてきたんだ?)
行動と表情がまるで噛み合っていない。いくら考えても、答えが出るはずはなかった。
どうして自分ばかりが、こんなに思い悩んでいるのだろう。
「…もしかして、陛下のお怒りを買ってしまったのかしら?」
山道を歩きながら、ふとエメラルドが呟いた。
「えっ」
飛び出た声は思ったより大きくて、ジェラールは咄嗟に口元を押さえた。彼女はちらりと横目でヘクターを見たが、その肩がぴくりとわずかに動いただけだった。声は小さかったが、敢えて聞こえるように言ったに違いない。
「……、それは、どうかな」
「あら珍しい。陛下にしては曖昧なお返事ですのね。先程のご様子から、てっきりそうなのだとばかり」
術で作った火の玉を指先でつつき、ふっと息を吹きかけながらエメラルドはそう言った。火の玉は真っ直ぐに飛んでいき、ヘクターの背中に届く寸前にしぼんで霧散する。きっとその気配には気づいていたはずだ。
肩を並べて歩くベアは黙って聞いていたが、そこで一つ大きく頷いた。
「…ああ見えて、あれは繊細な男ですからな」
「本当に。見た目の割に…といったところかしら」
「口は立つのに、肝心なことは口下手とは。…陛下のご心痛は、察するに余りある」
「ふ、二人とも……」
言いたい放題のベアとエメラルドに、なぜか自分の方が冷や汗を掻いてしまう。聞こえていながらなにを思っているのか、ヘクターは前を向いたまま、足を止めることなく歩き続けていた。
その後ろ姿を見つめながら思う。ここまで言われても口を開かないのには、きっと彼なりの理由があるのだ。
無言のままの背中に、なにかが滲んで見える気がする。なにも言わないことで余計に多くを語っているようだったが、今はまだその意味を掴みきれない。
なにか、なんでもいい。話してくれればいいのに。
「……どうだろうね」
ベアとエメラルドが不思議そうにこちらを向く。首を小さく横に振りながらジェラールは言った。
「…怒らせてしまったのは、案外私の方かもしれないよ」
二人は、おや、といった顔をして互い顔を見合わせた。
ぎちぎち、となにかが軋むような音が聞こえてきて前を向く。そこでようやく、ヘクターの拳がきつく握りしめられているのが目に入った。
歩調は変わらないのに距離だけが開いていくような、そんな錯覚を覚える。ジェラールの足は、自然と早くなっていた。