春の迷い子、愛を知る 春とは、良くも悪くも変化の時期である。
暁人がKKと出会ってから初めて巡った一度目の春。暁人は無事に大学を卒業し、一般企業へと就職した。正直暁人としてはアジトに就職することも考えたのだが、当の相棒たるKKに断固として拒否されてしまった。
曰わく、こんな水物の怪しい商売に手を染めるよりも、真っ当な仕事につけと。「あんたがそれを言うのかよ」と口を尖らせれば「当事者だから言うんだよ」と煙草の煙と共に言われてしまった。
存外真摯な口調と真っ直ぐ射抜くような視線に混じる父性にぐぅと呻くことしか出来なかった。いっそ邪魔だとでも言われたら意地でも食らいついていったのに、彼が珍しく本音で暁人を思いやって言ってるのがわかってしまったから引き下がるしかなかった。それでもアジトの手が足りないときや、暁人に余裕があるときは『副業』として手伝うことをどうにか認めさせて一勝一敗。
二度目の春。KKと暁人は一緒に住むことになった。いわゆるルームシェアというやつだ。理由はなんというか……暁人の体質だ。
あの夜以降、適合者としての能力以外にも何か目覚めてしまったのか、やたらとそういう怪異と呼べるような事件に巻き込まれることが増えてしまったのだ。KKに言わせれば元々そういう家系なのかもしれないとのことで。『伊月』という名字自体神職に多いもので、まったく関係ないとは言えないのではないかと。
調べるにしても両親はすでに亡く、親戚らしい親戚も思い当たらないものだから、あくまで予想の範疇ではあるが当たらずとも遠からずなのかもしれない。確かに暁人は人ならざるものにもててしまった(嬉しくない)。ただ、あの夜にKKを宿せたのもその体質のおかげかもしれないという点だけは喜ばしい。
あまりの暁人の巻き込まれ体質に、側にいた方がいいんじゃない? と最初に言ったのは凛子だ。その方がデータもとりやすいな、とのっかったのはエドで、迷惑をかけたくないと辞退しようとした暁人を「ガキが遠慮すんな」と口は悪いが引き留めてくれたのがKKだった。
そうしてKKのアパートに転がり込む形で、年の離れた二人のルームシェアは始まったのだった。
そして三度目の春。暁人は岐路に立っていた。
本日の議題――どうやって、この家から出て行くか。(会議参加者・伊月暁人一名)
どうやってもなにも、普通に荷物をまとめて出て行けばいいことはわかっている。けれどそれをどうKKに伝えるかで暁人は悩んでいた。
この一年かけてKKに少しずつ対処方法を教わったおかげか、最近は変なものに巻き込まれる回数も少なくなっている。だがそれに反比例するように、暁人の身の内で育ってしまったものがある――恋心、だ。
二十も年上の同性の人に、暁人は恋をしてしまった。雛鳥の刷り込みみたいなものかもしれないとも思うが、それでもこの心に根を張り葉を育て開花してしまったそれは、正直もう暁人の手に負えなくなっていた。自分の気持ちだというのに、だから? コントロールがきかないのだ。
側にいれば嬉しくて、姿が見えなければさみしくて、優しくしてもらえる度に心は弾んで、祓い仕事に行く彼に関わるなと言われる度に身が引き裂かれそうになる。
この気持ちを告げるつもりはなかった。でもこのままだとうっかり身の程知らずにもすがりついてしまいそうで。これはいけない、と危機感が高まっている。
ただでさえ迷惑をかけているのに、弟子もどきにしてただの同居人に懸想されてるなんてわかったらKKも気持ちが悪いに違いない。口が悪いが懐に入れた人間には甘いKKだから暁人を悪し様に言うことはないと思ってはいるが、万が一軽蔑したような顔をされたり口に出されてしまえば、きっと暁人の心はぽきりと簡単に折れてしまう。
「やっぱあれかな」
好きな人が出来て、その人に一緒に住もうって言われたから出てく。これが一番角が立たない気がする。常々真っ当に生きろと口を酸っぱくして言うKKだ、暁人に恋人が出来たと言えばきっと祝福して「良かったな。さっさと出てけ」と笑って言ってくれるに違いない。
想像するだけで胸がかきむしられるように痛いけれど、それはきっと自分にかせられる罰なのだ。
そう思ったのに。
「嘘だな」
一世一代の気合いを入れた大嘘を、一言の元にバサリと切り捨てられ「は……?」と間抜けな声が出る。
「オマエにそんなのいねえだろ」
断定される言葉に確かにその通りなのだがどうにも面白くない。
「なんでそんなこと言えるんだよ」
帰ってきたKKに話があると伝えて、着替えてソファに座った彼にコーヒーを渡したそのついでに先ほどの作戦を実行した。出来るだけさりげなく、なんてことないように。それにKKは「ふうん」とコーヒーを一口すすって、そして先ほどの一言である。
「忘れたのかよ。オレとオマエにはあの夜繋がった縁がある。その繋がりを消すほどの縁が、今のオマエには見えねえんだよ」
それでなーにが好きな人が出来ただ、と嘲るように言われカッと顔に朱がのぼる。
「二心同体までした相手との絆がそう簡単に薄れないだけなんじゃないの。普通じゃないからね、あんなの。縁が繋がるっていうなら、これから少しずつ太くなって、あんたに見えるぐらい強くなるかもしれないじゃん」
嘘だ。少なくとも暁人からKK以外の誰かに今以上の縁が繋がるとは思えない。KKに別の絆が生まれたり結び直したりすることは考えられるけれど。それこそ、元奥さんや息子さんがいい例だ。
「この一年、KKのおかげで対処法も学べた。まだまだ未熟かもしれないけどそれでもあんたにべったりは卒業した方がいいだろ。だから、いい機会なんだよ」
嘘を嘘と認めることも出来ず、愚直に押し通すしかできない。でも今言ったのは半分は紛れもなく本心だ。あの夜相棒と呼んでくれたにしても、赤の他人の自分がこのままKKを縛り付けていいはずがないのだ。
暁人の強い意志を感じ取ったのか、KKが小さく舌打ちをする。ちらりと暁人を見た瞳には苛立ちの火が見え隠れしていて、珍しいその態度に身が震えそうになる。だがここで負けるわけにはいかないと奥歯を噛みしめてにらみ返した。
「確かに、最近巻き込まれることは減ったよなァ、おあきとくんは」
少し皮肉げな言い方にひっかかりながらも、こくりと頷いてみせる。だからもう、KKは解放されていいんだと伝えたかった。何よりも、この醜い心がばれるかもしれない日常から逃げたかった。せめて距離を取ればきっと、この心をちろちろ焼く炎は少しずつ鎮火していく。そのはずだから。
見つめ合ったままのKKは、やがてひどく酷薄な笑みを浮かべてこう告げた。
「対処法を学べた、それは間違っちゃいねえよ。けどな、最近オマエが変なのに巻き込まれることが少なくなった一番の原因はな――伊月暁人が鬼の番だって、そう思われてるからだよ」
「へ……?」
頭が真っ白になる。
鬼の、KKの、番。それはつまり、恋人とか、伴侶とか、多分そういうアレだ。そんなものだと、思われてる。自分が。周りに(どの程度かはわからないが)
羞恥と、自己嫌悪と、後ろめたさと――歓喜する心。それらがない交ぜになって喉にせり上がる。気持ち悪い。自分が、気持ち悪い。
血の気が引いて真っ青になった暁人にどう思ったのか、KKは低く唸るように笑った。
「わかるか暁人、今更なんだよ。そしてもしオレから距離を取れば……あっという間にまたさらわれちまうぞ。今度はどんな目に遭うかわかりゃしねえ」
だからおとなしく、オマエはオレといりゃいいんだ。
そう言って頬を撫でられて、暁人の目からぼろりと涙がこぼれた。それをKKがどこか暗い瞳をして親指でぬぐい取る。けれど涙は止まらなかった。ぼろぼろと、あの夜の雨のように頬とKKの指を濡らし続ける。
「……だめだよKK。やっぱり僕は、ここを出てく」
目元を撫でていたKKの指がピクリと震え、そのままほんの少し力が込められた。爪の跡がつかないぎりぎりの塩梅で、指の腹がぐりりと肌に沈む。
「オレの話聞いてなかったのか暁人くんは。いいか。怪我ぐらいですめば御の字、口に出せねえような、殺される方がましだったと思うようなそういう扱いされる可能性だって」
「――いいよ」
聞き分けのない子供に言い聞かせるようなセリフにかぶせるように言えば、男は信じられないと言うように目を見開いた。黒褐色の瞳に浮かぶ色はなんだろう、同情だろうか、憐れみだろうか。
「オマエ、何言って」
「いいよ。どうせ、あんたに救われてなかったら僕はここにいない」
あのバイク事故で、そのまま死んでたはずだ。そういう意味で、この2年半はボーナスステージだったのかもしれない。
「……ごめんねKK、知らなかったんだ」
そう、知らずに安穏と生きてたんだとわかってしまった。
「あんたにそんなに迷惑をかけてたなんて、知らなかった。なのに僕は、」
この男を好きだと、のんきに恋に溺れて、自分一人でもどうにかなるはずだと自惚れて。
「もういいよ。KKが僕に責任を感じる必要なんてないんだ」
頬を掴んだままのかさつきごつごつとした手を、そっと外す。この手に触れられるのも、好きだった。
「自由になって。子供のおもりなんか、あんたに似合わないよ」
涙にぬれた頬をぐしぐしと拭って無理に笑みを形作る。
「大丈夫、出来損ないでも僕はあんたの弟子だ。やれるとこまではやるよ」
どれくらい保つのかは正直わからないけれど。それでもずっと戦ってきた、今も戦っているこの男の重荷にはもうなりたくない。
いつかまた相棒としてでも隣に立てたらと思ってたけど、それ以前の話だったわけだ。とんだ間抜けだ自分は。
「今までありがとう、KK」
せめて優しいこの男が気にしないように、この男の目に入らないところに行こう。それでダメだったら、きっとそれは運命ってやつだ。
ああだめだ、まだ泣きそうだ。いつから自分はこんなに涙腺が緩くなったのか。少し冷静にならねばと、玄関に向かうため身を翻したところを、後ろからがしりと抱きしめられた。誰に――一人しかいない、KKだ。
「……離せよKK」
「嫌だね」
「もういいって、言ったじゃん」
僕のためにあんたが犠牲になるのはもううんざりだ。
そう吐き出すように言ったのに抱擁はさらに強くなる。
「……オマエのためなんかじゃないんだよ。全部オレのワガママだ」
「KKは優しいから、そう思うだけだろ」
それに甘えてずるずると側にいたくなる、そんな自分が一番許せなかった。
わめき散らしたい衝動を、大きく息を吐くことで散らす。ああ本当に、感情を抑えるのは得意だったはずなのに、この人に関してはうまくいかない。
自嘲気味の笑みが広がって、また目の端が潤んでくる。その隙を狙われたのか回された腕がとかれてぐいと無理やり振り向かされる。
ばちりとあった男の目の色は先ほどと何かが違っていて、それがなんなのか考える前に「こうすればわかるか」と言われたのと、唇が重なったのは同時だった。
口づけられたと理解した次の瞬間にはもう唇は離れている。それでも普段なら有り得ない至近距離にKKの整った顔があって、ぶわりと顔に熱が集まった。
「オマエがいないとダメなのは、オレだ」
「だってKK、僕のこといらないって言ったじゃん」
「手放せなくなると思ったんだよ。こんなおっさんの側にいてくれなんて、言えるわけねえだろ」
はぁ、と熱い吐息がかかる。よく見れば耳も赤く、瞳には先ほどの苛立ちとは違う炎が揺れている。
「オマエの体質はオレにとっちゃ都合が良かった。オマエのためだって言い訳して、オレに縛り付けられたからな」
これは夢だろうか。自分に都合の良い妄想か何かを見せる妖怪に取り込まれたとかではないのだろうか。
呆然としたままの暁人の鼻に、焦れたようにKKが鼻先をこすりつけた。
「気がつかないならそれでいい。そのまま囲い込んでやろうと思ってた。でも今更、化け物だろうと人間だろうとオマエをくれてやれるもんか」
涙はすでに止まっていた。灼けるような執着が、じりじりと暁人の背を焦がす。それはひどく心地が良かった。
「おっかないな……さすが元悪霊」
「嫌か」
「……嬉しいと思っちゃう僕はもう色々やばいんだと思う」
それが答えになったのか、機嫌良さげに笑ったKKの顔がまた近づいてきて――暁人は今度は目を閉じてそれを受け止めた。角度を変えて何度も啄まれるそれに、ドンと抗議代わりに胸を叩けばくっと喉で笑う気配。
「こっちは初心者なんだけど」
手加減しろよという若者に、年上は「練習あるのみだぜ?」とさらに唇を重ねる。
「……少しずつで、お願いシマス」
だってきっと、これからはずっと一緒なのだから。
春は変化の時期である。
二人の関係に花が咲き、三度目にして初めての春がきた――。