それからの日々は、淡々としていた。
公務に追われ、報告書に目を通し、臣下の言葉に相槌を打つ。でも、どの場にもヘクターの姿はない。
書面に目を落としていて、文字が頭に入ってこない時があることには気づいていた。
廊下を歩いていて、ふと振り返ってしまうことがある。気づけば足音を探していたり、視線を感じて立ち止まったりすることもあった。
夜中に何度か目が覚める。そのたびに冷えた体を一人で小さく丸めていた。
怪我はしてないだろうか、無事でいるだろうか。早く帰ってきてほしい。顔が見たい。
それでも口には出さなかった。誰にも、なにも。
そうして何日が過ぎただろうか。今日もまた同じように一日が終わる、はずだった。
「——陛下!申し上げます!宝石鉱山へ向かっていた討伐部隊が帰還したとのことです!」
衛兵が息を切らしながら玉座の間に駆け込んできた。
「……そうか」
どうにかそれだけを口にする。自分の声が震えていないか気がかりだった。あれほど待っていた日のはずなのに、現実味がない。
「御目通りを願っておりますが、いかがいたしましょうか?」
「……ああ。通してくれ」
衛兵は「はっ」と短く返答して、素早くその場を後にした。
急に足元がぐらついて、足の感覚がわからなくなった。よろけながら玉座へ勢いよく座りこむ。
めまいがした。景色の輪郭がはっきり見えず、ジェラールは思わず目を瞑った。
——ヘクターが帰ってくる。
その事実だけが、強烈に頭の中を支配する。こんなことで動揺してはならない、と諌める自分の声に耳を傾けながら、何度か深呼吸を繰り返す。
そして、どれくらいの時が経っただろうか。
時間の感覚もわからなくなっていたが、コツコツと近づいてくる靴の音がジェラールの意識を現実に引き戻した。
この音は知っている。彼の足音だ。
すぐ近くで、それがぴたりと止まる。
ジェラールはゆっくりと目を開けた。目の前には目に鮮やかな青の髪、跪いた彼の姿。
「…只今、戻りました」
どくん、と心臓が大きく跳ねた。聞き慣れた低音、その息遣い。そのどれも、自分のよく知っている彼のものだった。
「……面を上げろ、ヘクター」
ジェラールを仰ぎ見るようにして、彼はその顔を上げた。
(……少し、痩せたな)
表情には疲労の色が見えた。一ヶ月も遠出をしていたのだから無理もない。
けれどそれだけでは言い表せないなにかの違和感を感じて、ジェラールは眉を寄せた。頬が心なしか強張っているのが見てとれたからだ。
「…報告を聞こう」
「はっ」
膝をついたまま少しだけ姿勢を正し、ヘクターは慎重に話し出した。
「…宝石鉱山のモンスターですが、当初聞いていた大型のものではありませんでした。種目としてはアンデッド——死者の類です」
「死者……」
「群れを成して図体を大きく見せていたのでしょう。確かに一見すると大型には見えましたが、個々は人型でした」
「……」
「…その中で、帝国軍の紋章を持つ個体が複数いました。先の戦で行方不明とされていた兵の一部と思われます」
「……死してなお戦いを挑む…、か」
視線が一瞬だけ床に落ちる。ジェラールは肘掛けに置いた指先へ、わずかな力を込めた。目を上げるまでに、ひとつ長く息を吐く時間があった。
ヘクターは小さく首を横に振った。
「自我の残滓のようなものがあったのか…こちらに手を伸ばしてくる個体もいた。……結局、倒すしかありませんでしたがね」
「…それが最善だろう。彼らは今や、人に仇なす姿なのだからね」
「……」
少しの沈黙のあと、ヘクターはすぐには言葉を継がなかった。ただ、なにかを考え込むように黙していた。
「——陛下には、お見せするべきものではなかった。オレが行って正解でした」
言い方に含みを感じて、先ほど感じた違和感が大きくなる。彼が見たのは、本当に兵士だけだったのだろうか。ジェラールは眼前のヘクターをじっと見つめた。
「…オレたち臣下が守るべきものは、死者じゃない」
「……!」
「死者は戻らない……。だからオレたちは、生きている者のために剣を振るうんです」
床に置いた彼の拳が強く握り込まれるのが見えた。強い眼差しがジェラールを捉えていたが、どことなくその双眸は揺れていた。
玉座の背が奇妙に冷たく感じられて、息が喉の奥に引っかかる。ふう、と小さく吐き出してから、重たくなった口を開いた。
「……ご苦労だった。疲れただろう。しばらく休暇を与えるから、ゆっくり休むといい」
「……はい」
ヘクターは一度頭を下げてから立ち上がり、そのまますっと踵を返した。けれど数歩進んだところで、突然ぴたりとその足が止まる。
「……?」
立ち尽くしているその背中を見つめた。前を向いたまま動かない。
どうしたんだ?
そう声をかけようとして、口から言葉が出ることはなかった。勢いよく振り返ったヘクターの顔が、あまりにも苦しげに歪んでいたからだ。
ジェラールは思わず目を見開いた。小さく痙攣した喉が、ひくっと乾いた音を立てた。
やがてヘクターはぎこちなく目を逸らし、なにも言わず、逃げるようにその場から立ち去った。
* * *
彼はひどい顔をしていた。
去り際のヘクターを思い出し、一人ぼうっと宙を眺める。窓の外では夜風が強く吹いて、空気を割く音がやけに大きく聞こえた。
彼はなにを見たのか、なにに怯えていたのか。違和感の正体を垣間見た気がしたが、それを確かめるのは明日の方がいいだろう。ただでさえ一ヶ月の長期遠征を終えたあとだ、余計な心労はこれ以上かけたくない。
もう寝てしまおうかとジェラールは考え、部屋の灯りを消そうと立ち上がった。
その時だった。
ドンッ!
勢いよく扉が叩かれる音に全身が跳ねる。
夜も更けているというのに何度も強く叩いていた。なにか切羽詰まった気配を感じる。ジェラールは慌てて部屋の入り口へ向かい、扉を開けた。そこにいる人物が誰なのか、確かにわかった上で。
「——ヘク、」
視界が塞がれる。大きな影が目前に迫り、反射的に瞼が震えた。反応する間もなく腕が背中に回り、ジェラールの体を引き寄せていた。
「ジェラール様……っ」
あまりに強く抱きしめられて、声が出せない。握られた肩に指がぎちぎちと食い込んで、思わず顔をしかめた。突然のことに身動きができず、彼の腕の中で立ち尽くす。
久しぶりのヘクターの胸は変わらず温かかった。は、と肩口で浅い息を吐き出して、呼吸を整える。
どうしてそんな顔をしているんだ?一体、なにがあったんだ?
聞けもしない問いを呑み込む。
ジェラールは応えようとして、そっと両腕を回した。
彼の背に触れる、その寸前だった。
急に両肩を突き飛ばされ、体温が遠のいた。体がよろめいて、数歩後ろに下がる。なにが起こったのかわからなくて、ジェラールは咄嗟に目の前の彼を見上げた。
「す…すみません、…っオレ、」
ヘクターは肩で息をしていた。顔は上気しているのか血の気が引いているのか、判断がつかない。ただ激しく動揺していることだけははっきりと見てとれた。
ふらつきながら姿勢を直し、どうにかまっすぐに立ち上がる。
彼の手が小刻みに震えているのが目に入って、足が勝手に前へ動き出していた。
その瞬間、ヘクターは勢いよく身を翻した。
「——待ってくれ!」
大きな声が自分の喉から飛び出ていた。びくり、と彼の肩が跳ねる。
「…どうして、君はなにも言わない…?」
一度口にしてしまったら、もう止められなかった。溜め込んでいた思いが堰を切ったように溢れてくる。
「私は、そんなに頼りないか?君の気持ちを受けとめることは、できないのか…?」
「……っ」
「この一ヶ月…いや、その前からだ。君はずっとなにかを隠していた。今日だって、遠征が終わったその日に会いに来るのに…っ、なぜ肝心なことはなにも話さない?」
もうわからない。どうしたら君は教えてくれるんだ?
どうしたら君の心が見えてくる?
どうしたら。
「…私は、ただ君の——」
言葉の途中で、影が音もなく近づいた。
その瞬間、顎がぐいっと掴まれる。温かくて荒い呼吸が頬にかかったと思うと、唇に熱が押し当てられた。
「……!」
柔らかいのに、どこか切羽詰まった圧力。
まばたきをする間もなく、口内に舌が滑り込んできた。思わず驚いて息が詰まる。
熱い。湿った感触が遠慮なく奥へ入ってきて、歯列を撫でていく。
「…ふ、ぅ……っ、んん…っ!」
指先が反射的にヘクターの服を掴んでいた。唇がかぶりつくように喰まれる。いつの間にか背中に腕が回っていて、ぐっと距離が縮まった。
溶けるような熱と、男の匂い。
貪るように激しく、彼に求められる。それだけでこんなにも満たされて、安心できる。
触れ合った舌が押されて、絡めとられる。肺が空気を求めて苦しくなったが、それでもこの体温を離す方が怖かった。抱き寄せられた体が少し浮くような感覚に襲われる。
唇が離れる瞬間、互いの吐息が混じった。
「ジェラール様、……っ、ああ、生きてる…!」
ヘクターは小さく叫んだ。それから自分より幾分か華奢な体躯を、つぶれるほど強く抱きしめた。その一言だけで、ジェラールはずっと感じていた違和感がなんだったのかを理解した。
「すみません……っ、わかってます、自分の行動が矛盾してるってことは…!あとで全部、ちゃんと言いますから…っ」
「……ヘクター…、」
「でも、今日は…貴方を抱きたい…!生きてる貴方を、感じたい…っ」
「……!」
「…ジェラール様、抱いても、…いいですか……っ」
掠れて上擦った声だった。吐息の熱が頬にかかって、胸の奥がじんと痺れる。
(ああ、そうか。やっと、君に届いたんだな)
ジェラールは彼の目をまっすぐに見つめたまま、ゆっくりと息を吸い込む。それから小さく、だが確かに、首を縦に振った。
「…うん……。君の好きなようにしていい。…君に任せるよ」