愛に溺れる ここ数日、体調が悪い。いつもなら寝てれば治るのに、何故か今回は治らずに体調不良が続いている。高熱があったり腹や頭が痛いとか分かりやすい症状はない。ベッドから起きられないとかそこまでやばいレベルではないけど、ずっと起きてるのはちょっときつくて。
季節の変わり目でもないし、寝不足が限界をこえたわけでもないからなんでだろうって思ったけど、体調を崩した心当たりは……正直、ある。けど、確信を得てからじゃないと話せない。割とデリケートなやつだから。
「春日、一度詳しく診てもらわないか」
「そうですよ、春日。何かあってからでは遅いんですから」
「大丈夫だって言ってるじゃん」
何か食べないと。吐いてもいいから、と朝食を持ってきた大河の後ろには誓も居た。何とも言えない表情で覗いている。大河は小さなトレーを持っていて、胃に優しいお粥と冷えた水がのっていた。本来なら食欲をそそるであろう白い湯気は今の俺には少し毒だった。
二人から向けられる心配の眼差しに胸がちくりと痛む。何故かって、きっとこれは二人が心配するようなものではないから、
「大丈夫じゃないから言ってるんだろ」
「……分かった、分かったけどもう少しだけ様子見させて」
「……何かあったらすぐ病院だからな」
「はいはい」
心配する気持ちが大きくなって、怒鳴り声に近くなった大河をどうにかなだめて、もう少しだけ猶予をもらった。俺も子供じゃないし、なるべく自分でどうにかしたいわけで。
数日前から続いている吐き気とダルさ。たまに吐く。色んな匂いが引き金となって空っぽの胃からせり上がってくる。出るもんなんて胃液しかないのに。そして微熱。最初はただの風邪かと思ったけど、どこか違和感があった。そして俺はその違和感の正体にすぐ気付いてしまった。伊達に人気配信者を続けていないし、自分の身体だからね。察する能力は人一倍強いと思う。
配信者というのは、常に流行を追ったり話すネタを求めて情報を集めたりしている。時事ネタ、季節ネタ、流行りの食べ物にアイドルや芸人、それから誰々が結婚しただとか、破局したとか、全く関係ない他人の色恋沙汰。あとは男なのに子供ができた、とか。
この世界は、いつからか男も妊娠が可能になったらしい。らしい、というのはまだ自分の周りで妊娠した男性を見たことがないから。テレビではよく男の妊娠を取り上げたニュースやドラマがやっている。近所やカフェで噂話を耳にしたことはある。でも、この目ではまだ直接見たことがない。街中で男の人たちが子供を連れているのをは見たことはあるけど、知り合いにはまだいない。それほどまでにレアケース。
そのレアケースが、今まさに起きているんだと思う。自分の身体に、奇跡が。
現時点では不確定だけど、父になるであろう大河は恐らくそんなこと一ミリも考えていない。こんな身近で、しかも俺が、なんて考えたことないに決まっている。話すのは勇気いるし謎に不安に押し潰されそうで既に心がしんどいけど、隠し通せるわけもないんだよなあ。早く話すべきなんだけど、なかなか。
少しの間目を閉じて考えたけど、最適な答えが見つからずもうどうにでもなれの気持ちで大河に連絡をすることにした。
『いつでもいいから部屋きて』
布団から出てベッドの上に座り直し、詳しい内容も書かずに短い文を送ったら返事の代わりにすぐにドアを叩く音が鳴った。既読になるのとほぼ同時だったんだけど、そんなことある?
「大河?」
「入るぞ」
「どーぞ」
いつもと変わらない声のトーンに少しだけ安心した。怒ってたら話しづらいから。
ドアを開けて中に入った大河は、顔色を確認するように俺の顔をじっと見てから隣に座った。
「気分はどうだ」
「今は平気」
大河はどうして呼び出されたのか気になって仕方ないんだろうな。心なしかソワソワしている気がする。でもここで無理に聞かないところが大河らしい。
「あの、さ」
沈黙を破った俺の声に、大河がこっちを向いた。次の言葉を待っている。
深く息を吸い込んで、緊張と不安で乱れそうになっていた呼吸を整える。ゆっくりと息を吐いてから、もう一度息を吸って、口を開いた。
「……できた、って言ったら…………どーする?」
言った。とうとう言ってしまった。曖昧な伝え方をしてしまったけど、これが精一杯。
どうしよう、怖くて大河の顔、見れない。
「できた、って…………お前、まさか」
大河の声は、少し震えていた。
「そのまさか。多分、だけど」
「……病院は」
「まだ」
「まずは病院行くぞ。話はそこから」
「できてたら大河困るんじゃないの」
「……はるひ、」
「俺、一人だと多分無理だから、最悪のケース、覚悟してるから」
「春日、落ち着け」
自分らしくない。感情がこんなにもブレるなんて、本当に自分らしくないことを口走ってしまった。こういうときにdemuになれればスラスラ言葉が紡げるのに、俺じゃ上手く話せなくてもどかしい。大河に当たるつもりも、空気を悪くするつもりもないのに。
「!」
俯いていたら影が視界を急に覆って、目の前が暗くなったと同時に唇が塞がれた。
「っ、ん……!」
大河の前髪が俺の肌に擦れてくすぐったい。
あまりに突然だったから目を閉じる暇もなくて、大河の顔を間近で見ながら状況を整理した。
舌を入れてくるわけでもなく、ただ口を塞ぐだけのキス。触れた唇から流れてくる大河の温もりが内側を満たして、ぐるぐる巡りまくっていた思考が少しずつクリアになっていく。
十秒……いやもっと? 繋がったままだった唇がようやく離れたかと思ったらそのまま背中に腕を回され、優しく抱きしめられた。今度は大河の匂いに包まれて身も心もあたたかくなった。
「……少しは落ち着いたか?」
「……落ち着かせる為にキスって、少女漫画でも読んだの?」
「お前なあ……」
子供をあやすように背中を優しく撫でながら、俺が落ち着くのを待ってくれている。手が触れているところがじんわりと熱をもって、心地いい。
大河の大人の余裕みたいなものをすんなり受け止めるのがちょっと恥ずかしく感じて、思わず茶化したら耳元から呆れたような声が聞こえた。
「……ごめん、落ち着いたから」
「そうか。それならまずは、やっぱり病院だな」
「……ん」
不安な気持ちが伝わってしまったのか、大河は抱きしめたまま俺の後頭部を撫でて、ぎゅう、と身体に力を込めた。髪の毛を指に絡めて優しい手付きで何度も撫でて、俺の不安を拭おうとしているようだった。
「一緒に行くから、大丈夫だ」
「え、いいよ大河忙しいでしょ」
「おま、ふざけたことを言うな。お前一人で行かせられるわけないだろ」
「えぇ……」
まだ出来ているかなんて分からないのに、もう父性が湧いたのか。それとも一人の男として恋人を心配してくれているのだろうか。正解は俺にはわからないけど、大河が俺をめちゃくちゃ想っていることだけは分かる。
「予定確認して行ける日決めるぞ。なるべく早く」
大河は優しい声色でそう言うと、そっと俺の身体をベッドに寝かせて布団をかぶせてきた。
「食べれるときにそれ、食べとけよ。無理はしなくていいからな」
「……うん、あんがと」
先程持ってきてくれたお粥はもう冷めてしまったけど、大河のあたたかさは変わらない。
部屋から出ていく大河の背中を見送って、俺は布団に潜り込んだ。身体を丸めて、まるで子供のように。
てっきり大河は自分のことを責めると思ってた。俺が悪い。俺のせいだ。すまない。とか言ってくると思ってた。毎回きちんと避妊してたけど、避妊しても百パーじゃないことなんて今どき小学生でも知ってる。どっちが悪いとか、そんなものはない。だからそんなこと言われたら流石にぶん殴ろうかなとか考えてたけど、大河は俺が思ってたよりもちゃんとしていて、俺が不安にならないように答えてくれた。
命が宿っていてもいなくても、大河は受け入れてくれる。この先どんな困難があったとしても、きっと大河は立ち向かってくれる。俺を守りながら。
だって大河だもん。
一緒にいて落ち着く、全てを任せられる、唯一の人間。俺のことを一番に考えてくれて、どれだけ些細な変化にもすぐに気付くようなすごい人。
家系のことも仕事のことも問題は山積みだけど、いざとなれば誓も居るしどうにかなる、だろ。多分。俺たちハウスに住んでて良かった。こうなったら俺がこの会社での第一人者になってやろうじゃん。最初から全て上手くいくなんて思ってないし、皆巻き込んだらなんとかなる、そんな気がする。
まだ見ぬ未来のことを頭の中で描きながら、目を閉じた。
月の光に満ちた世界に辿り着けますようにと。