≪綾人蛍≫セックスしないと出られない部屋身支度を済ませて彼女が待つ寝室へと入れば、何故か立ち尽くしたままの蛍と目が合った。途端に慌てる彼女を不思議に思いながらも、ひとまず扉を閉めようと振り返る。閉めた先には何やら白い紙。ちまっとした文字で何か書かれている。蛍の筆跡か。
『セックスしないと出られない部屋』
ほう。
彼女を見やればふいと目を逸らされる。顔を覗き込もうとしてもくるりと背を向けられて、その先を綾人が追いかけるものだから、蛍はぐるぐる逃げては回転してみせる。
「蛍さん」
「……なあに」
肩をつかんで止めさせれば、俯いたまま返事が返ってきた。頬に手を添えれば顔を見られることを恐れたのか、ぎゅうと抱きついてくる。今日はずいぶんと大胆だ。
「説明していただいても」
「……そのまんま」
そうですか、では、とはならないだろう。これまで散々我慢してきた綾人はなんだったのか。
なぜこんな行動に出たのか、そもそも彼女にこんなことを吹き込んだのは誰なのか。聞きたいことは山程ある。押し黙ったままの綾人に不安を募らせたのか、彼女は言葉を続けた。
「し、しないと出られない部屋、だから……」
「はい」
「その……」
「その?」
とりあえず、顔を見せてはくれないだろうか。うずめられたままの頭を撫でてみても、名を呼んでみても、ただぎゅむぎゅむと抱きしめられるだけだった。
「鼻が潰れてしまいますよ」
「綾人さんは……私としたくない?」
だからどんな表情をしてそんなことを言っているんだ。やや強引に蛍の頬を引き剥がそうとすれば、さらに顔が押し付けられる。なるほど、大胆な上に強情だ。
おでこをぐりぐりと擦りつけているのは照れをごまかしているのか、返事を催促しているのか。
あまりの抵抗に諦めて細い腰を抱けば、小さな手が綾人の着衣をしわくちゃに握りしめる。綾人が手を動かしただけで身体をかたくして、彼女はずいぶん緊張している、と考えるのはまるで他人事すぎるか。あんな張り紙をしておきながらもこんな様子で、そもそも最後まで耐えられるのかどうか。
「もちろん、貴女となら、という気持ちはありますよ」
「じゃあ」
「ですが、婚前にそのようなことは」
「それって誰が決めたの?」
「誰が……ですか」
食い気味に問うてきた彼女は、ようやく顔を上げたかと思えば今にも泣きそうな顔をしていた。何がそんなに彼女を不安にさせるのだろう。いや、綾人のせいではあるのだが。
そもそも、魅力的な彼女を前にして冷静になどなれるものか。そういうことを目当てに交際していると思われたくなくて、怖がらせたくなくて、余裕のある大人に見せたくて、どうにかやり過ごしてきただけのこと。心を乱されてはそんなこだわりなど捨ててしまえと何度思ったことか。
「だって、昔はそういうことしてから結婚してたって聞いたよ」
三日続けて会えば結婚だったんでしょ? と。いつの時代の話だ。なるほど、誰の入れ知恵かが想像できる。あちらの思惑通りというのも少々納得がいかないところではあるが。
「貴女と、この部屋でずっとふたりきり、もいいかもしれませんね」
「そういうことじゃない!」
ばふ、と胸元に額が打ち付けられる。ばふばふ。そんな可愛らしい動きでは痛くもないのだけれど。少々意地悪が過ぎたか。すっかり解かれた髪を梳くように撫でて宥めれば、動きが止まる。
「……もういいよ。困らせてごめんね。」
そんなこの世の終わりのような顔をしなくたって。
綾人だって、ここまでの上げ膳据え膳を無視できる程できた男ではない。こうも縋る愛しい人の願いをどう叶えようかと悩んでいるだけなのに。
口元を緩める綾人に気づく様子もないまま腕を抜け出した蛍は、例の張り紙を回収しようと手を伸ばす。綾人の目線に合わせて貼ったものだから、剥がすのは大変だろうに。
彼女を追いかけて、背伸びをしてできた腰のくぼみをするりと撫でれば、びく、と身体が跳ねた。つま先立ちの蛍はバランスを崩して扉にしなだれかかる。大きく目を見開いた彼女に咎められる前に抱きすくめれば、小さな身体はさらに縮こまって。なんとかわいらしい。思わずふ、と漏らした声をどう拾ったのか、ぐっと下唇を噛み締めた。ああ、綾人の行動ひとつでこんなにも感情を変化させる彼女が、どうしようもなく愛おしい。
「跡がつきますよ」
唇を優しくなぞれば、ついに涙が溢れた。まだ拒まれていると勘違いしているのだろうか。蛍の願いを無下にしたことなどないのに。
そっと涙を拭った手でそのまま鍵を閉めれば、はっと息を呑んだ音が聞こえる。濡れた瞳が一瞬で期待に染まるのを見ながら、目の前の張り紙を剥がして、閉じ込めるように唇を重ねた。