《綾人蛍》拗ねないで、愛しい人 近頃忙しくしているという蛍が、わざわざ小さな相棒をどこかに置いてまでして今晩は屋敷に泊まりたいと言い出すのだから、綾人もそれなりの何かを期待していたというのに。気落ちする感覚に自分が想像以上に浮かれていたことを今さら自覚しながら、廊下まで響いている少女たちのはしゃぐ声を聞いた。
もうかれこれ数時間、蛍は綾華の部屋へと足を踏み入れたきり出てこなかった。一応は湯浴みを済ませたらしい気配こそあったものの、夕餉を終えてから一度も顔を合わせていない綾人からすれば面白くなかった。
確かに蛍がここに顔を出すのは珍しいことではないし、綾華と夜ふかしをするのもいつものことだ。ただの平凡な日常といえばそうなる。
ただ今日ばかりは事情が違うと思わないか、と壁に掛けられた暦を睨みつけた。何の罪もないそれが返事をすることこそなかったが、記された日付はこれでもかと主張してくる。トーマがわざわざ丁寧に赤く囲った二十六の数字が綾人を見ていた。
蛍のことを考える頭が探したがるのは、蛍から貰ったもの。
視線が捉えたのは箪笥の上に飾られたフォンテーヌ土産の機械仕掛け。今は短針と長針とが見事に真上を向いて重なり合っている。長針が次の数字を目指して時を刻む音は、綾人がついに誕生日を迎えたことを知らせる音だった。
子どもでもないのだから、今さら誕生日が何だというものではないことはわかっている。それでも、特別な人からの祝いの言葉くらいは期待したって許されるだろうと思っていたのに。
「ばか」
らしくなく感じた寂しさのやり場に困って慣れぬ罵倒として吐き出せば、それは畳に吸われて消える。後に残された痛いほどの静けさにさらに虚しくなりながら、敷かれていた布団に足を滑り込ませた。こうなったら不貞寝だ。一晩経てば多少は感情の整理もつくだろうし、それから蛍に詰め寄って、彼女の良心につけこんで思い切り甘えてやる。蛍がいけないのだ。ちょうど誕生日を迎える綾人をそばにいながらも放置したのだから、その責任くらいは取ってもらわねばならないだろう。
「何が『ばか』なの?」
まさか自分以外の声がするとは思わず、悪事が見つかった子どものように寝転がした体が強張った。同時に引き攣った喉の情けない音を咄嗟に咳払いで繕うも、蛍にはそれも見抜かれているような予感がした。
「っ蛍さ、ん……いるならいるとおっしゃってください、驚きましたよ」
「うん。びくーって、猫ちゃんみたいに跳ねてたね」
「猫ちゃん……」
「それで? 猫ちゃんは何に拗ねてたの?」
「拗ねてなんかいませんよ、別に」
「拗ねてる」
「違います」
「違うならこっち向いて」
罵声が静寂に溶けていった時点でわかったはずだ、少女たちの声がしなくなったと。あの二人が揃ってこんなお行儀の良い時間に眠るはずがないのに。それすら思い至らないまま、また誰かが引戸を開けたことにも気づかないほどに落ち込んで、"たかが"誕生日を綾人はどれだけ気にしているのかと気恥ずかしくなった。
とはいえ乱入してきた蛍に背中を向けたのはさすがに不自然だったか。こういうことばかり鋭い蛍を無視したいところだったが、このままでは綾人が拗ねていることになってしまう。いや実際拗ねているも同然なのだが、どうも認めるには悔しかった。
傍らの行灯に伸ばしたまま固まっていた手を引っ込め、大人しく寝返りを打つ。乱れた掛け布団を整えようと持ち上げると、その腕の間に蛍がするりと入り込んできた。
「蛍さん?」
「寝るんでしょ?」
「ええ、寝ますが……」
「それ消していいよ。それとも私がやろうか?」
「いえ、私の方が近いですから」
突如詰められた距離に困惑する。気まぐれすぎる蛍を怒ってやりたかった。散々放置したかと思えば急に綾人の腕の中に戻ってきて、いささか都合が良すぎやしないかと。
とはいえ風呂上がりの石けんの香りを漂わせる髪に擽られると、そんな気持ちも萎んでしまって恋人との触れ合いに舞い上がるのだから困ったものだった。
言われた通りに灯りを消せば辺りには闇が満ちる。目を瞑り、瞼の裏に残るちらつきを収めてからゆっくり目を開ければ、わずかな月明かりに浮かぶ蛍の姿が見えた。
「蛍さんもここで眠るのですか」
「泊めてって言ったじゃない」
「てっきり綾華と夜通し騒ぐつもりなのかと」
「それ本気で言ってるの? それともまだ拗ねてる?」
ですから、と口ごたえするはずだったそれは、頬をつねられていびつになった。ふにゃりと不思議な発音を聞き届けた蛍は、間抜けであろう綾人の顔を前にぷっと吹き出す。
「私は綾人さんに会いに来たのに」
「ずっと綾華の部屋に籠もっておいてよくもそんなことを仰る」
「それはまあ、ちょっとね」
硬くて大して面白くもないだろう頬はひとしきり揉まれた後に解放される。そこだけに血が巡る違和感を擦りながら、綾人を見つめる大きな瞳を見つめ返した。
「なんですか」
「やっぱり拗ねてるでしょ。可愛いね綾人さん」
「……蛍さん」
「んふふ、ごめんごめん」
呆れて盛大なため息を放つ綾人に謝罪しながらも、蛍は笑みを止める気はないらしい。綾人が拗ねていることの何が面白いのか。さらには男に向かって可愛いだなんて、褒め言葉らしいとはわかっていても複雑な気分だ。綾人をおだてたいならもっと他に言葉があるだろうに。
くすくすと体を揺らす蛍を押し潰すつもりで抱き寄せれば苦しいと怒られた。怒りたいのは綾人の方だ、まったく。綾人の愛によって許されていることに気づかない恋人は、腕の中で身動ぎしてその可愛い顔を綾人に見せつけた。
「綾人さん。お誕生日おめでとう」
それから、暗闇をも照らすような眩しい笑みでそう言った。
もうそろそろ日付も変わるよね? と時計を探そうとする体をもう一度押し潰す。
日付ならとっくに変わっている。だから綾人は「ばか」と独りごちるはめになったのだ。それをなんだ、おめでとうとは。綾人に会いに来たというその言葉を信じるのなら、蛍ははじめから綾人の誕生日を忘れていたわけではないのだろう。そのくせ遅刻だとはいい度胸ではないか。綾華の部屋ではしゃぐうちに遅くなったことにも気づかなかったというのか。
でも、覚えていてくれたのか。それが結局、嬉しかった。ぐちゃぐちゃの感情を隠すように、温かい布団の中で小さな体を抱き締める。
「ぅ……くるし、てば、」
「罰ですよ。遅れた罰」
「え、うそっ……ぐ」
そうでもしないとだらしなく緩む頬を見られてしまうから。綾人は"拗ねている"のだから、機嫌が直ったと思われては困るのだ。拗ねた男を見せて、仕方がないと甘やかしてもらわなければならない。
綾人は十分きつく締めているつもりだったが、それでも全身を使って押し返してくる力は中々のもので。これ以上は本当に潰してしまうかもしれないと思うと憚られて、その体に乗り上げて動きを封じるくらいしか方法はなかった。
下敷きになった蛍に背中を叩かれてようやく腕を緩める。蛍の豊満なそれに自身の胸板を押し付けて拘束することは忘れずに。まだ暴れたがる脚も同じく挟み、それからだらしない表情をのせた自身の顔はそっぽを向いて隠しておいた。
「ごめんね、時間過ぎてたなんて気づかなくて」
「どうせ綾華とのお喋りに夢中だったのでしょう」
「それはまあ、そうなんだけど」
ならば無視だ、無視。綾人は拗ねているのだから、無視。よそでうつつを抜かして綾人の誕生日に遅刻した蛍など。
「ちょっとね、ほら、仕込みが」
頭を撫でられたって無視。だからもっと甘やかせ、と。むっとした蛍に頭突きをされたってまだ負けてやれるものか。
そこそこ、程々に、それなりに――いや、かなり。寂しかったのだから。もっと甘やかしてもらわなければ割に合わない。可愛く名前を呼ばれた程度で折れるわけにはいかないのだ。
「無視?」
そうだとも。ちょっとやそっとでは許してやらない。緩めた腕の拘束をもう一度きつくする。
「ふうん、いいんだ、そんなことして」
何を言われたって揺らがないという決意。
「せっかくえっちな下着つけてるのに。プレゼントいらないんだね」
強固なはずの決意は、一瞬で揺らいだ。
なんだそれは。がばりと体を剥がしたのはもう、仕方がないと思う。夜中に布団に潜り込んできた恋人にそんな魅力的なことを言われて、気にならないわけがなかった。
「見たい?」
「……見たい、です」
これには負けを認めざるを得なかった。ぽつりと漏らした降参の意に、見下ろした蛍はしてやったりと笑みを浮かべる。悔しいような気もするが、こんな負けなら悪くないとも思った。
蛍の発言を受けたせいか、組み敷いた体がひどく柔らかいものに感じられる。途端に邪な思考に切り替わるのだから不思議なものだった。
包み込むような感触に誘われて伸ばした手が服の端を捉える。どんな闇の中だろうがこれを脱がせるのは綾人にとってもう朝飯前のことだ。
しかし。
「こら。だめだよ綾人さん」
いやに甘ったるい声の蛍が制止する。それだけで、手を掴まれたわけでもないのに、綾人の体は時の流れを忘れたかのように動きを止める。ご機嫌取りを求めて手綱を握っていたのは綾人だったにもかかわらず。なんとも愚かで従順な男だった。
「だって私のこと無視してたでしょ。あーあ、寂しかったなぁ」
気づけば立場はすっかり逆転して、わざとらしく眉を下げた蛍がちらちらと視線を寄越してくる。
それがなんというか、単純に。可愛いと思った。こちらを振り回そうとする態度が。
その拗ねた"ふり"が先程までの綾人と全く同じであることにも、恋人のそれをまた同じく可愛いと評したことにもついぞ気づかなかったけれど。
「ん、ふふ、すみませんでした」
「笑ってる」
「笑ってませ、ふは」
「笑ってる!」
愛しさに溢れるこの衝動をどう伝えようかと、今度こそ本当に拗ねてしまった蛍を抱き締め、額を擦り当てる。誕生日を忘れられているかもしれないことへの悲しみはもう消え去ってしまった。綾人のこれはすっかり全部全部、拗ねた"ふり"だ。
「私も寂しかったんですよ。まさか、大事な大事な恋人に誕生日を忘れられているのかと思って」
「準備してただけなの。ごめんね、許してくれる?」
「蛍さんからキスしてもらえるなら考えます」
恥ずかしがって時間がかかるか、綾人を焦らそうと抵抗するか、そう予想していたのだが。予想とは裏腹に、堪能するための準備すら整っていないのに蛍は首を伸ばしてしまう。あっという間に掠めていった温度に綾人は反応できなかった。
悔しい。もう一度とねだる時間すら惜しく、まだ勝ったつもりでいるらしい蛍の頬を引き寄せた。何か言いたげな表情にさらに口づける。大方、こんなにするとは聞いていないだとかそんな話だろう。生憎キス一回で満足するほど"拗ねた"綾人は単純ではないのだ。
そこらの甘味よりも余程甘ったるい唇を繰り返し食む。癖になる柔らかさから伝わる熱を、背中に回った腕に思い切り叩かれるまでひたすらに味わった。
「ん、も……機嫌は直ったの?」
「少しだけですが」
「これで少しなの……やりすぎ」
「おや、いけませんか? 私へのプレゼントだと伺ったものですから、つい」
次にしてやったりと笑みを浮かべたのは綾人の方だった。発言に心当たりのある蛍は、息も絶え絶えながらこれはプレゼントではないと否定するのにやっとのようだ。
隙を見て濡れた唇を奪おうとすればそれはすんでのところで阻止される。しかし残念に思う暇もなく、蛍はすぐに言葉を重ねた。
「プレゼント、今からあげるから。ちょっと大人しくしてて」
「ふむ……そこまで言うのなら仕方ありませんね」
「うん。いい子」
本当のところは綾人に捧げられると噂のえっちな下着が気になって仕方がないのだが、やる気に満ちた表情に免じて言われるままに口を閉じた。
頬が撫でられる。一見すればただの子ども扱いであったが、蛍からの視線に滲む熱はそういった可愛らしい類のものではないことは明白だった。
引き寄せられて唇が触れる寸前、互いの呼吸が肌を擽る距離で蛍はもう一度だけ言う。
「お誕生日おめでとう、綾人さん」