天才とは何だろう。
沖野司という人物と知り合ってから、比治山はしばしばそんなことを考えるようになった。
彼ならばより厳密に「沖野司に関心を寄せてから」と表現するだろうか。エンジニアの肩書を持つ多くの人間がそうである以上に、彼の言葉には誤差や迷いが乏しい。
天才。天才。天才。
飛び抜けた能力を持つ者。或いは、そう称されるような功績を立てている者。立て続けている者。
それらは比治山の知る「沖野司」とは違う気がする。
残念ながら比治山の頭はせいぜい人並みで、この違和感を彼の言葉のように明快に言い当てることが出来ない。
座学や筆記テストの部類は苦手と言って差し支えない人生を送ってきた。どう足掻いても身体で覚えなければ身につかない方で、昔の上司には「地頭はいいが頭が固い」という褒めているのだか呆れているのだかよく分からない評価をされた。
上司の性格や、当時の環境を思えばあれは「釘を刺された」と数年後にようやく理解出来たあたり、その言葉は的を射ていたのだ。
そう、比治山の中の優秀な人間の例と言えばその上司だ。
和泉十郎。当時の階級は三佐。規則の隙を突いて我を通すようなところは組織人として些か問題視されていたが、部下や民間人のための行動なのだから間違いなく優秀な上司と言えた。
この人の下で働き続けたいと思える人物で――だから次の食い扶持を探すうちについ、自分より先に海兵隊を去った彼の元へ戻ってしまった。
だが和泉十郎は特に天才と称されるような人間ではないだろう。
彼の鍛え上げられた肉体と、練り上げられた技能、広範な知識と経験に基づく判断力、これらは万人が持ち得るものではないにしろ、この種の職業人の適性に過ぎない。
比治山自身もそうだ。学生時代の友人に「いくら鍛えたってそうはならねぇよ」と揶揄された肉体は確かに生まれつきの才能の一種で、仕事への十分な適性を自覚しているが、一般社会ならばともかく選抜された集団の中では平凡なものだ。
沖野司は、おそらく、その選抜された集団の中でも頭一つ抜きん出ている程の天才なのだろう。
警備員として勤めるコロニーで耳にする噂話はそれを裏付ける。
沖野司は優秀だ。沖野司はすごい。もう全部あいつでいいんじゃないか。態度が悪い。気に食わない。不真面目だ。普通に考えて分かるわけないだろ。こっちを馬鹿だと思ってやがる。顔はいいよな、顔は。話したくないわ。見ましたかあれ、一体どんな方法で実装してるんでしょう。間違っても聞きに行くな、ひどい目に遭うぞ。宇宙人でしょ。……あ、ここ宇宙だったか。まぁでも、ほら、アレじゃん?
あまりいい噂は聞かない。コロニー全体が企業関係者のみで構成されているためか、通路を歩く人々は臆面もなく愚痴や企業秘密を垂れ流す。
圧倒的な力量の差に対するどうしようもない羨望と、能力に相反する人間性の問題。彼の所属する開発部署付近ではひどいものだ。
コロニーのような閉鎖空間では人間関係の軋轢が重大事故を招くことも少なくなく、人々の観察と状況報告は比治山の業務のひとつであった。
しかし、ここでも沖野司は異端だった。
沖野当人が誰に何を言われても気にしないという態度のためか、彼は人々にとって堂々と陰口を言っていい相手と見做されていた。
警備部門の判断も経過観察と但し書きが付くものの同様。通常なら所属部門に報告し、コーディネーターを入れて環境改善を試みるべき程度にもかかわらず、である。
天才――。きっとこれは秀でた者を表す言葉ではない。
生まれ持った素質の違い、与えられた環境の違い、そしてどうしようもない現在の事実への諦めとして使われる。
沖野司は天才だ。
それは職務のために鍛え上げた肉体をすれ違った子供に恐れられる不遇と同じ種類の言葉だ。
比治山は自分の意志でこの道を選んだのだから苦笑で済ませられるが、沖野司は「天才」になるべく遺伝子を含めた全てを与えられてその椅子に座っている。――座らされた、のかもしれない。彼の生い立ちを本人から聞くに、そんな印象を受けた。
沖野司は天才だが、比治山の恋人である。
彼の置かれた状況に仕事として関心を払っていただけのはずだったのが、いつの間にか好意や庇護欲なんかに置き換わり、それでも節度ある年上の友人として接していたつもりがこの体たらく。
個人的感情を持った相手が観察対象では務まらないと配置換えにもなった。毎日のように顔を合わせることが出来なくなったが仕方ない。
「隆俊? ああ。いまちょうど仕事が終わったんだ。すごくいいアイデアを思いついてね」
聞いて欲しい、と通信の向こうで沖野の声色が語る。
「要求仕様が厄介でさ、限られたリソースで膨大な処理をさせる必要があるのは前に話したよね。それで既存のライブラリ……えっと、処理方式だと絶対に動かないから調査依頼があったんだけど――」
専門的な内容を比治山に分かるように平易に伝えようとする言葉は、彼がやり遂げたことを半分も説明していないのだろう。比治山にはそれが天才の沖野司にしか出来ない事なのか、平凡な人間でもちょっとしたきっかけで思いつける物事なのかの区別すら付かない。
本当は言っていることを同じ視点できちんと理解出来る相手に言いたいだろうに。彼の評判はあの通りで、それは彼が今までに諦めを繰り返してきた証左でもある。
中途半端に知識がある者との話はかえって分かり合えずじれったいのだろう。
「負荷分散の議論なんか百年前に出尽くしたと思ってたら案外……ああ、つまり限られた状況なら古い技術も役に立つっていうか、」
「サバイバル環境みたいなものか?」
「うん、多分そんな感じ。地球圏じゃリソースなんて気にしないから廃れてしまったんだ。今回は無人島で都市生活をやりたいって話でさ」
「その割には楽しそうだな」
「まぁね」
沖野は何度も言葉を選んで、比治山の知る物事に喩えて、行き詰ってもどうにか理解出来るところまで運ぼうとするか、或いは、比治山に悟られないように諦める。
本来はこういった努力をする人物なのだと、沖野司は決して陰で誹られるような傲慢な天才ではないと思う。どうにか共感してほしいという、誰もが持ち合わせる感情をもった人間だ。
たとえこれが惚れた欲目であろうと、比治山にとってはこの態度こそ愛おしい。才能など関係ない。彼のことを、理解したいと思う。
「なら、最終的に目標以上の成果が出たわけか」
「そういうこと」
「そうか。すごいな、ツカサは」
「これくらい普通だよ。でも隆俊が熱心に聞いてくれるから、少し喋り過ぎたかな」
恋人に褒められた彼は当たり前に嬉しそうだ。
仕事中の沖野司ならもっと端的な報告をするだろうし、本人にも自覚があるようで多少の照れくささが声に滲んでいる。
彼がある分野で天才的な能力を発揮すると言っても体力は比治山に劣るし、親しい相手に褒められれば他愛ないことで喜ぶし、知らないこともある。
「あ、そうだ。君が忘れて行った服、洗っておいたから今度取りに来てね」
例えば洗濯などは以前の彼は全てをクリーニングサービスに任せる有様で自室の洗濯機の使い方を知らなかった。もちろん彼は説明書を読めば十分以上に理解出来るのだが、当人にやる気も読む気も無く、比治山に教わって初めて日常的に稼働させるようになった。
そんな具合だから会話が終わってしまうのが名残惜しいとばかりに会った時に言えばいいことをわざわざ口にするのが微笑ましい。
分かった、などという野暮な返事はしない。
「ありがとう。取りに行くだけでいいのか?」
「……いや、ちゃんと部屋に来てゆっくり過ごして、また忘れ物をしてほしいな」
「心得た」
沖野司は天才だ。頭が良い。仕事も人間的な評判こそ悪いが、優秀な成果を上げる。
だが、その能力は比治山にとって沖野司という恋人の一面に過ぎない。
きっと沖野司が天才でなくとも比治山は彼を愛するだろう。けれど沖野司が天才だったからこそ、出会うことになった。
彼の「天才」など、それで十分だ。
2024.07.14