群青ではない僕らの あれから沖野の様子がおかしい。短いながら相棒として過ごしてきた距離感にひとつ見えない線が引かれたかのように、過剰な揶揄いが鳴りを潜めて彼は「仕事」のための調査に朝も夜もなく没頭していた。
理由は分かりきっている。比治山が彼の告白を無下にしてしまったからだ。
あの時、驚いてつい口にした言葉を受けて沖野はあっさりと冗談である事にした。しかしその歯切れの悪さと押し付けられるように渡された手紙は比治山の記憶に強く引っ掛かっていた。
あれは本気だった。どうあれ俺は受け止めねばならなかった。断るにしてももう少し別の方法があったはずだ。
だが口達者の沖野に今更何とも言い出せず日々を過ごしている。彼がその隙を作らないというのもまた軟弱な考えだ。挙句、手紙の封すら開けていないことまで知られている。比治山にやり直す機会があるとするなら中身を読んだと告げる時であろうと思うのに、それをすれば何かが致命的に変わってしまうようで恐ろしい。
そんな煮え切らない状況でも沖野は平気で女生徒――桐子の姿を装う。咲良高校で活動するためだ。そして放課後となった時間に旧校舎で待っていた比治山に声を掛けた。
「少し、着いて来てくれ」
連れ出された先は海だった。
*
「比治山くんはここに来たことはあるかい」
「ああ。ガキの頃に泳いだこともある。俺の時代では軍の遊泳訓練場になっていた」
40年経てども自然の作り出す形はそう変わらない。比治山にも見覚えがあるこじんまりした浜辺は一方を山、他方を船着き場に阻まれて簡単に全景を視界に収めることが出来た。季節外れの今は木枠のような掘っ立て小屋がぽつんとあるきりで、他に人影もない。
「そうか、なら話は早い」
潮風と呼ぶにはあまりにも控え目な淡い磯の匂いの中、沖野が先を行く。
「海に用事があるのか」
砂地に慣れていないことが分かる歩みは左右に傾いでどこか覚束ない。不規則に揺れるスカートの裾から見える膝裏はよくよく見れば男である。不埒な観察をしてしまったことに気付いて比治山は目を逸らした。革靴で歩く浜辺は彼にとっても慣れないものだ。歩幅が違うはずなのに不思議と追い付けない。
浜の真ん中あたりまで来てようやく沖野は立ち止まった。先ほどの比治山の問いに応えるでもなく、ここに来てから随分と寡黙だ。
「おい、沖野」
彼の目は遠く、海を見ていた。海上には漁船と思しき船影が幾つか行きかっている。その先では五月の穏やかな空と白波の立つ深い群青が交わり、果ての水平線を描いていた。
平和な海だ。
最早機雷の心配もあるまい。長く伸びてしまった髪が風に流されて揺れる。
比治山が感慨に耽っていると隣の沖野が妙な動きをして視線を移した。片足立ちになって靴を踵から落とし、靴下も下げ落として丸めたのを履物の中へ詰め込んでいる。一方が終わればもう片方も。
「な、何をしている」
女性の素足は比治山の価値観ではあられもないものだ。こんな場でみだりに見せるものではない。いや、沖野は男で、こうなっては隠しきれない筋張った膝下の様子も慌てるような形をしていないのだが、なにせ彼は今、桐子の姿だ。両足でしっかりと砂浜に立った沖野はどこか不均衡な危うさがあり、誰にも見せたくなかった。
その足が、やはり比治山に何も言わずに海に向かう。ずっと、真剣な瞳で彼は果てを見ていた。
沖野のように靴を脱ぐ間もなく比治山は追いかける。裸足になったことで沖野の歩みが先程までより速くなっていた。
「沖野! 待て、沖野!」
構わず彼は湿った砂に足跡を残して海水の揺れる中へ入っていく。波が足跡を洗い流す。膝丈のスカートの裾が飛沫を浴びて色を変える。靴のままの比治山は波打ち際で逡巡した。彼は替えの靴を持っていない。革靴を濡らすと後が厄介だ。脱ぎ捨てるといった調子で靴を放り出して適当に浜へ投げるが、その間にも沖野は海を歩いていってしまう。スカートもすっかり海面に触れて揺れている。ズボンを捲り上げている暇などなかった。
彼が何を考えているか分からない。何か言って欲しいが、ここまで返事をしなかった沖野だ。どれだけ叫んでも波にかき消されたことになってしまうに違いない。
比治山は焦った。同じような焦燥をつい最近覚えたことがある。機兵の装備が投射した映像で、沖野が死んだと聞かされた時、あれと同じだ。直感が沖野が死んでしまうと告げている。
そんな馬鹿げたことがあるか。沖野は俺に付いて来いと言ってここに来たのだ。それでこれ見よがしに入水するほど女々しい男ではない。それならせめて一緒に死のうとでも言えばいい。俺が止めるに違いないから言わないのか。言っても言わなくても俺は止めるぞ。こんなところで無為に死んで花実が咲くものか。お前は何を抱えている。沖野!
飛沫を立て、姿勢を崩し、学生服が濡れるのも構わなかった。纏わりついて重くなる上着をがむしゃらに脱ぎ捨てる。水位は既に比治山の腰にまで達し、一歩ごとに深くなっていく。上背に劣る沖野は海中にスカートを泳がせ、三つ編みの先を湿らせていた。
「沖野!」
腕を掴んだ。銀の髪をなびかせ、沖野が振り返る。無機質な顔に表情が灯る。目を見開き、驚き、笑い、少し寂しそうにした。大きな波が迫り、うねる海水に身体が煽られ、浮力をもって重心が崩れる。
比治山はとっさに沖野を胸に抱えた。足元の砂が滑るまま海中へ落ちる。空の色が海色に溶ける。空気の泡と巻き上げられた砂の粒子に視界が煙る。
(比治山くん、)
靴を脱いでいてよかった。爪先に触れた深い砂地を底と定めて力任せに二人分の身体を引き上げる。水を纏った衣類は重い。沖野の腕を肩へ担ぎ上げてようやく息が吐けた。吸って一喝。
「何をしとるんだ貴様!」
腰の高さまであれば人は溺死する。ましてや海、更には着衣。
幸いにも肺に水を飲んだ様子はないようで、沖野は咳き込むこともなく比治山を見た。
「降ろしてくれ比治山くん。君に抱えられていると足が付かない」
「断る。陸へ上がるぞ」
たとえ足が付くようになっても離す気はない。纏わりつくスカートに苦労しながら暴れる沖野を半ば引き摺るように踵を返す。途中で脱いだ上着は少しばかり流されてしまっていたが回収は後だ。五月の海は平気で入っていられるような水温ではない。全身がずぶ濡れになったことで海風が容赦なく感じられた。
「待って、待ってくれ、僕が悪かった。君とちゃんとくっついているから少し止まってくれ。理由があるんだ」
「理由?」
沖野はずれ落ちそうなウィッグを整えてから海の端――山側の岬を指した。
「あそこに灯台があるだろう。君の時代にもあれはあったか?」
「ああ……今とは様子が違うが確かに」
「そうか。ならいい。用事は済んだ」
あんなもの陸からでも見えるだろう。足で訪れるには少々骨が折れる距離ではあるが。
「それだけで貴様はこんなことをしでかしたのか」
「反省してる。僕はこのところどうかしていたんだ。……疲れていたのかもしれない。よく見て確かめないといけないと思った」
「…………」
沖野の行動はまるでよく分からない。しかし水に浸かって頭が冷えたのか、比治山がこのところ感じていた距離感というものは霧散したようにも思えた。身体が密着していることで生じた勘違いでないことを祈りたい。なにせ沖野は足が付くようになっても比治山の肩に腕を預けたまま大人しくしている。寒そうに縮こまっているが洋服越しに接している身体はきちんと温かい。しっかりと生きていて、生きる気のある人間の温度だ。
ふいに沖野が足を止めた。視線の先には波に揺れる比治山の上着があった。
「君が大事にしてたラブレター、駄目にしてしまったね」
「なっ、貴様、何故それを」
常に持ち歩いているなどと言った覚えはない。
視界の妨げになっていた髪を沖野の手がかき分けた。
「また書いてあげるよ」
「いらん。あれは回収する」
こんな距離で桐子の姿で微笑まないでほしい。
陸に上がるまで沖野は大人しく黙っていた。
そして陸に上がってからの沖野は比治山のよく知る沖野だった。スカートをこれ見よがしに巻き上げて絞り、上着を脱いで絞りたいと言い出して比治山を困らせた。脱げば男だから問題ないと言われても衆目がある。海辺に掘っ立て小屋があったのは幸いだった。生憎と水気を拭うものはボロ布ひとつなかったので二人して凍えながらタオルと着替えを買い、銭湯に飛び込むことにした。
「待ってくれ、セーラー服で男湯には行けない」
「アホか貴様、先にどこぞで着替えてこい」
2023.02.19