不確かなもの 僕たちはきっと不確かなものに触れる。
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沖野司はセクター1で育った人間だ。最も早く怪獣によって破壊された故郷を逃れて、40年前、2064年のセクター2の世界に触れ、事故により1944年のセクター5に隠れ潜み、その崩壊と共にセクター4へ移った。つまり、新天地に降り立った十五人の中では最先端の未来人でありつつも多様な過去の時代で暮らす経験をしたと言える。
セクター2では40年分の技術ギャップこそあったが、そこで暮らす人々や社会というものはそう変わらないように思えた。これは沖野が敷島の仕事にかかりきりで、ろくに敷地の外に出ずに秘密を共有するプロジェクトメンバーとだけ関わっていたからそのように感じたのかもしれない。
だがセクター5ともなれば160年前、電子式コンピュータすらまだ発明されておらず、情報の精度や科学的な知見について、沖野の「現代」と大きく乖離しているはずだった。
例えば衛生状態。そこが1944年、太平洋戦争下の日本である以上、飲料水の水質や食材の状態について、沖野は相応に心構えをした。セクター1で土の付いた野菜など日常生活で見ることはなく、食卓に出回るのは全て品質検査をパスした安全なものだ。しかし時代が時代、状況が状況、歴史教科書の記述では人々は限られた配給品をやりくりし、庭の片隅を転用した畑で作物を育て、時に食用に向かないものすら時間をかけた調理をしてどうにか食い繋ぐ様相だったとある。
軍関係者である堂路博士の縁をもってしても量はともかく質の方はセクター1と比較になるはずもない。沖野は元々あまり食に興味のなかった方だ。食事など身体が動くだけの何かがあれば十分で、最悪、身体に合わないようなら食わずを通して他のセクターから備蓄を拝借してくればいい。
しかし実際は問題なく許容範囲だった。
次に訪れたセクター4でもそうだ。
データ上、1980年代は成人男性の殆どが喫煙者で、記録映像に示されるように街の至る所で有害な副流煙が漂っていておかしくないはずだった。その通り、煙草自体は存在した。目立った法規制もされておらず、空間的に隔離されていない喫煙所や歩きたばこをする路上喫煙者も多数目に付く。だが想定していたような不快感は無い。気になって成分を確認するとセクター1でも販売されている健康に無害な煙草類嗜好品と同等であって、ニコチンやタールを含有する当時の煙草そのものではない。
そういえばこの頃に取り沙汰されていたはずの公害問題も、遠方のニュースとして聞く程度だ。敷島という重工業と密接に関わるこの街で一切の問題が起きていなかったとは到底思えない。
「それらは重要ではない事柄だった。そもそも僕から見れば1.5世紀ほど昔のことだからね。文化史に関心のある方ではなかったし、こちらの勘違いということもある。だが、時間旅行ではないと気が付くヒントになった」
とどのつまり各セクターでは人々の生活習慣や習俗こそ異なれど、子供を成育する仮想世界として極めて安全に「現代的」な基準で設計されていた。
揺籃のポッドの中へ詰められたのは未来へ遺したい文化だけに漂白されたノスタルジーだ。
インナーロシターにより極限まで現実として感じられる仮想空間に理想だけを落とし込み、偽りの世界で心を育てようとした。沖野に当時の人類の選択の是非を判じることは出来ないし、そのつもりもない。ただ、随分なセンチメンタリズムと愛情を込めたものだ。
ならば幻想であっても、現実の願いであるのだろう。
そうして描かれた世界は多分、尊いものに違いない。
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防衛戦を生き延びて現実世界で目を覚ました沖野がまず初めに行ったのはポッドの確認だった。単純な興味本位である。それは機兵やダイモスと同じく、質実剛健な鋼鉄の保育器は沖野の知る人工子宮とは随分趣の違うものだ。形状の大枠はコクピットと類似しているが、他に生命維持装置と思われるコネクタが多数ある。
室内と思われる暗がりの中ではこの程度が限界だ。周囲を見回せば想定通り十五機が並ぶ。そのうち一つは沖野が出たポッドと同様に上部を覆う蓋が跳ね上がっていて無人だった。つまり先に目覚めた者がいるのだろう。各機体には個人名が刻まれている部分があった。つまり、待ち人の特定は容易だ。
沖野はそのポッドに背中を預け、無骨な配管の走る壁をぼんやりと眺めた。機兵の設計に長く親しんできただけあって、このような場所を「落ち着く」と形容できてしまう。
深く呼吸をすると地下室や寝室のように正常ではあるがどこか停滞した空気が肺を出入りする。理屈で行けばこれらの目に映るものや、背中に感じる金属の冷たさ、それどころか息をすることさえインナーロシターを介さずに初めて感じる本物の感覚ということになる。
その違いを探そうとしたが、沖野には全く分からなかった。五感に及ぶ機微を感じるのは生憎と不得意な部類だ。
しばらく待って何人かを気配だけで見送り、おそらく機兵搭乗負荷の低い者から目覚めているのだろうと推測する。となれば彼は最後の方か。自分の性分なら光を頼りに部屋を出て、この世界の様子を調べに行くところだが約束がある。
例え世界が消えても――。
それはこういう事ではないのだろうが、必要な演出だ。永遠にも思える戦いの中で沖野は比治山と共に十二番機にあった。自己都合とはいえ、比治山だけが沖野の存在を認識していて、彼に全てを預けた。その前にも彼には心配をかけたから、今度は自分が待っていよう。でないとどんな顔をするか分からない。
更に何人かを見送り、関ケ原、東雲、和泉……と銘のある鞍部十郎のものを残して、背後のポッドが反応を示した。
「比治山くん?」
舌がもつれるような感覚に初めてその名前を口にしたような気がした。確かに現実の身体では初めてだった。
ゆっくりと開くポッドの中を注視する。プライバシーなどという考えは浮かばなかった。うつ伏せで格納されている肉体が露わになる。沖野と同じならばもう目を覚ましているはずだ。そこに明らかに生きている人間の温度がある。感情が感覚を左右するから、間違いなくそれはインナーロシターによって作り出されたものと別の質感を帯びていた。
沖野は自分がここで待っていた理由をようやく正しく弾き出した。
彼に会いたかった。
「……ここ、は」
ポッドの生命維持装置から解放された比治山が頭を上げる。インプリンティングを狙うがごとく、沖野はその瞳が自分の姿を捉えるのを待って言った。
「おはよう、比治山くん」
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第二の地球となったRSアルファ13惑星は現実だ。
沖野はそれを時折「怖い」と思う。現実には安全装置は無く、テラフォーミングから約4800年が経過している。この地に足を下ろして数年のうちに、自然界の水は検査の結果、飲用に利用しても問題ないことが分かった。周辺の土壌、植物、鉱物に関しても同様に安全が確認された。ただし、あくまで地球の基準において、だ。
「つまり、この惑星にある未知の物質や細菌、微生物が人体に害を与えていることに気づかないまま暮らして、数十年後に取り返しのつかない事態になる可能性は否定できない」
仮に漂着時に完全なる地球化が行われていたとしても、4800年もあれば環境は変化する。そして2188年の科学技術は沖野の知るセクター1のものよりも更に進んでいたが、決して万物を解き明かしていたわけではない。
この惑星で人類が生きてきた積み重ねがない以上、科学的に安全を証明する努力は必要だ。未知に心を躍らせた結果、原始的な開拓史、あるいは科学史において危険を見落として致命的な事象に至った事例は数限りなくある。「近付いた者の命を奪う岩」の伝承は有毒ガスの噴出地に対する警句だったではないか。ここにそんな伝承は無い。実際に誰かに危険が迫って初めて気がつく羽目になる。
だから十五人はここを人類の生きる場所であると断言するために調査をすることにした。物質や環境の分析そのものは沖野の担当ではないが、それらに使われる機器やシステムは彼が受け持っている。
「僕の作ったものは本当に正しいのか。何かを見落としていないか。本当は不安だ。だが2188年の設計はもはや一人の人間が全てを理解できるようになっていない」
それが沖野に強い懸念を抱かせる。
既存のモジュールを組み合わせ、設計通りの分析が出来ることを確認して良しとする。その良しはあくまで地球文明の基準。当時の人類が出来る限りを残そうとしたとて、深宇宙の未到達惑星のリスク予測を正確に行えたとは思えない。かといって、本番の調査結果を見たところで専門外の沖野が違和感を持つのは難しい。未知の技術だろうが実際に乗ってみて安全を実証すれば良しと出来た機兵の設計とは違う。
そもそもこの惑星自体、探査船が選んだものだ。テラフォーミングの結果か、大気組成などは少なくとも地球と近しい状態だった。しかし地球で築かれた科学は全てそこが「地球である」か、「人類が探索した範囲である」が前提だ。地球上でアウストラロピテクスから進化したヒトが長い年月をかけて経験と誤りで築いた確からしさは今、水の上の浮き具程度に過ぎない。
研究班の他の仲間も同様の懸念は持ち合わせつつ、沖野ほど深刻に考えないのは彼の用意した機材を信頼しているからだろう。それがこの惑星でも真に確かであると言い切るには情報が不足しているというのに。
「……貴様は頭が良すぎる」
沖野の向かいに座った比治山は短く息を吐いた。呆れていたとも言える。
セクター4の復旧も終わったばかりにもかかわらず、このところ彼が以前にも増して根を詰めて仕事をしているから何かと思って作業場に乗り込んでみるとこれだ。
比治山と沖野はついこの間、恋仲になったばかりである。今のところはこのように「友人」であった頃と変わりない距離感であるが、言葉の方は好意や心配を別のもので装う必要がなくなった分、互いに少し以上素直になっていた。例えば比治山は気兼ねなく沖野に会いに行くし、沖野はこうして答えの出ないことを内に抱えずに吐露する。これまでの不器用な五年間の反省でもあった。
独断専行、疑問があればひとりで解に辿り着こうとしてしまう、言い換えれば一人で背負ってしまうのは沖野の悪い癖だ。人間の癖などなかなか直るものではないが、彼は比治山と居るというのだから勝手に行ってもらっては困る。比治山はもう沖野を離すつもりはない。
「皆で何か悪いものを食っているというならそれでいいではないか。俺もガキのころ、慶太朗と生煮えの芋をつまみ食いをして腹を下した」
「君のそれとは話が」
「同じ釜の飯を食って共に暮らしている以上、その時は皆一緒だ。貴様だけが責を負う必要はない」
「…………」
比治山の暮らしていたセクター5は沖野の検証によると「設定」こそ安全だった。しかし比治山に言わせれば他の時代よりも伝染病や食あたりはずっと多く、それで命を失う話もしばしば聞いた。戦争が無くとも科学の限界故に人が死ぬ。そのような時代が再現されていた。だから比治山は知らないことを恐れない。
沖野は逆だ。仲間の誰よりも最先端の世界を知っている。知らないことに気付いてしまえば疑わずにはいられない。
「地球の人類がナノマシンで皆一緒に滅んだのは君も知っているだろ。僕たちはそんな事態を回避しなければならない」
「傲慢だ。その時の人類だって十分に検討し、問題ないと考えたからそうしたのだろう。俺たちは同じ過ちを繰り返さなければいい。未知のものまで心配するのは神様のやることだ」
「神……か」
沖野は別段、比治山の意見を求めているわけではなかった。むしろこの通り、この手の話題は必ず意見が割れる。ただ気掛かりであるというだけのことを沖野はこのようにしか説明できないのだ。
しかし比治山の視点はしばしば彼に新しい思い付きを与える。意見が違うからこそ上手くいく好例で、神という哲学的な概念が出てきたことで思うところがあった。
沖野は机に両手を付いて比治山の方へ身を乗り出した。
「比治山くん。2188年時点での平均寿命は100歳を超えている。君の時代は……せいぜい50歳程度。戦時下の情勢や栄養状態を考慮して1980年代を参照しても75歳。これは男性の統計値だ。この後、時代を追うごとに緩やかに伸びていく。科学の進歩や有害物質の規制、最後にナノマシン医療が実用化されて人類はついに100年の人生を手に入れた」
「何が言いたい」
「僕には長生きしたい理由がある。少なくとも当時の平均寿命程度は全うしたい。全員で、だ」
もし比治山と恋愛関係になっていなければここまで気になる事もなかっただろう。辿り着いた環境に見合った自分の生を真っ当出来ていれば十分だ。比治山が言うように他の皆もそうであろうことは分かる。地球と極端に異なる要素は今のところ見つかっていない。
沖野の欲だ。せっかく成就したのだから比治山と行けるところまで行ってみたくなった。自分達のために出来る事を出来るだけ。少しも見落とすことのないように。ここへ辿り着いたのだってその結果のひとつだ。
譲る気のない眼差しを正面から受け止めて、比治山は腹の底から息を吐いた。こいつは何も分かっていない。
「ならば食え。寝ろ。せめて休め。俺の時代ですら平時にはそうせねば体に毒だと言っていたぞ」
唐突に沖野の腕を引き、無理矢理に立たせる。
「比治山くん!?」
有無を言う間も無く半ば連行の様相で作業場から連れ出されてしまう。歩幅が間に合わずに足をもつれさせると少し歩みが遅くなり、横へ並んだ。
「……まいったよ。君の発言が正しい」
インナーロシターで多少の無理が通るとしても、それらは人体の摂理だ。比治山が作業場へ顔を出したのも沖野の過労を咎めるためで、環境を問う前にやるべきことがあった。
掴まれたままの腕を解いて、手に手を絡ませる。
「…………」
「…………」
二人分の沈黙が流れた。まだ手を繋ぐことにも慣れていないので、こんな時にどんな会話をしていいか分からないで互いの温度を持て余す。
こうして二人で生きていく。それはあまりにも不確かで、確かだった。
2023.03.19