あれから五年が経った。
「もうそんなになるのか」
「あっという間だったね」
あれ、というのは「適合者」だった僕たち十五人にとって記念すべきセクター4の復旧のことだ。
「そろそろ俺たちもここを出るか」
「そうだね。どこがいい?」
「第二拠点のあたりはどうだ。データセンタとやらを作るんだろう」
「悪くない。地盤も安定してるし自然災害の形跡もほとんどない……って君が調べてくれたんだから言うまでもなかったね」
そして家を建てて更に五年が経った。
「おい、沖野。いい加減に起きろ」
「……まだ昼だろ、寝かせててくれ……」
「もう昼だ。貴様の寝具が洗濯出来んだろ」
「自分でやるって……」
比治山くんがカーテンを開けたせいで容赦なく差し込む日差しに目を眇めながら身体を起こす。
まだ十分に働かない頭で今日は彼が休暇だから僕も休暇にしていたはずだとだけ思い出して、呆れた顔を見上げる。これでもう一度眠るのは、無いな。
「……おはよ」
「おはよう。起きろよ」
比治山くんは僕が二度寝に落ちる心配のないことを確認するとリビングへ戻っていった。
顔を洗って、朝食を食べて、シーツを引きはがして洗濯機へ放り込む。やるべきことを組み立てるとようやく頭も冴え始める。シーツは顔を洗う時に一緒に持っていった方が効率的に違いないが、まだそこまで動く気になれない。
僕はこのあいだ三十一歳になった。
仮想世界を出たのが十六の頃だから、あと一年でこの「現実世界」で生きた年数の方が長くなるわけだ。
比治山くんとも出会って十五年。進展は――無い。
訂正しよう。無いわけではない。
セクター4への里帰りの時に僕と彼にはちょっとした出来事があって、関係には少し変化があったと言ってよかった。比治山くんは僕に優しくなったし、僕も無遠慮に彼を揶揄うのをやめた。
それから仕事の役割は違っても何かにつけて僕たちはペアだった。最も親しい相手、最も優先する相手。親友や伴侶とも呼べるその対象の両方がお互いであることは仲間内の誰から見ても明確で、僕たち当人もそれを認めていた。
なのに僕たちは今に至るまで交際していない。
他の皆が結婚したり転居したりするうちに、比治山くんと僕とは自然と生活を共にするようになった。利用者の減ったがらんどうな共用施設を各々使うよりも二人で時間を合わせて利用する方が都合がよかったし、多分、寂しくなかった。それは玉緒さんが彼女の希望で菜園の近くに居を構えた頃から顕著になった。
その内に広すぎる共用部と手狭な自室に不便を感じて拠点を出る話になって、だけど一人で暮らすには僕たちは――比治山くんは留守がちになるから家の番をする人が欲しいし、僕はあまり生活に頓着しないし、今更別々に暮らす理由もないから――同居することにした。
同棲でも結婚でもない、ただの同居。
これが僕と比治山くんの進展の全てだ。
「……なんだろう、これ」
洗濯機の中で水浸しになって回転を始めたシーツをぼんやりと眺めて呟いた。
今朝はコーヒーを飲み忘れたからまだ十分に目が覚めていない。そんな日は自然と取り留めのない所へ思考が流れていく。
僕はこれが比治山くんの好意の最善というのならそれで構わない。いや、十分以上だ。同性という理由で僕に応えられないなりの最上を選んだということだから報われているにも程がある。
でも、比治山くんは確かに僕が好きだった。堂路桐子ではなく男の僕に好意を持っているということまでは確かめられた。だからこれからも隣に居て良いと確認した。互いを繋ぎ止められるか失うかという極めて感情的な心配はセクター4を訪れたあの日を境に無くなった。
甘く遠い青春の出来事だ。
そこで立ち止まったまま月日は流れ、僕は現状を問い質す時期をすっかり見失っていた。
だって今からこの関係が壊れてみろ、僕は今更、一人で暮らせるのか。彼だって。……そんなことは口に出さないけど、いい大人なんだから寂しいことだってあるだろ。
人類だとか社会を欠いた未開の惑星の夜は心許ない。気心の知れた他人の気配に救われることを知ってしまった。
比治山くんがもう僕を恋の対象として好きでなかったとしても、こうして一緒に生活するだけの相方としては十分に好まれているはずだ。そうでなければわざわざ起こしに来て他人の寝具の洗濯の心配なんかしない。
結局、僕は好きな男が気安く傍に居てくれる幸福を手放すかもしれない博打をする勇気なんか無いんだ。
二回も振られておいて三回目はさすがに無い。比治山くんにその気があるならとうに彼は行動しているだろうし――。不毛だ。
いつまでも見ている必要のない洗濯機を後にしてリビングへ戻る。コーヒーを淹れようと考えていたら、ちょうど比治山くんがお湯を用意していた。
「僕の分あるかい」
「あるも何も、貴様の分だ」
「え?」
「まだ寝ぼけてるようだな」
比治山くんは丁寧にも僕が毎日朝食の後にコーヒーを飲むことと、そのマグカップがまだ使われていなかったことを教えてくれた。
「朝食と言ったが、もう昼過ぎだからな」
「……よく、見てるんだな」
そういえばコーヒーマシンなんか置いたら僕がカフェインの量を気にせずずっと飲んでいるだろうから面倒でも毎回手で淹れろと言ってきたのも比治山くんだった。
もうすぐだからとケトルにすら触らせてもらえず座っているように促される。
「比治山くん」
「なんだ?」
やっぱり君、僕のこと好きだろ。
今更そんなことを問われるなんて露ほども考えていない穏やかな顔が僕を見下ろしていて、喉まで出かかった言葉を飲み込む。
「ありがとう」
「これくらい礼などいらん。それよりまだ寝ぼけているようだな」
「……本心なんだけどなぁ」
比治山くんにはどうにも伝わらない。コーヒーを淹れてくれる背中をじっと見る。
君は十五年前、仮想世界で僕に言った言葉を覚えているはずだ。僕も君に何を言ったかを覚えていて、今も気持ちは変わっていない。それどころか確かに果たされている。
後は恋人らしい関係を望むかどうかだけの話で――、そういうことがしたくて好意を抱いたのならきっと、もっとずっと前に別の相手を選んでいる。こんな風に一緒に暮らしはしない。
「比治山くん」
マグカップをテーブルに置いた手が遠くに行く前に両手で捕まえた。
「なっ、沖野」
こんなことをしたのは本当に久しぶりだ。僕の内心なんて知ったことではない比治山くんがいつかのように目を白黒させる。
「あれから十五年。もしくは十年。あるいは五年」
見詰めた鳶色の目の周りには日頃の表情を形作る窪みや皺なんかの癖が出ていて、もう決して少年のようだとか若々しいだとか言えなくなったし、僕だって同じだ。
お互いに隣で培っただけの時間が流れた。
「このまま君の人生を、僕がもらっていいのかな」
ただ驚いていた顔が、家にいる時はあまり見せない、肌に刻まれた精悍なものへと変わる。
「今更それを気にする奴があるか。……生半可な気持ちで一緒になったわけではない」
「――――」
思わず跳ねた指が震える前に比治山くんの手が重なって内と外から握り包まれた。
すっかり大人になったはずの僕は彼の手を大きいと感じ、自分の手も小さくはないと思った。女性や子供とは違う、大の男の手だ。
「……驚いたな。そうか、君の中ではそうだったんだ」
マグカップから湯気が立ち昇る。それが室温に溶けるのと同じようにじわりじわりとこれまで重ねた歳月が心の内に染み込んでいく。
そんなことならもっとはっきり言ってくれていればいいのに。思えば最初からそうだったし、僕だっていつまでも求めるようなことは言わなかったのか。
馬鹿だな。不毛じゃなく馬鹿をやっていた。
ありったけの力を込めて比治山くんの手を握る。噛み合った関節が骨の輪郭を掴んで軋む。
「っ、沖野!」
「痛いかい? 僕もだ」
多分きっと、僕は泣きそうになったまま笑っていた。
2023.07.17