スパイシースイートチョコレート【王子誕2023】「寒いだろう、ちょっと待ってて」
家主が白い息を吐く。1ⅬDKの三和土に控え目な灯りが落とされる。
ひとつ頷いて、お邪魔します、と告げてからトープ色の革靴を脱ぐ。
「お構いなく」
頷き返した王子がすぐにLDKのエアコンを強にセットした。外よりも寒風吹き荒ぶ部屋の壁際に、蔵内は自分のキャメルカラーのトレンチコートを掛ける。
洗面所を借りて手を洗っていると、同じくロイヤルブルーのピーコートと濃紺のスヌードを外した王子がやって来た。ほろ苦い粒子が鼻腔を掠める。
「今日は楽しかったね」
「そうだな」
洗面所の鏡を介して繋がった、視線が綻ぶ。
今日は王子の二十回目の誕生日である。
同学年男子として一番最後に二十歳になった王子は、漸く酒と煙草が解禁となった。本日の夕食は十ケ月前から「かげうらでの食事会」と決まっていた。
男子の中で一番最初に二十歳になった北添の誕生日を機に、飲み会を開こうとボーダーのラウンジにて立案したのは犬飼だった。
「でもゾエさんだけ飲めても楽しくないなぁ…」
柔和な笑顔で辞退しようとする北添の肩に手をかけて影浦がニヤリと笑う。
「なら、再来月の俺の誕生日ならいいのか?」
「それならセーフだな、オレと鋼は」
北添を挟んだ反対側から穂刈がソフトモヒカンを覗かせる。視線で同意を求められた村上は眉尻を少し下げた。
「オレはやっぱり荒船達も一緒がいいな…」
村上の頭をぽんぽんと撫でてから、帽子の奥の双眸を輝かせた荒船がその場にいた九対の瞳に提案した。
「いっそ王子の誕生日に全員集合すればいいだろ。勿論、解禁された奴は個別に飲むのは問題ない。国近の誕生日が過ぎたら女子も呼ぼうぜ。どうだ?」
満場一致で可決される。荒船主動となった時点で、会場は「かげうら」であることは確定となった。
そして入念なシフト調整も済ませた本日「お好み焼きにはビールでしょ!」と断言した犬飼の言により、黄金色のジョッキが豪快な音を立てた。
王子はビールとレモン酎ハイを一杯ずつ飲んだ。お誕生日様ということで、スペシャルメガミックス焼きを影浦と水上が焼いてくれたのも気分が良かった。普段態度が軟化することが殆どない二人がそれぞれの出来映えで勝負して、僅差で影浦が勝利した。鋭利な歯列を全開にして高笑いする影浦を睨め付けて「たこ焼きやったら負けへんのに…」と大仰に豆絞り柄のハンカチを噛みしめる。蔵内が水上の背を二度、軽く叩いた。一部眠たげな者もいたが皆が頬を上気させ、絶えず笑いに満ちていた。
洗面所から出た蔵内は、直接ダイニングに戻らず上がり框の傍に置いておいた保冷バッグを手に取った。影浦に頼んで、店の冷蔵庫に保管しておいてもらったものだ。
先に戻っていた王子が皿とフォークとグラスを用意して待っている。部屋は適温となりエアコンの音も気にならなくなっていた。
「改めて、誕生日おめでとう」
微笑を湛えて蔵内が保冷バッグを差し出すと、王子は蕾が綻ぶように笑った。
「ありがとう。早速食べようか」
「ああ。でも良かったのか?これがプレゼントで…」
「勿論だよ。さて、どんな感じなのかな…?」
声を軽やかに弾ませて、バッグの中身を確認する。
王子と蔵内が互いの関係に新しい名前を持つようになったのは、大学に入学してからだった。
高校卒業後に開催された閉鎖環境試験から遠征や大規模侵攻やらで紆余曲折があり、より相手を求めて緩やかに溺れるようになった。個人差はあれど、そうせざるを得ない経験をしたのだから仕方がない。誰に言う訳でもないが、そっと嘯く。
ただ、今日くらいは忘れていたっていいだろう…?
軽く首を振って、ワインボトルとダークブラウンの直方体を取り出した。
すっきりとした鼻梁を寄せると甘やかな香りが微かに溢れる。
「チョコレートケーキ?」
「ああ、オペラやザッハトルテとも迷ったんだけど、ガトーショコラにしたんだ。中にブルーチーズが入ってる。すまないが、ナイフを借りてもいいか?」
キッチンの抽斗から取り出したナイフを渡すと、蔵内は2センチ厚に切り分けてそれぞれの皿に載せた。
王子が蔵内にリクエストしたのは「二次会用のお酒とデザート」であった。
王子には物欲があまりない。あっても手ずから得ることに意義を感じている。寧ろ、恋人がどのように自分を想っているのかを知ることの方が遥かに重要であった。
だから「きみが先に解禁されたのだから、お勧めのお酒で乾杯したい」とねだった。流石に酒の種類までは分からなかったので、シンプルなタンブラーグラスに赤ワインが注がれる。とくとくとく、と優しい響きが部屋を満たした。
「乾杯」
「乾杯」
そっとグラスを合わせると、硬質な音が小さく鳴った。
ケーキと共に保冷バッグに入っていた為か、ややひんやりしている。グラスを傾けつつ深緑のボトルを見やると黒地に金色のロゴが光るラベルが印象的だった。
「美味しいね、これ。ポートワイン?」
果実やコーヒーの複雑な香りがマーブル模様を描いて鼻腔を抜ける。味蕾の上をまろやかに滑る甘さもくどくなくて酸味とのバランスが良く、好ましかった。
「ああ、年末実家で出てきてな。食前酒として供されたのだけど、食後酒にもいいと母さんが勧めてくれたんだ」
「このケーキも?」
「いや、こっちは俺がネットで探した。実家ではチーズとチョコが別々だったが、偶々この店を知って取り寄せたんだ。王子にもこの組み合わせを試してほしくてな」
「そうなんだ、ありがと」
フォークを入れるとしっかりとした抵抗がある。中心部のチーズ部分を含むように切り取りゆっくりと口に運んだ。
ぴりっ。
舌先を刺すようなピカンテの感覚。濃厚な塩味と絡みつくようなチーズの圧を感じる。咀嚼を続けるとカカオのほろ苦さと程よい甘さが追いかけてきた。ガトーショコラというよりテリーヌに近い生食感がある。味蕾を塗りつぶすような存在感を放ちつつも口どけは軽やかだった。瞳を細めて、口角を上げる。
「うん、こっちも美味しい」
静かに見守っていた蔵内が、小さく息を吐いた。頬を緩ませる。
「良かった。意外にもチーズとチョコって合うんだな」
「そうだね」
そうか、クラウチにはぼくはこんな印象なんだ。
ワインもデザートも一筋縄ではいかないが、甘くて濃厚でキレがある。
知らず瞼を落として笑みが溢れる。
相手のために選んだ物は、意識下に感情が投影されるというのが王子の持論である。十二分に満足した。
実は王子側も選んでいる物があるのだが、そろそろ気づいてくれるのだろうか。
土耳古石にも似た双眸を甘く溶かして、目の前の柘榴石の輝きに見とれていた。
やがてボトルも空になり、ケーキも八割食べ終わった。
「残りは明日にしようか。ご馳走様。とても美味しかったよ、ありがとう」
「ご馳走様。片付け手伝うよ」
キッチンに並び立ち、少ない食器を洗う。ふと、ケーキにラップをかけるため隣に立つ王子から何かを感じる。すん、と鼻を鳴らした。
「ん…?王子…何かつけてるのか…?」
王子が両目を瞬かせ、チェシャ猫の如く微笑んだ。
「そう。先月購入して、手洗い後に付けたばかりだよ。人生初の香水のお披露目さ。どう?」
すっと差し出された左手首の内側を、再度吸い込んでみる。
「…なんだか不思議な感じがする。柔らかいけど甘くないような…?すっとするし、ほっとする…」
眦をほんのり下げて、王子の瞳を捉えて続ける。
「王子らしい、合っている」
僅かに息をのんだ王子が、艶やかに唇を緩ませて小首を傾げた。さらり、とミルクティー色の前髪が揺れる。
「?」
頭上に疑問符を浮かべる蔵内の呆けた顔に、出逢った頃の面影を見出す。
「ふふっ、リボンの代わりだよ」
「代わり?」
まだ正解に辿り着かない恋人に、最後のヒントを告げる。
「ワインとケーキのお礼。美味しいうちに召し上がれ」
白皙の肌をほんのり珊瑚色に染め、うっとりと視線を上げる。今度は蔵内が息をのんだ。
「…それはそれは。ありがたくいただくよ」
頸動脈の上にある、不可視のリボンを解くべく蔵内は唇を寄せた。
互いの身体を存分に味わったあとの王子曰く「きみはそのままが一番美味しい」。
……敵わないなぁ…
世界で一番美味しい恋人をそっと腕に抱きよせた。