ペットと蔵王 「Jealousy Jellyfish」「ペットを飼い始めたんだけど、見に来るかい?」
聞き慣れたトーンにも関わらず、蔵内は二度、瞬いた。
二人、作戦室で過去ログを見ていた時のことである。王子隊がB級中位から上位へと、どうにか挑めるようになったばかりの四月の穏やかな日の午後だった。
「……突然だな」
常より更に固まった表情を、チェシャ猫の如く笑んで見返す王子が声音を弾ませる。
「ぼくが突発的に言い出すことなんて、今に始まったことじゃないだろう?」
その最たるものは、弓場隊を抜けて自隊を立ち上げる宣言をした時だ。あの時も「明日の天気は晴れだね」くらいの気軽さで爆弾宣言をした王子である。ほろ苦くも愛おしい当時を思い出し、蔵内の厚めの唇が綻んだ。
「それもそうだな。で、何を飼い始めたんだ?」
「ふふっ、それは見てのお楽しみ、だよ」
「了解だ。そうだな……今度の土曜日なら行けそうだ」
スクールバッグから取り出した手帳を捲り、予定を確認する。高校の入学祝に両親から贈られた手帳カバーは三年目ともなるとすっかり馴染んで柔らかくなり、飴色へと変化し蔵内のお気に入りだった。
王子もスマートフォンのスケジュールを確認する。
「うん、ぼくも大丈夫だよ」
「なら、何時にするか?」
「そうだね……。週末は天気が良さそうだから、外で待ち合わせてランチにしよう。十時半に三門駅の南口でどうだい?」
「蔵内了解」
「それじゃあ、再開しようか。今期の最終戦、勝って終わろう」
蔵内が首肯する。
二人は王子の手元のタブレットを覗き込んだ。
「流石、次期生徒会長さん。十分前行動が身に付いてるね」
「はは、お前に言われると更に違和感が増すな」
待ち合わせの八分前。王子が称賛とも揶揄ともとれる声と共に現着した。
一年後期の生徒会の末席に名を連ねた蔵内が、二年前期の生徒会選挙で副会長に、そして先日の三年前期選挙では生徒会長に推挙されたばかりだと王子は犬飼から聞いている。六頴館高校において、この流れは生徒会長を確約されたということであった。
蔵内は鉄紺の麻混ジャケットとセンタープレスされたセットアップパンツに墨色の外羽根プレーントゥ。インナーは象牙色の浅めのVネックを合わせてある。
一方の王子はビッグシルエットの乳白色のTシャツと鈍色のストレートジーンズに身を包み、唐茶色の内羽根プレーントゥを履いていた。
四月も下旬となると、汗ばむ陽気が多くなる。制服の衣替えはまだだったが、今日の二人は外気に合わせて初夏仕様となっていた。
駅から徒歩圏内にある昔ながらの商店街は、シャッターが下りている店舗もちらほらとあった。それでも地域の人々の生活に根付いていることが肌で分かる。衣服店、総菜屋、パチンコ店、カフェ。クリーニング店に甘味処。蔵内はこの辺りには滅多に来なかったが、王子は馴染み深い様子で足取りに迷いがない。
その王子が推奨する、老舗の洋食屋に赴く。からん、と柔らかいドアベルの音が鼓膜を擽った。
「早めに来て正解だったね。十一時過ぎると並ぶことが多いんだ」
薬局の隣にある洋食屋の二階は、商店街側と反対側の両方に大きな窓があり、王子は慣れた態で後者側の席に腰かける。メニューを蔵内に手渡した。軽く頷き視線を落とす。
「ここはいつもこうなのか?」
「うん。昔からそうだから、待ち合わせも早めにしたんだ。あと、ここからの景色が良いからクラウチにも見てもらいたくて」
「へぇ、そうなのか。ここは撮影は大丈夫なのか?」
「うーん、どうだろう」
注文を取りに来た店員に尋ねると「他のお客様が映らないなら大丈夫です」と返される。蔵内がバッグからニコンD7500を取り出した。レトロとモダンを程良く内包した店内から快晴の屋外を眺める。そこには商店街側の雑多で活気ある雰囲気とは真逆の、安寧とした世界が広がっていた。
すぐ近くの寺院の駐車場の白い玉砂利。境内に植えられた藤棚の零れ落ちるような練色と藤紫の対比。日に焼けてやや白んで山鳩色となった瓦屋根。奥に見える用水路沿いの桜の若葉。他の客が近くにいないうちに、数回シャッターを切った。席を立ち、数歩下がる。こちらに一瞥もくれず外を眺める王子も含めてフレームに収めた。ラフなスタイルとレトロモダンな店内、瑞々しい自然の欠片がモザイク画よろしくぴたりと嵌り、蔵内は充足してひとつ息を吐いた。
王子はオムレツとカツサンド、アイスティーとプリンを注文した。蔵内も薦められたオムレツとミックスサンドにアイスコーヒーとバニラアイスを頼む。それぞれにミニサラダがついていた。
十年前より倍の品数にも関わらず、王子はぺろりと平らげた。固めのオムレツは濃厚な卵を豊潤な旨味を含むトマトソースが包み込み、味蕾を楽しませる。蔵内がほぼ無言で食べ終わるのを王子は満足気に見やった。
「ぼく、この苦めのカラメルが好きなんだよね」
アイスティーを一口飲んでヌワラエリアの粒子を鼻腔に満たした後、柔らかく微笑んだ王子が手応え充分なプリンにスプーンを入れる。
蒸しプリンは鬆が立つこともなく、凛と聳えていた。控え目なホイップとチェリーとミントが、出合ったこともない懐かしさを抱かせる。蔵内は愛用の一眼レフを再度構えた。プリンを頬張る王子の一瞬が切り取られた。
ついでに小さな氷片がきらきらと輝くバニラアイスにもレンズを向ける。こちらにもホイップとチェリー、それからウェハースが添えられている。
一匙掬った後、窓の外に視線を投げる。和やかなひと時であった。
各自で精算を済ませ、王子宅へと向かう。暫くバスに揺られ、下車した後に更に五分ほど歩いた先に目的地はあった。
共に隊を結成してから何度か訪れたこともある。初回以降の手土産は辞されているので、誰もいない家屋には蔵内の挨拶する言葉だけが響いた。
道中で購入したペットボトルを手に、階段を上がり右手に曲がる。自室に入ると、王子はエアコンのリモコンを操作し風量を調節する。入り口付近にカメラの入ったバッグを置いた蔵内は、ある一点に視線を捕らわれた。
「……っ、これ……」
「ふふっ、可愛いだろう?」
本棚の横にあるテーブルの上、直径約四十センチの円形水槽。黒色の淵で囲まれている。中には一匹の海月が漂っていた。
「カラージェリーフィッシュか……」
「うん。色々な子がいたから迷ったけど、水色にしたんだ」
それは王子隊で水族館に行った時、大きな球体の水槽に展示されていたものだった。
「八センチ以下の成体なら三匹程飼えるらしいんだけど、『最初は一匹からが良いよ』って来馬さんからアドバイス貰ったから」
ぴくん。
蔵内の肩が揺れる。
「来馬……先輩?」
「クラウチ、呼び方」
「あ」
掌を口に当てる。くすり、と赦すように王子が笑みを湛えた。
「卒業したから、『先輩はナシだよ』って言われてるんでしょう?鋼くんたちはそのままみたいだけど」
「……っあぁ、そうだった……」
今・村上・別役と共に新しくできた鈴鳴支部に配属された来馬は、高校在学中はボーダー隊員ではなかった。だから、蔵内は昨年ボーダー内で再会した時に『先輩』呼びして本人からその旨を言われている。それでも、自分が一年生の時の生徒会長を『さん』呼びするのに慣れるのには多少の時間を要した。
「来馬さん、アクアリウムには詳しいだろう?だから相談したんだ」
「……お前、目上の人に容赦ないな……」
来馬が丹精込めて世話していたアクアリウムの魚を、別役が悪意なく白茹でして全滅させた『血のアクアリウム事件』は同輩の間では密かに有名な話であった。悲痛なまでに重々しい口調で語る今と「血涙を流して太一を許した先輩を、オレは一生お支えする」と静かに宣言した村上の表情は、三門第一高校の屋上で昼食を共にした全員の脳裏に鮮明に焼き付いている。後日、王子からその話を聞いた蔵内は、滂沱し自分の胸元を掴んだ。生徒会での会話で同好の士であることが判明し、敬意を増していたからである。
絶句したのち咎めるように視線を刺す。それを全く意に介さず、王子は優雅に微笑んだ。
「来馬さんは結構タフだから、大丈夫」
「それもそうだな。ただ……そんなことはしてくれるなよ」
「勿論。きみが落涙することがないよう、鋭意努力する」
「そうしてくれ」
やや疲れた眼差しを切断するように、蔵内がぎゅっと瞼を閉じた。ふ、と音もなく王子が口の端を上げる。蔵内の肩を二度軽く叩いた。
「しかし、海月の寿命は確か一年も満たない筈……」
「うん。家庭では半年くらいだって。でも、それでいいんだ」
―――看取るために。
静かに海月を見つめる土耳古石。そこには揺らぐことのない光が宿っている。
音にならずとも理解する。王子らしいな、と蔵内は胸の内が温かくなるのを感じた。
傘径が三センチ強の水色の海月が揺蕩う。微かにモーター音が聞こえていた。LEDのバックライトが変色できるとのことだったので十六色全部を一通り試したが、結局、ノーマルに戻した。この方が、海月の色が映える。成体になって日が経ってない不安定な姿を見ると、支えてやりたい衝動に駆られる。蔵内がカメラを手に取りシャッターを切った。
「もう少し飼育に慣れたら、オトモダチを迎えようと思うんだ」
「……また、来馬さんに相談するのか?」
「ん?……それはまだ、決めてないよ」
まっすぐに注がれる真摯な眼差し。王子の双眸はゆったりと受け止める。蔵内の語気が僅かに強まった。
「度々ご迷惑をかけるのもなんだろう。俺が相談に乗るよ。これでも水族館の年間パスポートを持ってるからな。多少なりとも力になれるだろう」
王子が緩く握った拳を顎に添える。暫し思考する。
「知ってる。でも……確かにきみの言うとおりだね。その時は宜しくね」
蕾が綻ぶように柔らかく笑う。水中の海月とよく似た、土耳古石の輝き。それを認識した途端、知らず蔵内の肩の力が抜けた。
「ふふっ、順調なら四匹にして、王子隊を結成しようかな」
「そんなことを、考えていたのか……」
「まずは、優秀な副官殿をお迎えしなきゃね」
「それは光栄の至り」
恭しく最敬礼する。王子が腕を組み、「うむ」と大袈裟に頷く。二人は同時に噴き出した。
再度、海月に焦点を当てる。小さなシャッター音が数回刻まれた。王子に背を向けたまま、蔵内が問いかける。
「そう言えば、この海月に名前はあるのか?」
ボーダー内で席巻する王子の渾名の数々である。幸いにも同隊の自分と樫尾は苗字のカタカナ表記で済んでいるが、他所では容赦なく展開される。それでも、年長者には控えるだけの自制心を持てるようになった。それが、弓場のお陰であることを蔵内は知っている。厳しくも情に厚く懐の深い、敬愛する元隊長だ。弓場も来馬に続いて生徒会長を務めた後に今春卒業していた。
「うん。『くらつき』と名付けたよ。海月の“くら”と漢字の“月”から取ってみたんだ」
「ははっ、お前にしては苦戦の跡が見られるな。地名や畝づくりとは関係ないんだろう?」
「まぁね。でもぱっと思いついたのがそれなんだ。当然、金沢市の鞍月や鞍築も無関係さ」
軽く肩を竦める王子。
もう、クラウチも蔵っちもいるからね。
一人の時は『くらうち』と呼んでいるよ。
……ぼくだけの、くらうち。
翌月、二人で赴いたショップで深い柘榴色の海月を入手した王子が「これは正真正銘の『クラウチ』だね」と満悦になり、『くらつき』が『ぼく』に改名されるのは、また別の話となる。