幸せ過去最高記録更新中「ごめん母ちゃん、今日は帰れなさそう」
電話越しに母親の心配する声が聞こえて、うん、うん、と相槌を打つ。
大丈夫だよ。霊幻さんと一緒だから。明日朝には帰れると思う。ひと通りのやり取りを経て電話を切って、芹沢は息を吐く。憂鬱や煩わしさというよりも、感慨深さから来るため息だった。引きこもっていたときはもちろん、爪に所属していたときですら、仕事で帰れなくなる事態なんて、想像もしなかった。
今、自分の住んでいる味玉県から数百キロ離れた土地にあるホテルで、五階の廊下からは絶え間なく降り続ける雪で烟る、知らない町並みが見えている。現実感がない風景は書き割りのようだった。
ホテルの廊下で電話を終えて部屋に戻ると、ベッドの上では風呂に入り、服を着替えた霊幻が寝そべっていた。芹沢が着ると少し窮屈そうなビジネスホテルの寝間着も、霊幻が着ると少し裾が足りないくらいのジャストサイズに見える。
二つ並べてくっつけたベッドは部屋の半分以上の面積を締めていて、窓際はひんやりとしていた。窓の向こうは分厚い遮光カーテンに遮られて見えないが、雪景色なのは想像がつくので開く気は起きなかった。
「おかえり、芹沢。電車も飛行機も高速道路も通行止めだ」
ベッドの足側に人一人分の隙間を開けて、壁に嵌め込まれたテレビにはニュースリポーターと吹雪く風景が映されている。全国各地で相次ぐ大雪による事故のニュースに眉を顰めた。
「すごいっすね」
「十年に一度レベルの寒波だからな。宿を取っておいて良かった」
隣のベッドに腰を下ろして次々と映し出される映像に呆然とする。自分達が今いる潮干潟県の映像が映し出された。
除霊を依頼された場所は山間部の廃屋で、来るときには端にうっすらと雪が残っているのどかな山道を来た。夜まで持つだろうと思われていた天気は急変し、一時は横殴りの雪で上下左右が分からない状況に陥ったのを思い出してぞっとする。生半可な超能力者や悪霊より、自然のほうがよっぽど脅威だった。
部屋に並べて吊るしたグレーとダークブルーのスーツは、来るときにはダークグレーとネイビーにまで濡れて色が沈んでいたが、暖房によってようやく本来の色を取り戻しつつあった。芹沢が持ってきたビニル傘の水滴も今は完全に乾き切っていた。
「芹沢も帰ったらクリーニングに出せよ。雪は汚いし雑菌が繁殖している可能性もある」
「はい、っていうか霊幻さん、いつ宿とったんですか」
スーツをぼんやり見ていると、心の中を読んだような言葉が飛んでくる。その少し前の聞き捨てならない内容に食いつくと、頬杖をついた霊幻がにやりと笑った。
「昼過ぎだな。リスクヘッジは社会人として当然の判断だ」
「それなら先に言っててくれたら良かったのに……」
そうすれば母親にもう少し早く連絡できた。いや、出来なかったかと思い直す。
雪が降り始めてからの山間は圏外だった。そのため帰りの車も呼べず、吹雪の中を芹沢の傘一本で切り抜けて、這々の体で山の麓に戻るまで三時間かかった。
分厚い雲で昼間から薄暗かった空は下山する頃には真っ黒く塗りつぶされ、タクシーに乗り込んだときには疲労を通り越して虚脱状態だった。
髪に雪を乗せて唇が紫色になっていた霊幻が歯の根の鳴り止まない状態で苦労しながらホテルの名前を告げ、介護を受けながらチェックインをしたのが小一時間前のことである。
当初は雪のように白かった頬も、今は血色が戻ってつややかだった。芹沢は座ったまま、手を伸ばして手の甲で触れる。暖房で少しのぼせたように少し赤みが強くて、暖かい。思わずといった風に笑みが溢れた。
「なに笑ってるんだよ」
「いや、生きて帰ってこれて良かったです」
本音に対して、霊幻が片眉を持ち上げる。触れるのを嫌がられないことに、芹沢は少し調子に乗って距離を詰めた。それも許されて、半分覆いかぶさる格好で彼を見下ろす。
「お前がいるんだから生きて帰れるに決まってるだろ」
当たり前のように言われて、芹沢は口の中を噛んだ。この人って本当にいつもこうだから困る。黙って耐えていると、不意に首の裏を引き寄せられてベッドの上に肘をついた。
「わ、霊幻さん……っ」
そのまま唇を求められて目を瞑ると、柔らかな感触と熱く湿った息が触れた。
「……準備したから」
すぐ近くで聞こえた霊幻の掠れた声で、芹沢の準備も万端になる。こんな風に帰れなくなった知らない土地で好きな人と一緒に泊まるなんてことも、数年前の自分に言ったら信じてもらえないだろう。今だって信じられないと思っている。
過去最高を更新し続ける幸せを噛み締めながら、芹沢からも霊幻に覆い被さって口付けを深めた。