蝶は目覚めている(そよいと) デスクトップPCの煌々としたブルーライトに照らされながら手元の資料と睨み合う。
誓さんのアシスタントとして請け負っている翻訳業務。今回は珍しく小説――それも、恋愛ものの内容だった。
通常は論文や学術書などの硬い内容が多く、知識もボキャブラリも不十分な箇所が散見された。全体の進捗は想定よりも遅い。ジャンルを問わず同じように仕事をしているつもりだが、ままならないものだ。
(……休憩すっか)
ある種の諦めと共に区切りをつけて、ブルーライトカットの眼鏡を外す。今時らしいデザインのラウンドレンズ。細い銀縁のそれは、数ヵ月前に弥代が誕生日プレゼントとして選んでくれたものだ。
指先でテンプルを弄びながらちらりとモニターに目をやると、目元から頭頂部に刺さるような痛みを覚えた。必然的に眉間に皺を寄せる。先ほどまでは(何だったらこいつを導入するまでは)気にならなかった刺激は、どうやら目に毒だったらしい。
(自覚していなかっただけで、役に立つもんだな)
PCをスリープモードにしてから、ぎゅっと詰まった眉間に人差し指と中指を、ぐっと押し当てる。反射で閉じた目を再び開くと、手元の資料の文字が飛び込んできた。
《She was always nervous around him, 》
それは物語に登場する女性が、想い人の前で緊張する様を描写した一文である。
《like butterflies in my stomach.》――
(落ち着かないの。身体の中で、蝶が飛び回っているみたい)
この手の物語では迂遠な訳が多数見受けられる。英語や英文に馴染みのない者からすれば意外だろうが、明け透けでストレートな物言いが好まれる英語圏であっても、この手の慣用句は存在する。日本人でいうところのことわざに近い。
緊張している様子。胸がざわめいている様子。
心拍数が上昇して、居ても立っても居られない様子を表す典型的なフレーズである。
(腹の中に、蝶……か)
仕事柄、慣れているつもりではいるが。欧米人の発想は俺からすれば突飛なものだと思う。刺激を受けたり面白がったりすることはあれど、日常生活を送るうえで、自然と出てくる類の言葉ではない。
……そんなことよりも。何かを振り切るように立ち上がり、キッチンへと歩みを進める。本来なら軽く走ってリフレッシュしたいところだが、時間の猶予はあまりない。
コーヒーメーカーにマグカップをセットしながら思案する。このヤマを越えたら、どこまで走り込みしようか。この時期は皇居を過ぎて、上野辺りまで足を伸ばすのも悪くない。
そういえば弥代はジムで、初心者向けのランニングコースがあれば、と呟いていた気がする。さすがに往復一緒にとはいかないが、現地に集合して恩賜公園辺りを一周するのも悪くなさそうだ。
とりとめもなく脳裏に過ぎる、気心知れた同僚の姿。
片方の手の中では無意識に終始、外したはずの眼鏡を離さずに弄び続けていた。
* * *
護身術(いつもの)講習を開催する程度の余裕はあった。
数日経った今もなお、例の翻訳業務には未だ区切りがつかない。遠出の走り込みは当面先になるだろう。
だからこうして、弥代と肩を並べて歩く寮までの道のりが、ひどく貴重な瞬間に思えてならない。だが浮足立って口数を増やすのも何か違う気がした。結局いつもの通り、穏やかに、余計なことを言わずに心地の良い沈黙を共有している。あまりに短い帰り道を惜しみ、平時よりも緩やかなペースの歩みになるのも必然だった。
弥代は十中八九、俺が意図して歩調を合わせているものだと思い込んでいる。その誤解を今は、無理をして解く必要はない。
「……あ」
前方に目を向けたまま、弥代が不意に立ち止まる。
つられて歩みを止めると前方には、鮮やかな羽色の蝶々が飛んでいた。
覚束なくも鮮やかな、青緑色の羽。真っ黒な縁取り。蝶々は弥代が立つ右方向から、俺たちの前方をいくらか旋回している。
「蝶々って」
「ん?」
青とも緑ともつかず、揺蕩う蝶々。一連の動きを目で追いながら、弥代は呟く。
「亡くなった人の魂を、運んでくるらしいですよ」
日没間近の弱い日差しが、弥代の横顔に陰影を作る。緑がかった瞳の色が影に溶け込み、穏やかな空気感は消えている。怖いくらいに静かで、凪いだ声色だった。
(……こんな風に弥代は、誰かを見送ったことがあるのか)
喉元まで出かかった疑問を訊ねるほどの図々しさはなかった。そのまま呑み込むと胸の中がざわめいて、激しい動きもなしに心拍数が上昇する。居ても立っても居られなくて、だが何もできない。透明な膜越しに、ぞっとするほどの美しさを湛えた何かを見つめているかのような。そんな錯覚すら覚えるほどだ。
やがて反対方向へと消えていく青緑色の蝶を見送り、俺たちは再び短い道のりを歩いた。
弥代が纏う空気はとうに、元の穏やかなものへと戻っている。だから、囚われているのは俺の方なのだろう。
俺の中にも蝶が居着いている。
どうせ目覚めてしまったのなら。その羽色は弥代が目を奪われた、あの色が良い。