静寂埋める濡れ雪「わ……!」
僅かに目を見開きながら空を仰ぐ七篠は、ほろほろと落ち始めた雪を躊躇なく顔で受け止める。
程なくして大粒に変わりはじめた雪には見るからに水分が混じっていてひどく重みがあるようだ。いくつもの結晶を連ねたまま音もなく七篠の額や頬を撫でて、消えていく。俺は折り畳み傘を探る手を止めないまま、どことなくはしゃいだ様相の横顔を見つめていた。七篠の呼吸に合わせて吐く息は、軽く舞い上がっては空気に溶けていき、再びうっすらと煙るのを繰り返すばかり。
いつか七篠も、あっけなく姿を消してしまうに違いない。無意識に浮かんだ考えに気がつき、いつしか探り当てた折り畳み傘をきつく、きつく握りしめる。ひと時だけ瞳を閉じれば、いつかの事件で逝ってしまった父親が皺だらけの表情が鮮明に蘇った。
* * *
父とは一度だけ、一緒に雪を見たことがある。
あの日も曇り始めた空から前触れなく、水気の多い雪が静かに都会の街並みを白く染めていた。
学校には通っていてもまだ幼かったから、おおよそ二十年ほど前だったか。父は職業柄いうまでもなく多忙で、眠っている時に帰宅したり、起床する頃にはもう家を出ていたりが日常茶飯事の生活。しかし週に一、二度は決まって学校帰りの俺を迎えに来てくれて、遊びに行ったりそのまま食事をしたりする。母親も含めて家族で出かける日も多かったものの「二人で行っておいで」と送り出してくれることも珍しくない。今にして思えば、父の貴重な休みをほぼすべて俺に費やしてくれたのだろう。
本当は友達との予定よりも父を優先しなければならない生活に不満がなかったわけではない。最期まで決して口にしなかったのは、帰りの時間が読みづらい父を自分の意思で振り回してはいけないと、子ども心に理解したからだ。
そのような日々が続く中で珍しく、父の非番が学校の休みと一致した日があった。
俺の誕生日が近かったこともあり、父は俺のわがままを全て叶える気概だったのだろう。何かしたいことがあるか。欲しいものはあるか。張り切った様子で聞かれたけれど、これといったものは浮かばなかった。我が儘に思われないか心配だったことに加え、父と過ごしたい気持ちはあれど具体的に何をしてほしいのか自分でもわからなかったのだ。
黙り込んだ俺の様子を見てひとまず父と母、三人で徒歩圏内に建設された大型ショッピングモールへと出かけたはずだ。ファミレスでご飯を食べて、ショッピング街を親子三人で見て回る。それから併設された映画館で当時の話題映画を鑑賞したりもして、ありきたりな親子の休日を過ごしたのだろう。ありきたりではあっても望みがわからなかった俺は始終、何も欲しがらずに父母の行く先をついていくばかりだった。
そうこうしているうちに日が暮れて空が曇り始めた後、一層薄暗くなる街並みを父と二人だけで歩いた。母は「買い忘れたものがあるからお父さんと先に帰っていて」と言い残してショッピングモールへと戻ったので、おそらくまた気を遣って二人きりの時間を作ったのかもしれない。父を困らせてしまったであろう罪悪感で余計に何を話せば良いのかもわからないまま、俺は終始無言のまま舗装されたコンクリートの道を進んでいた。
大粒の雪が視界に入ったのはその時だった。
特に予報もなかったからか、道行く人々は戸惑いながら空を見上げては足早に通り過ぎていく。重たさの残る雪は雨にも似ていて、おそらくまともに外に居続けていれば雨の日と変わらずに濡れそぼってしまうに違いなかった。
俄かに慌ただしくなった周囲に構わず、俺は道のど真ん中、ぽかんと口を開けて空を見上げていた。都会育ちで雪など滅多に見ないので、雪景色などフィクションの世界だと思い込んでいたのかもしれない。
「そんなに見つめていたら、すぐに顔がべちゃべちゃになってしまうよ」
呆れ混じりに笑う声は温かくて、俺は引き寄せられるように父に目を向ける。
「けどそうだな。こんな景色、流星ははじめてかもしれないな」
予想に違わず、眦を下げて相好を崩した皺だらけの顔と目が合って驚いた。思えばその日、俺ははじめてまともに父の顔を見たのだ。
「……かまくら、作りたい」
驚いたからこそ不意に、口をついたのかもしれない。そしてこの時、俺ははじめて願いらしい願いを口にしていた。
「ああ、良いね。もっともっと、地面が隠れるくらいまで積もれば」
「ここでも、できるの?」
「もしかしたらな」
けれど所詮、ここは東京のど真ん中だ。かまくらが作れるほどの雪なんか降るはずもない。
代わりに俺たちは公園へと移動し、濡れてしまうのも厭わずに小さな雪だるまを作った。子どもだった俺の手に収まるような、ひどく小さな雪だるまだ。辺りに落ちていた小さな石ころや枯れかけた葉で顔を作り、片隅にそっと飾って。放っておけばあっけなく潰れてしまうほどに脆く、かといってべたべたと触れてしまえば子どもの高い体温であっという間に溶けてしまう。それでも父は「次に雪が降ったらまた作ろう」と屈託なく笑いながら、幼かった俺と約束を交わした。
約束はとうとう、果たせなかったけれど。
* * *
日常に紛れて、忘れかけていた思い出。不意に蘇ったささやかな記憶さえもさえも忘れることが怖くて、取り零してしまうことが怖くて、不意に思い出した時は大事に温めておきたくなる。ちょうど今みたいに。
多忙の父から愛情を受けて育った日々は、確かに幸せだった。
けれど、数少ない願いを叶えてはくれなかった。ささやかな約束さえ果たせないまま、消えてしまうことなど望まなかったというのに。
「夏井さん、雪ですね!」
いつもよりどことなく無邪気な七篠の言葉で、現実に引き戻される。七篠はやはり顔いっぱいに雪を浴びたのか、化粧気のない頬から顎に滴らせた水を雑に拭っていた。一般的な人よりも表情に乏しい彼女だが、決して短くはない付き合いを続けたの経験から察するところはある。これは相当感動しているに違いない。
握りしめていた紺色の折り畳み傘には皺が寄っていて、俺は重く長い溜息を吐きながらひとまず折り畳み傘を七篠に押し付ける。それからジャケットの内ポケットからハンカチを取り出して、七篠に握らせようと腕を伸ばした。さすがに拭いてあげるなど過保護な行いをする勇気はない。
すると七篠はいつの間にか広げていた傘を差しながら、ハンカチには目もくれず二、三歩進み出る。
「な……っにしてんのそうじゃないだろ」
「私だけでは夏井さんが濡れてしまうと思ったのですが」
「……あのさ」
何が正解だったのか? とばかりに首を捻る七篠は、相合傘をしている今の状況に少しの疑問も持っていないらしい。もう少しこちらの配慮を考えてほしいと思ったのだけれど、七篠相手に感情の機微を察するよう求めるのは違うだろう。
「とりあえず、顔拭いて。すでに顔濡れているでしょ」
「確かにそうでした」
言われて素直にハンカチを受け取り、ささっと顔を拭うと「洗ってお返ししますので」とジャンパーのポケットにハンカチをしまった。明らかに化粧をしていない者の仕草だったので汚れなど別にどうでも良かった。現在の懸念点はもっと別のところにある。
(七篠のパーソナルスペースはどうなってんだよ……)
彼女の前で動じていないふりを装うのはもう何度目だろうか。近距離でばくばくと早鐘を打つ心音は収まりそうにない。どうしてこうも、容易く俺の心に立ち入ってしまうのだろうかと嘆きたくなるのに、何をするにも全力な彼女を遠ざけられない自分もいるのだ。
大切な人などもう、簡単に増やしたくなかったのに。
どうせまたいいようにかき乱して、俺の前から消えてしまうに違いないのに。
どれほど大切な誰かが消えてしまっても折れないために、今の生き方を選択したというのに。
雪が降る歌舞輝町は心なしか、いつもよりざわめきが遠くに聞こえる。七篠を送り届ける途中だったとはいえ、喧噪がいつもよりも小さなこの場所は俺の知る歌舞輝町とはまるで別の場所みたいだ。予報外れの雪が降り、申し訳程度に光る街灯が点在するこの場所には、七篠と俺だけがいる。息遣いさえもはっきり拾える距離感で、相合傘のまま立ち尽くしている。
「もう少し待っていたら、雪だるまくらいは作れるでしょうか」
静寂の隙間、零した呟きに思わず間近の彼女を見下ろす。
「今から作るの?」
「そういえば、雪遊びをした記憶がないと思いまして」
まさか、と言いかけて止める。彼女があの場所に身を置いた経緯を察するに、あり得ない話ではないと思いなおしたからだ。
「俺は待ってあげられるけれど、時間は大丈夫なの?」
「問題ありません」
「じゃあ手はじめに、雪だるまでも作る?」
きっと都会の積雪量では、あの頃と同じくらいの脆いものしかできないだろう。けれど彼女の隣だったらそれでも良い、と思える自分がひどく不思議だ。
「はい、作ってみたいです……!」
ならばと辺りを見回し、俺は手つかずの雪が残っていそうな場所を探してみる。どうやら俺はこれから七篠と、図らずもかつての父との思い出をなぞることになるらしい。きっと彼女が一緒なら、思い出したばかりの父との日常を、二度と失わずに済むだろう。
もう二度と、大切な存在を増やさない。けれど不可抗力で俺の日常に入り込んだ彼女を、今更手放すつもりもない。
父を失った時とは違う覚悟を抱いたまま、眠らない街の秩序を守り続けると決めたのだ。
普段よりいくらか静かな街で抱いた願いを今だけは、予報外れの濡れ雪が覆い隠してくれる。