孤独の海で会いましょう はぁ、と大きく肺が動く。吸ったのか、吐いたのか。自分のことがあやふやになって、漣の呼吸しか聞こえない。自分がどこまでも希釈されて、精液と一緒に漣の中に流れ込んでしまった錯覚に溺れていく。
ぽすりと布団に倒れ込んで、向かい合う形になった漣の瞳が開くのを待っていた。自分よりも荒い息、朱に染まった肌、乱れた髪。先程まで欲を煽っていたすべてが愛おしく思えてしかたない。正しく数分間、ぼやりと開いた瞳が一瞬揺らいだ後、普段の力強さを取り戻す。「らーめん屋」、とかすれた声が鼓膜を揺らした。
名前を呼ばれて、形が戻る。世界の形か、自分の形か。どちらかのパズルがピタリとはまり、豆電球が支える薄明かりやつけっぱなしだったテレビの音が戻ってきた。クジラは歌う。波に融ける。思い出した事がある。
秋と冬の境目に、クリスが興奮気味に教えてくれたクジラの話。深く深く潜る時、クジラの心臓は一分に二回しか動かないという。
体が小さい動物は心拍数が早い。体が大きい動物は心拍数が遅い。知ってはいたが、ここまでとは。とても驚いたのを覚えている。52ヘルツのクジラと共に、それは自分の心に、猫がじゃれついたような甘い引っかき傷をつけた。
「……でけーさかな」
漣の声がささくれている。それなのに自分は水も取らずに漣と一緒にぼやりとテレビを見ていた。漣が水をねだれば水をとってきただろう。でも、漣はテレビを見て、クジラを見ている。
「……クジラはさかなじゃないんだ。自分たちと同じ動物だ」
「……ふん」
どーでもいい。いつものように漣が言う。それは本当の話で、漣の興味はそれきり失せた。
それきりの沈黙だ。漣からもたらされる気怠い沈黙は、綿菓子のようにまやかしめいた甘露だった。甘さで喉が渇く。漣の声はか細い。自分たちには水が必要だ。立ち上がりかけて、ふと何か、快楽以外のものを与えてくなった。
「クジラの心臓は一分間に二回しか動かないんだ」
「……はぁ? んなわけねーだろ」
「一番動いてないときだけどな。でも、本当だ。からだの大きい生き物はあんまり心臓が動かないんだ」
この話だって、漣の興味を惹かなければここで終わりだった。彼は一言、水、と命令すればよかった。それなのに、漣は自分を抱きしめた。そのまま自分の左胸に耳を寄せる。
「……オレ様と対してかわんねー」
自分より小鳥一羽分だけ小さなからだで、そんなことを言う。自分はクジラほど大きくないし、漣はねずみほど小さくない。自分たちはきっと、基準さえ変われば同じものなんだ。
抱きしめ返す。つむじに鼻先が触れる。漣の鼓動は手のひら越しに聞けばいい。首筋を辿れば大きく脈打つ脈がある。果てたばかりのからだはまだ熱い。
「……くは、心臓、早くなった。ドキドキしてんのか?」
触れ合った箇所から鼓動が聞こえる。二つの心音がバラバラに動く。さっきまで溶け合っていたからだが二分されて、たった二人になってしまった。
「……ドキドキした」
「ふーん。水」
「あ、今言うんだな」
なんだか肩透かし。手渡したグラスを傾けて、水を一気にあおって漣が言う。
「もっかい」
「もっ…………漣、またドキドキしたぞ」
グラスは適当に放っておけばいい。どうせ中身は空なんだ。
誘うように仰向けになった漣の視線に応えるように、その鼓動の在り処に唇を寄せた。