-
潔世一という人間は、どこまでも穏やかで人が良い。誰しもが惹き付けられるような強烈なインパクトはなくとも、いつまでも浸かっていられるぬるま湯のような居心地の良さは万人に好かれる魅力があった。
故に、彼の周りは人が沢山いる訳でなくても、絶えることは無い。
潔の周りは、今日もぬるい。
凛はベンチに腰かけ、少し離れたところで汗を拭いながら着替える潔の姿を見ていた。冬が終わり気温が高くなってきたこともあり、いつも以上に湿っぽくなった練習着を脱ぎ捨てた身体は、自分より一回り小さい。幼い頃は凛のほうが少し小さかったが、ここ1、2年であっという間に11センチもの身長差がついた。(本人は些か不満げだ)夏より日焼け部分との境目が曖昧になった上半身が、水色のタオルで拭われていく。
そこに、潔と同じ学年の主将が笑顔で声をかけた。2人は仲がいい。一学年下の凛がこのサッカー部に入部した時には、2人は部内でも特に絡みが多いコンビとして周知されており、それがどことなく気に入らなかった。
そんな凛の心中など知らず、潔は何やら楽しそうな明るい声をあげながら目の前の男の肩を小突いた。男の目が嬉しそうに細められる。潔もぬるいが、潔以外の部員はもっとぬるい。部員のほとんどが気に入らなかったし、この主将のことも無論元々気に入らない。
潔の身体はいつの間にかワイシャツが身につけられ、練習後のミーティングも終わり、3人しかいない部室の中には潔の使っている制汗剤の匂いがふわりと漂っていた。
「潔、自主練しないの珍しいな」
「あー、進路指導の先生に呼び出されてるんだよね」
道理で、いつもは全体練習後の凛の自主練についてくる潔が早々と着替えている訳だ。別に毎日一緒に自主練をしようと約束している訳では無いけれど。
進路指導。潔はこの春2年に進級した。まだ2年になったばかりというのに、既に進路指導なんてものが行われているらしい。
エナメルバッグのジッパーを滑らせて帰り支度を終えた潔は、思案を巡らせながら水分補給をしていた凛のほうを唐突に振りかぶった。
「凛、今日夕飯食ったら部屋行っていい?昨日の夜中にやってた試合見たい」
潔と凛は学年こそ1つ違うものの、家が隣で生まれた頃から家族ぐるみの付き合いだ。今は海外へと旅立ってしまった兄も入れて、いつも3人で一緒だった。
幼い頃から近所の公園で遊んで育ち、小学校の帰りは家を行き来して、中学、高校と進級してもそれは余り変わらなかった。
こうして、学校が終わった夜にどちらかの家で試合の映像を見ることは昔から続く日常茶飯事だ。
返事はしないものの、送った一瞥がYESであることも、潔はよく分かっている。
「じゃ、また明日な。凛、またあとで!」
件の試合映像がよっぽど楽しみなのか、潔はニコニコと機嫌のよさそうな笑みを残して部室を後にした。
凛も日課のシュート練習を始めるために、ボトルのキャップを閉めてベンチから立ち上がる。
「あ、糸師。俺お前に聞きたいことがあって」
凛は、部内の上級生に話しかけられることがほとんどない。敬語が使えない、態度が悪い、それらの要素を兼ね備えながらにして部内でずば抜けた能力を持つエース。縦社会の部活動の中では最悪の特性は、入部から1年にして遺憾無く発揮されていた。
最初の数ヶ月こそは部内の雰囲気はこの世の終わりの如く最悪であったが、潔の努力と本人の文句無しの実力によって、現在は必要以上に関わらないで沈静化されている。
主将というポジションであるこの男は、そんな部活の中では比較的臆せず凛に接している方ではあったが、こうして個人的に話を切り出される機会はほとんどなかった。
早くしろ、という先輩に向けるものとは思えない凛の鋭い視線に苦笑いしながら、男が口を開いた。
「お前と潔って、付き合ってる?」
もう少しチームワークを大切にしろとか、せめて3年の先輩の顔を立てろとか、全く時間の無駄な話題が降り注ぐことを予想していた凛の瞳は少しだけ揺らいだ。想像できるわけのない、あまりにも予想から外れた問いに思わず顔を顰めた。
「ふざけんのか」
「それがふざけてないんだよな。気持ち悪いこと言って悪いんだけど、俺潔のことが好きでさ。近々告白しようと思ってるから、聞いた」
さらに混乱の速度を上げていくような言葉に、凛の眉間のシワはいっそう深くなっていく。目の前の男の表情は真剣そのもので、初めてひとりの人間として男の表情を認識した。
「……気色悪いこと言ってんじゃねえ」
低く唸るような声を絞り出しながら、男の横を通り過ぎて逃げるように部室のドアに手をかける。張り詰めた部室の空気が息をしづらくしていた。早く外に出て、自主練に没頭したい。
「付き合ってないならいいんだ。嫌な思いさせて悪かった」
男の酷く穏やかな声に、後頭部を殴られたようだった。気持ち悪い。全部が不愉快だった。
潔に告白しようと思っている?幼なじみである自分に、よく躊躇いもなくそんなことが言えたものだ。
潔の隣でいる時の、男の幸せそうな顔がフラッシュバックする。潔は凛が入部する前から、あの男のことをよく話していた。凛がまだ中学にいる間、1年を一緒に過ごしたあの男のことを。
大きな舌打ちをして、ボールを地面に置く。イメージをした後に蹴った球の軌道は、僅かに横にブレた。こんなことに振り回されている暇は無い。深く息を吸って、ゴールを見定めた。
-----