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    ちゃつぼ

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    ちゃつぼ

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    転生。
    魂で恋をした男たちの話。

    2024.2.3 今夜帳の中で【5】

    愛の領域 女のように長い髪。低い声と重い筋肉を持つ男。
     子宮なんてありはしないから、尻の奥に精を注ぐ。
     マメのできた硬い掌だろうと繋ぐだけで嬉しくて。
     悪い内緒話をいくつもして、馬鹿みたいにはしゃいで一緒に転げ回った。
     うぜえ説教は癪に障るし、鼻血吹くほど殴ってくるし、楽しいことばかりでもなかったけど。

     恋だった。

     あの日オマエが隣からいなくなっても。

     今日この手がオマエを殺しても。

    「恋は愛に、ってね」

     



    *





     彼の気配を感じることが、目にするよりも好きなのだと思う。そこにいると知っている、それだけでいいのだと。

     足音と呼ぶ声、存在感が、綺麗に混ざり合って私へと覆い被さる。上着を羽織った時の感覚に近い。肩を掴まれた掌に然したる力は込められてはいなくとも、抗うことなんて思いつきもしないのだとばかりに、私は腰を捩って向きを変えている。探すまでもなく恐らく最短で視線の出所へ行きつくと、すぐさま眼差しを掬い取られて、ふんわり柔らかく抱き締められる。応えたいという欲求が湧き立つのと、開いた口に舌を差し込まれるのはいつも同時で、正確に、少しだけ上向けていた眼をそっと閉じて、私も彼を抱き返す。触れ合う度、彼の言う「体が覚えている」ということについて考える。確かにそうだと感じる。思考と動作のどちらが先んじているのか、はっきりとは分からない。肉体に引っ張られているのなら、それだけ私たちは愛し合っていたのだ、心から。
     舌先を擦り合わせる。鼻に抜けるのは私の息継ぎの他にもうひとつ、甘い匂いで、チョコレートだと分かる。しかもまだ完全に食べきっていないうちに私の元までやってきたらしい。こういうことが、よくある。彼の趣味なのか何なのか。どろりとした甘い唾液を貰いながら、やがてその味が完全に溶けきってからも、しばらくはキスに熱中した。顎をべろりと舐められ、ちゅっと立ったリップ音に、私は目を開けた。息をしつつ、体と体の間にできた隙間を見下ろして、直前までの記憶を辿る。私は珈琲を淹れていた。彼にはジューサーでフルーツオレを。
    「すぐる」
    「ん?」
     キスの名残のように甘い声が鼓膜を震わせ、私の全身に満ちていく。寄せてきた頬に、私も擦り寄った。彼は日本人の平均身長を優に超える図体の持ち主だ。かくいう私も似たようなものだが、彼は着痩せするタイプである。そんな彼に遠慮なく懐かれても問題なく受け止められる自分を嬉しく思う。
     彼に、続ける言葉なんて実はないだろうということは、何となく分かっていた。鼻先を擽る白い髪からほんのり揃いの香りがして、彼とここにいる現実がトクンと胸に落ちる。彼は私の耳の下辺りをすんすんと嗅ぎ、次いでちゅうちゅうと吸い始めた。くすぐったくて、いとおしかった。私は彼がいとおしい。
    「この味気に入ってるなら、今度はぜリーにしてみようか」
     この家には大量の甘い菓子と、数種類の果物があった。彼のチョイス、いや、彼の為に私が常備していたのかもしれない。私の好きな珈琲豆もある。酒類も、彼は飲めないというから全て私のものだ。
     三時が近づくと自然とキッチンに足が向いて、自然と飲み物を準備した。珈琲と、ジュース。フルーツオレは、美味い美味いと彼が喜ぶものだからついまた作ってしまう。飽きられない為にもリクエストを聞くべきなのだが、今日はどうしてもバナナを使いたかったのだ。もう限界まで熟れていたから。ジューサーにかけながらふとゼリーもできるなと思いついたので、聞いてみようと思っていた。
     相変わらず私の首周りで好きにしている彼がぼそりと天才と呟いた。絡まる腕がぎゅうと私を締め付けるので、明日のメニューは決まった。ゼラチンを買いに行かなければならない。
    「さ、休憩しよう、さとる」
    「ん」
     何の休憩かと我ながら笑ってしまう。彼はゲームをしていたはずだし、私なんて特に何もしていなかった。時は止まらない。穏やかに緩やかに、私たちは共にいた。

     互いが何者であるのかを、分らぬままに。



     気付いた時、彼が目の前にいた。そして私は、彼が何者なのかが分からなかった。それは現在も進行形で続いている。混乱したし、ありえないことだった。けれども不思議と恐怖は感じなかった。彼が私に危害を加えるような人間ではないと何故か信じられたのだ。
     絶句する私と同様に、彼も大いに戸惑っていた。私がどこの誰で、自分とどういう関係にあるのか分からない。己の素性も、生きてきた過去も経緯も経験も、きちんと積み重なっているのに、相手の、私という男のパースだけが消失している。
     歳は同じ二十八、堅実に稼いできた自負があって、先立つものの心配はとりあえずは横に置けた。家のセキュリティは万全で、にも関わらず、私たちは覚えのない他人と見つめ合っていて、ただただ、困惑するしかなかった。
     表札には彼と私のフルネームが掲げられている。私たちは同居しているらしい。彼の肩書は建築士、樹木医である私と共同で設計事務所を営んでいる。ここは私たちのオフィスも兼ねている住処で、私たちは、共に一年もの休暇をとっていた。

     バイオフィリアである私の所為だろう、住居の八割はグリーンで占められている。フェイクも置いてあるが、生きた緑には相応のメンテナンスが必要で、私にはその知識が確とあった。
     オフィスの至る所が緑に侵食されている。私の仕業だ。その記憶はあるのに、彼のことだけは何一つ分からない。頭がおかしくなったのかと思った。実際、彼も私も、頭のどこかが異常であるからこんなことになっているのだ。おかしい者同士、私たちは特に諍うことなく暮らし始めた。どこで知り合ったのか全く分からない。どうやって親交を深めたのかも記憶にない。それでも、仕事もプライベートも共にするような信頼とか絆といえるものを築き上げての今である。私たちであるのだ。
    『オマエ、名前は?』
    『…夏油、傑』
    『俺は五条悟。とりあえず、よろしく、傑』
     思い出せないのなら初対面と変わりない。いきなりのオマエ呼びに眉を寄せてしまったのに、名前を呼び捨てにされた時にはあっさりと許していた。彼はこういう男だと、私は許していたのだ。

    「夜メシ何にする?」
    「そうだなあ、シチューがいいな」
     長い休暇を謳っておいて、過去の私たちは何の予定も立てていなかった。だから私たちも無計画のままに、だらだらと日々を過ごしている。当初、三度の食事と、おやつ時を共にする以外は、それぞれの部屋に篭っていた。彼は主にゲームをしていて、私は本を読んでいた。リビングで鉢合わせると、よう、だなんて挨拶を交わしたりした。食事を作るという彼に、ならば私は掃除を申し出た。自堕落な生活だった。互いにいい大人であり、やるべきことを休んでいるのだ。気が急かないわけではなかったけれど、大きく動く気も起きなかった。己の中で喪失したものを手探りしつつ、何の進展もないまま、数日が過ぎた頃、リビングのテレビに、自室から運んできたゲーム機を繋ぐ彼を見つけた。
    「対戦しねえ?」
    「私、強いよ?」
    「へえ?」
     その日を境に、私たちの距離が縮まった。昨日の他人が、今日にはもう親友だった。夜を徹して自分の人生を明かし合った。ちっとも眠くならなかった。たくさんしゃべったし、たくさんのことを聞いた。とても楽しかった。楽しくて、何だか切なくて、キスをしたいなどと思ってしまった。どうしようと息を飲んだ時、彼の顔が近づいてきた。私は待った、彼を。触れてほしかった。それが答えだ。それが、私の中にあった答えなのだと。時間を忘れるくらい、私たちは相手を知ることに夢中になった。
     恐らく、学生の頃からいただろう親友が思い出せない。いたはずなのに。きっと彼が。
     私が彼を、彼が私を思い出すことは未だ叶っていない。諦めるしかないような気になる。それでいいとも思うし、それでは駄目だとも思う。日によっても傾く思考はバラバラで、昨日の自分と今日の自分が心の中で向き合っている。どちらも譲らず、かといって、第三者の目線を持つ私はそんな自分たちを眺めているだけなのだ。
     思考の放棄だと警告と共に気付かせてくれたのは彼だった。ああ、不甲斐ないと嘆く私さえも彼は見抜くのか、平気な面で内面の不安定を誤魔化そうとする私に文字通り張り付いてくる。私は私の弱さを隠していたいのに、彼は長い手足を使って私の動きを封じた。男である私を膝に乗せ、両腕で私を抱き締めたのだ。
    「考えすぎんなよ。分かんねえことを無理に求めても苦しいだけだろ」
     当たり前のことを言ってくれる有難さが、彼にはあった。救われる思いだった。だから私も、彼を救いたいと思った。彼が救われたいと思っているのかなんて分かりはしないのに、私が受けたものと同等のものを、彼に返したかった。
     傲慢だと頭の中で声がする。彼が私を望む動機は単純だ。正しいと思う。なのに私は、私が彼を望むのは、私が、救われたいからではないのかと考えてしまう。
     それは恋人として、パートナーとして正しい姿だろうか。

     シチューをおかわりする。食卓にはパプリカのマリネもあって、交互にいくらでも食べられた。食後に麦チョコを食べるような彼の横で、私も最中を齧っていた。ほうじ茶が美味い。何事もなく、何も解決しないまま、また、一日が終わっていく。洗い物を片付けていると彼が背中に伸し掛かってきて、いつものことだが、動きづらい。あっちで待っていろと言っても聞きやしない。勝手に私を堪能する。拒まないのは私だけれど。
     
     何故か、いや、彼の性急さが嬉しくて興奮したのだ。興奮が過ぎて、早くも達してしまった。三日と溜めていないのに、結構出た気がするし、匂いも鼻につく。私と違い、彼の体臭は驚くほど香らなくて、恋しいそれを吸い込むには、喉奥まで咥え込み、鼻先を皮膚へ押し付ける必要がある。だから私も今すぐ彼を咥えたい衝動に突き動かされるが、彼は射精後の私の急所を嬲ることに忙しくして、一向に自由にしてくれない。そうこうしているうちに、彼の舌先は私の尻穴へと移動する。待って私もと乞えど、くにくにと休まず穴を出入りする指がその答えで、今日はさせてもらえないようだ。そんなところを舐める必要はないと、最初は流石に拒んだ。それでも懇願されて嫌々頷いた。そして後悔した。頷いてしまったことにではない、拒んだことにだ。俺の楽しみを奪おうとした罰だと、実は怒っていたらしい彼の手に、執拗なほど嬲られた。快楽責めとはこのことだ。射精せずとも達せられる体であった私は、殺されると冗談抜きで思った。以降、私は彼を阻む勇気を持てなくなった。情けない。
    「なあ、もっかいイケよ。飲みてえから」
    「だから飲むなっ、て」
     ああ、彼から出るものなら私だって飲みたい。彼という男は、笑っていても怒っていても苦しそうであったって、見目麗しい。甘えたで、狂暴で、優しい男。私と同じ同性で、肺活量も腕力も十二分、私の精を吸いつくし、存分に腰を突き上げる、快楽を分け合うパートナー。
     私たちは、私は、何を憂えていたのだろうか。ここにある暮らしは豊かで、想像する未来からは陰りなんて見当たらない。やりがいのある仕事を得、彼とは愛し愛されていたのではなかったのか。
    「さとるっ、いくっ」
     漠然としている。何もかもが。打ち明けられない何かがある。


     大きなもの、存在に、ならなければ。
     でなければ。


     昔から植物が好きだった。花や木、雑草、そういうものに目がいって、いつまでも見ていられた。小さい頃は動物も好きだったらしいが、連れて行ってくれと強請るのは、山とか植物園が多かったという。
     高校生の頃、バイオフィリアという概念を知った。バイオとフィリアを合わせた造語である。私のことだと思えた。植物に対する造詣を深めたいと考えた。自然と生命が織りなす密なる関わりの神秘性や、惹かれてやまない事象への衝動を説明する言葉が欲しかった。存在価値を見出したかった。私は何者か。何者でありたいのか、なんてことを。
     散る花ではないものがいい。ならば根かと、そう思った。木だ。どこまでも根を張り、枝を伸ばし、大きく太く、大地と共に在れるもの。これだけ大きければ、いや大きくなければならないのだ、私は。でなければ。

     全てを受け止められない。
     小さな私などでは。

     記憶にないが、恐らく私は彼にこの思いを語ったと思う。彼だから話した。笑われようが呆れられようが、話せるとしたら彼以外にはいない。彼は私にとってそういう相手だろうから。
     彼は、何と言っただろうか。
     大きくなりたいと願っている。木になりたいと考えている。愛を返したいと思っても、人とカテゴライズされる身では、不可能だと思うからだ。
     私が愛しているのは、彼だろう。私は、彼のことがとても好ましい。それだけは間違いない。だからこうして一緒にいるのだ。添うているのだ。
     彼は人間だ。私もそう。けれど。
     大樹のように大きくなければ、私は彼を愛せない。彼を満たせるほどの愛を、返してあげられない。
     それは哀しくて、辛いことだった。
    「はっ」
     私は息を止めていたらしい。眩暈を覚えた。我ながら難儀なことだった。
     記憶のない私は、過去の私を他人目線で観察しているが、そんな私の容量を数値化するなら二割といったところか。徐々に本来の私に戻りつつある。脳が正常に戻ろうとしているのだろう。それはいいことだが、海馬の機能は一向に彼を思い出さない。永久に機嫌を損ねるつもりだろうか。
     彼と関わってきただろう過去を除けば、私は私の人生を細かく説明できる。樹木医になりたくて脳に溜めた知識も損なわれてはいない。ここ一年の記憶もしっかりしている。ここは現実の世界で、私は夢など見ていないと断言できる。
     だから、私という個人は一部を除き正常であると仮定して、過去の私の異変がよく分かるのだった。植物好きが高じて、緑と関わる資格と仕事を得た私には、この住居の異常性に眉を寄せざるを得ない。緑が多すぎるのだ。
     バイオフィリックデザインというものがある。自然を好むというバイオフィリアに端を発し、オフィスの壁や天井に緑を配すると、視覚効果によって心身が整い、生産性が上がるというものだ。動線を邪魔することなく、適所に緑を飾る。この家のデザインを考えたのは言わずもがな私だ。私の好みが随所に反映されている。反映されていたのだろうと分かる。それが今は、滅茶苦茶の状態だった。清涼なはずの空気が重く充満している。大袈裟に言えば息苦しい。彼は気にしていないようだが、異常なほどの緑の量に何も思わないはずもないだろう。
     おかしくなったのは、私なのだ。おかしい己を視覚化するという自傷。
     私は、過去の私が如何に面倒臭い思考に陥る人物であるのか察している。記憶をなくしでもしない限り、存在価値を見出すための坩堝へどんどん嵌り続けていったはずだ。窒息するまで。
     防衛本能が働くほどであったのかもしれない。私は、自覚さえ殺せただろう。
     ならば、そんな私と共にいた彼は、どうしたのだろう。何故、彼も記憶がないのか。よもや既に取り戻している可能性もないとは言い切れないが、分からない。

    「傑」
    「…ああ」
     彼の為に、何かしたい。私の願い。それが私。過去の私もそうなのだ。彼を愛しているから、愛し返したいと切に願い、小さな器に過ぎない己に絶望する。
    「傑、何考えてる」
    「木に、なりたいらしい」
    「俺にそんなものとセックスしろって?」
    「できない?」
    「こともねえ」
    「ははっ」
     縋るような触れ方をしながら、彼の瞳は私を許していない。私が離れていくことを。殺されるかもしれないとさえ思えるような鋭い眼差しを、けれども可愛いと思うのは、これが心地良いからだろう。私だけを見つめ、私だけに触れる、そんな彼を嬉しく思うのだ。だから私にできる最大限で可愛がりたい。けれどそれには、人の手では限界がある。だから私は。
    「私は、君をどうしたいんだろう」
    「どうしてえの?」
    「分からない」
    「俺はオマエを愛してる」
     直接言葉にされたのは初めてで、私は思わず、彼を見つめた。互いに思うところは多々あったはずだ。一向に思い出せない他人なんて、普通は受け入れられない。正体の掴めない衝動に犯されているというのに、それを、恐れもしない。
     分からぬまま求め合う。
     分からぬまま許し合う。
     捧げ合う。
     サイコだ。
    「けど」
    「けど?」
    「オマエの愛は要らねえ」
    「…え」
    「望んだらぶっ壊れる、てか、壊したんだろ」
     多分、と彼は言った。それは苦い声となって、私の鼓膜を滑り落ちていく。
    「それは、誰の意見だ。君?それとも」
    「俺。思い出したわけじゃねえ」
    「それでいいのか?」
    「オマエの愛は欲しい。要らねえっていったのは、記憶をなくす前のオマエ。今の俺は、今の傑で十分」
     私の膝上に跨って、全体重をかけて擦り寄ってくる大きな男が、やっぱり私はいとおしい。過去の私が身の丈以上に愛を返したいと望む気持ちも、分からないではない。何がそこまで私を追い詰めるのだろうと思う。駆り立てるのだろうと思う。同じ男を愛しているのに。
    「この私と、一から始めてくれるのか?」
    「当たり前だろ。嫌なのかよ」
    「嬉しいよ、悟。でももし、この私も、壊れてしまったら」
    「ねえよ。二度もするか」
     彼は「壊した」というが、私は「壊れた」のだと思う。
    「オマエも簡単に壊れんじゃねえよって話」
    「そうだね。聞いてくれ、悟。もしまた壊れてしまったら」
    「俺も一緒に壊れる、何度だって壊れてやる。愛することもやめねえ」
    「…うん、頼む」
    「壊させねえし」
    「うん」
     彼は、とても綺麗なものであるように愛を口にする。私の目に彼はどこまでも綺麗に映るだろう。汚れないのだ。私に触れても。私を愛しても。だから私は狂う。そして焦がれる。そして壊れてしまうのだ。



     質の悪い風邪を引いた。高熱と、関節の痛みにうんうん唸り、食欲はなく、食べてもすぐに戻してしまう。どこの外出先で貰ったものか、私は目からとめどなく涙を零しながら、頼りっぱなしの彼に謝っている。
    「そこまで体調崩すの初めてじゃねえの?」
    「うん、そうかも」
    「まだ食えそうにねえ?」
    「一口ほしい、でもすぐ戻すかも」
    「分かった、食べられるなら入れろ」
     土鍋の蓋が擦れる音がして、かゆが口元にやってくる。匙も中身も冷まされていて、がさがさの唇が湿った。甘さよりも塩気がほしくて、願い通りの味付けが身に染みる。美味しくて二口目をねだる。更にねだって、久しぶりに胃に物を落とした。後で吐く気がするが、今はこの美味さに身体が喜んでいる。
    「ありがと」
    「ん」
     こういう時、ひとりじゃないというのは幸せだ。看病してもらえる有難さを噛み締める。彼は全く病気をしなさそうだが、もしもの時は任せてほしいと思う。

     ぱちりと目を開けた。布団を跳ねのけて、ベッド下の洗面器を掴む。ああ、勿体ないと思いつつ、喉から逆流してくるものを吐き出した。体は頑丈だったはずなのに全く恨めしい。吐き気が治まり、ほっと息を吐く。吐く度、いつだって背中を摩ってくれる彼がいた。有難いのだが、ちゃんと眠っているのだろうかと思う。
     最早今更な気がするが、移すといけないからなるべく長居はするなと伝える。洗面器だって私が片付けたいのに、無言でベッドに押し戻されるのだ。
    「ごめん」
     何度謝ったかしれない。食事を食べさせてくれてありがとう。体を拭いてくれてありがとう。傍にいてくれてありがとう。そう思っているのだが、どうにもこの口は「ごめん」とした零さない。ごめんね、ありがとう。そう付け加えるだけいいというのに。
     不調との付き合いも五日目に突入していて、寝て起きて吐いての繰り返しだった。早く元気になりたかった。元気になっていっぱい彼を甘やかしたいとそれだけを思っていた。ケーキとか作ってやりたいと、とにかく彼にお返しがしたくてならなかった。彼のことばかり考えていた。だから分からなかった。口の中で蠢くものの正体に。吐いたばかりの、胃液に塗れた口内を舐めるのは、私の舌ではない。あろうことか他人の、彼の舌だった。
    「ちょっ」
    「もう移せよ、貰ってやるから」
    「ばかっ、やめろ」
    「やだね」
    「正気か」
    「五日ぶり」
     それ以上の拒否はするなと、病人相手に射るような視線だった。私は言うことを聞くしかなくなる。泣けてくるのは、居た堪れなさの所為だけじゃない。
     愛が、苦しい。
    「気持ち悪くないの?」
    「平気、オマエだってできるだろ、俺に」
     否定は無理だった。その通りだった。平気だ。愛してる。
    「…寝るの、飽きた」
    「抱いてやろうか?」
    「…うん」
    「ゲロってもやめねえけど」
    「うん」

     それから二日後、私はほぼ回復した。彼も至って元気だった。



     休暇は一年。とはいえ、全く仕事をしないわけにもいかなかった。当然だ。私は自分のことよりまず彼のことが気になった。もしや仕事においても普段のような口調でいるのかと要らぬ心配をしてしまったが、本当に要らぬ心配だった。失礼でさえあっただろう。クライアントとの信頼関係がものをいうビジネスである。器量も頭も良い彼に、落ち度などあろうはずがなかった。堅苦しいとぼやく彼に、格好良いよと正直に告げると、得意げな顔をして笑っていた。憎めない奴なのだ。
    「髪、伸びたな」
    「そう?」
    「切らねえの?」
     考えてないと言おうとした口を、けれど私は閉じた。何かが引っ掛かった。分からぬままに横を向き、彼と瞳を合わせる。私の毛先を指に絡めながら、軽い話題であるはずの問答とは釣り合わない瞳の強さがそこにあった。
    「暑くなってきたし、結ぼうかな」
     何故か小さな動悸を覚えた。彼の瞳から逃げたのは無意識だった。髪がどうしたというのだろう。分からない。
    「オマエの髪、生きてるみてえだよな」
    「ええ?」
    「メデューサ?」
    「何でだよ」
     笑い合う。胸はざわついたまま。
    「オマエの髪、結ってた気がする」
     近づいてきた顔をギリギリまで見つめて、私は目を閉じる。口を開けて、彼の舌を待つ。ちゅ、ちゅと吸い付かれるのが好きだと、バレているのだろう。私が噛み返すまで続く時がある。徐々に深く重ねていくのが好きだ。彼が身の内に浸透していくようで興奮する。
     興奮に上りきる一歩手前、キスは解けてしまった。こいつめと思う。彼は、私を読むということに長けすぎている。私が分かりやすいのかもしれない。
    「はは、物欲しそう~」
    「君もだろ」
    「まあね」
    「じゃあしてよ」
    「髪、結わせて」
    「今?」
    「今」
    「仕方ないな」

     それから、彼が私の髪を結い上げるようになった。洗髪時の手入れまで申し出されて、風呂場でもリビングでも私は大人しく座っている。ドライヤーが一台増えた。彼が買ったものだ。たかがドライヤーに数万円もして無駄遣いとまでは言わないけれど、大層だなとは思った。
    「オマエの髪には呪力が通ってて、切ると痛ぇとか言ってたけど、あれマジだったんだな」
     訳が分からないことを、私たちは言い合うようになっていた。もともと、記憶喪失に陥るという異常事態から始まった関係だ。頭がおかしいと断じるなんてもうナンセンス。話しに乗った方が面白いと、私も彼も思っている。
    「ああ、マジだね。夜な夜な私の髪が君を撫でていたことは?」
    「うっそ、やだー、俺愛されてんじゃん」
    「良かったね」
    「おう」
    「愛は呪い?」
    「呪いだよ。この僕こそが最強の呪い」
    「誰を、呪ったの?」
     聞かなくても分かった。私は応えたかったのだ。相応の呪いをもってして、彼に。










     傑を想うことが愛だった。俺のことを見てほしいと思う相手が傑だった。俺の中の線引きは、全て傑が齎した。傑が、俺という個を積み上げた。
     俺に拒むことはできなかった。責任は傑にある。その所在を黙秘したのは俺だ。だから、責任は俺にあった。

     この一年で確信、いや、確認した。記憶なんて必要ない。傑は小難しい奴だ。己との対話に命をかけている。見ているこっちが疲れる。天才の俺を理解する天才。俺を喜ばせる天才、舞い上がらせて高揚させる天才、打ちのめす天才だ。愛しているのだと思った。だから傑に救われるのだ。俺の喜怒哀楽を手玉に取って、簡単に掬ってみせる。
     けれど小難しい奴だから、俺というものの器を図る。己と対比する。そこが厄介だった。傑は俺を読みはするが、意見を聞くかはまた別だ。己との対話が必要だからだ。めんどくせーと心底思う。でもそれは。傑が俺について小難しく考えていることの証左だった。そう思えば気分は良い。結果がどう転んでも、俺に傑の芯を曲げることはできないし、受け入れるしかないのだと分かっている。
     それでも、望みを持たないわけじゃない。俺だって願うことくらいする。
     記憶がなくとも、俺は俺だ。ならばと考えた。こうなる前に何か、メッセージなりヒントなりを残したはずだと。案の定、記憶喪失が発覚した当日にそれは見つけることができた。デスクのメモ用紙に堂々と書き殴られていたのだから簡単にも程がある。過去の俺が、今の俺へと宛てたものは、読めば一目瞭然の内容だった。
    「傑を離すな」
     傑。夏油傑。誰だか分からない男の名だ。公私を共にするパートナー。
     俺は俺自身を信じるに躊躇はない。だって俺だからだ。
     離すなと、いう。ということは離れようとしていたということだ。離したくないと思っている男が。
     腹の底が冷えるようだった。許せないことに違いなかった。離さねえよと誓う。過去の俺が、今の俺に賭けたのだ。今の俺が俺のやり方で必ず傑を逃がさない。
     とはいえ、当てにできる経験は一つもない。指針は失われている。ひとつも覚えていない。救いは、傑も記憶を失っていることだ。覚えていない。俺たちは互いにまっさらで、一から構築していける。同じ轍を踏む可能性を否定はできないが、壊れるかもしれない未来があることを、今の俺は知っている。だから一分一秒に刻みつけた。間違うなと。

     突如己のテリトリーに出現した赤の他人は、俺から攻撃の意思を奪い、正体不明の衝動を叩きつけた。俺は捕らわれたのだ。目と目が合った、一瞬で。



    「すぐる」
    「ん?」
     ポーカーフェイスが上手いのだということは、外出する先々で早々に知れた。張り付ける笑顔が家とは違う。俺の前で笑う傑は、とびきり可愛い。
     愛していると思った。何者かなんて関係ない。傑の声が好きだ。笑顔が好き。怒った顔も悪くない。ケンカをしても仲直りのできる相手。大事な人間。いとおしい男。俺が好きな奴。
     俺というものを見せたかった。忘れたならまた知ってほしかった。俺の好きな菓子、好きなゲーム、癖、オマエの匂いが好きだということ、俺たちが離れるなんてナンセンスなのだと。俺が料理の手を抜かないのは、オマエが美味そうに食ったからだ。幸せそうな顔を見せてくれたからだ。
     俺の愛が、俺自身を満たす為にもあることを、俺は知っている。全てがオマエの為なわけじゃない。
     でもオマエは、愛というのは、全てを他者へ注ぐべきものだと考えている。少しでも自己への投資を疑えば、そこから容易く崩れていく。自己との対話だ。俺と俺はそれなりに上手くいくが、オマエたちはそうじゃない。
     キスがしたくて、食いかけのチョコレートをそのままに口内へ誘った。一緒にゲームがしたくてリビングにコードを繋げた。いきなり感情のスイッチが入る自分を自覚している。脈絡なく傑に甘えた。遠慮はしなかった。故意といえばそうかもしれない。したい時に押し倒して、思い付いたら迷わず背に張り付いて、出方を伺う前に腕の中に閉じ込めた。
     記憶にない他人に対して、沸き起こる欲求。俺の体は、傑を覚えている。愛しているのだと、忘れていない。
     戸惑いはすぐ消えた。ぎこちなくも、俺の腕を拒絶しない傑に、股間が正常な反応を示した。可愛い男。知った風な口で小言を吐く時の横顔も、テラリウムの世話に没頭している後ろ姿も、口を尖らせる仕草や、早く触ってくれと上目遣いで眼差しを潤ませる時なんかはある種のイラつきを伴って、俺に可愛いと思わせる。煽られて仕方がない。それもわざとじゃない気がして言葉を失いそうだ。
     傑の体で俺の舌が辿っていない箇所はない。あるとすれば心臓とか、それくらいか。カニバの趣味はないが、気持ちは分かる。二度と離れない。離れたことがあるのかないのか分からないが、二度とだ。傑の意思は二の次でいい。後からいくらだって汲んでやる。離れてしまっては二度と無理なのだ。そうなんだろ?
    「屋台のラーメン、食いたくねえ?」
    「屋台か。いいね」
    「福岡行こうぜ」
    「え?」
    「何だよ」
    「いや、新幹線乗るの?」
    「飛行機でもいいけど」
    「そこら辺の屋台じゃないのか」
    「どこでもいいけど」
    「ははっ!何だよそれ」
     俺は、終始、傑とひっついていた。傑も俺を許している。キッチンに立っている時は鬱陶しそうだけど。
     傑とずっとこうしていられるなら、俺は、人間である必要なんて感じなかった。
     それこそ、オマエの耳を飾るピアスに成り下がったって構わない、なんて思う。



     俺が、髪を結うこと。
     それがトリガーだ。



     トリガーがある。俺が引くことに意味のある、記憶のトリガー。傑の髪だ。傑もどこか思うところがあるようだった。何故髪なのか。それは分からない。分からないが、記憶を取り戻すには、トリガーを引く必要がある。
     今を変えるというのなら。
     長い髪を左右に分けて、隠れていた項を晒す。唇を寄せ、気の済むまで食み、舌で嬲る。前に回した両手で傑の乳首を引っ搔きながら、腰を押し付けた。
    「休みももう終わるな」
    「終わる、ね、っ」
    「ま、だからどうってこともねえけど」
     傑が半開きの口をわざわざ閉じたのは、言葉を飲み込んだからか、単に気持ちが良かったからか。一分一秒、俺はここに傑がいることを刻み込む。離れない。ついていく。どこまでも。

     絶対に離さないと、オマエに俺を注ぐことは。
     オマエを苦しめると分かった。でも。苦しめることはやめられない。

     だから俺が、オマエから離れない。

     前の俺は、傑の苦しみを思って離しそうになっていた、だから俺に賭けたんだ。離すなと。

    「ねえ、お団子に、してくれないか」
     キスマークをつけまくっていた俺に傑が言う。いつもはポニーテールに結っていた。
    「団子ね、分かった」
     俺にも傑にも、現実に待たせている顧客がいる。傑は医者だ、植物を救い、再生を促す。望まれている。
     緑が噎せ返るこの箱庭で一生二人だけで暮らすことは可能だ。極論でも何でもなく、俺は悪くないと思う。俺には傑がいればいいが、傑には、俺と、俺以外が必要だ。俺みたいに狂えやしない。
     傑の髪を束ねている俺の指が、微かに震えている。伝わっていないことを願って、乱暴に手櫛を通すと、優しくしてと怒られた。地肌にキスを落とす。結構な毛髪量だから、ハーフアップを提案したが、却下された。意思は固そうだ。そんないとおしい傑がいる。
    「愛してるよ、悟」
    「俺も」
    「本当に愛してる」
    「ああ」
    「って、最後に言っておくね」
    「テメェ」
    「ははは」
     纏めた髪を、くるくると丸める。傑からゴムを受け取って団子にした髪に巻き付けた。萎えた股間に舌を打ちそうになるが、こればかりはな、という気持ちになる。
     さて、どうなるか。
     記憶を取り戻した傑は、最高に手強いだろう。が、その相手である俺だって、最高に最強だと思っている。

     愛は伝わっている。
     俺たちは愛し合ってる。

     手を取り合っている共犯者だ。

     だからもう観念してくれ。
     俺は何度だってオマエに恋をするのだから。





    *





     結ってほしいと、思うようになった。
     この髪にもキスをくれたなと、瞼の奥に浮かんだ日々が切る手を止めさせる。
     女のように長い髪を結い上げて、振り返れば目が合っていた男との、在りし日々が恋しかった。
     
     恋をしている。
     今もまだ。

     あの日、血反吐と共に、苦い鉛を飲み込んだ。

     そんな私が笑って死ねるとは。

    (なんて僥倖)

     君を何より愛するのは、死して後も、この私。
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    ちゃつぼ

    PAST転生。
    魂で恋をした男たちの話。

    2024.2.3 今夜帳の中で【5】
    愛の領域 女のように長い髪。低い声と重い筋肉を持つ男。
     子宮なんてありはしないから、尻の奥に精を注ぐ。
     マメのできた硬い掌だろうと繋ぐだけで嬉しくて。
     悪い内緒話をいくつもして、馬鹿みたいにはしゃいで一緒に転げ回った。
     うぜえ説教は癪に障るし、鼻血吹くほど殴ってくるし、楽しいことばかりでもなかったけど。

     恋だった。

     あの日オマエが隣からいなくなっても。

     今日この手がオマエを殺しても。

    「恋は愛に、ってね」

     



    *





     彼の気配を感じることが、目にするよりも好きなのだと思う。そこにいると知っている、それだけでいいのだと。

     足音と呼ぶ声、存在感が、綺麗に混ざり合って私へと覆い被さる。上着を羽織った時の感覚に近い。肩を掴まれた掌に然したる力は込められてはいなくとも、抗うことなんて思いつきもしないのだとばかりに、私は腰を捩って向きを変えている。探すまでもなく恐らく最短で視線の出所へ行きつくと、すぐさま眼差しを掬い取られて、ふんわり柔らかく抱き締められる。応えたいという欲求が湧き立つのと、開いた口に舌を差し込まれるのはいつも同時で、正確に、少しだけ上向けていた眼をそっと閉じて、私も彼を抱き返す。触れ合う度、彼の言う「体が覚えている」ということについて考える。確かにそうだと感じる。思考と動作のどちらが先んじているのか、はっきりとは分からない。肉体に引っ張られているのなら、それだけ私たちは愛し合っていたのだ、心から。
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    ちゃつぼ

    PAST転生五夏と元祖五夏のふんわりした話。

    2022.10.30 今夜帳の中で
    あなたは甘い、甘い毒。 傑とは高校からの付き合いになる。家から一番近い高校を選んだら傑がいた。
     俺の運命。
     何だかんだ、ケンカしながらも三年間同じクラスでつるんだ。
    『お前、大学どこ行くの?』
    『〇大』
    『…初耳』
    『今決めた』
     俺は爆笑した。
     傑は面白い。老け顔っていうんじゃないが、タッパのデカさと三白眼で輩みたいな服装を好み──それがまあ似合うのなんの──初見の印象はすこぶる悪い。が、その見た目を大きく裏切るのが一人称『私』を採用している話し方だ。意外にも程がある。意図された微笑みなんて胡散臭いことこの上ないが、それも何故か似合っていた。おまけに声もいい。知らぬ間に吸い込んでいた神経毒の様に、滑らかに浸透している。傑の作る完璧な外面に思うところがない訳じゃないが、好きにすればいいと思った。俺の横でお笑いを見て大爆笑してる様子は可愛いし、俺にブチ切れて拳を出してくる容赦の無さには胸が躍る。傑が悟、と俺を認識して名を呼ぶ行為が、どういう訳か俺を高ぶらせる。呼んでくれもっと俺をと、そういう気分になる。おかしいというより、ああ好きなのかと、俺は俺自身を分析した。俺は傑がいれば他は割とどうでもいい。傑から目を放せない。抱きたい。ぐちゃぐちゃにしてやりたい。
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