雨の庭 雨が降っている。雷も鳴っていた。ゴロゴロと、それは少しだけ心を浮つかせる音だ。荒れた天気を、僕はのんびり眺めている。壁一面に嵌め込まれた窓ガラスの向こう、大きな木があって、枝を揺らしている。風も強い。細い道が南へと伸びているがその先がどうなっているのか、僕は知らない。海があるのかもしれないし、駅があるのかも。日々想像することは違っていて大した問題じゃない。
雨を眺めることは好きだ。心は穏やかで、楽しい。何をするでもないが、恐らく気に入りのソファに沈み、稲光に「お」と声を上げ、時が過ぎるのを待っているのは、退屈とは違っている。
よく飲むのはココアだ。思い出して、ローテーブルからマグを持ち上げ口をつける。照明を落としてみた部屋に閃光が差した。何だか良い雰囲気だ。ココアも美味い。いつも上手く淹れられるのは僕が器用だからだろう。壊すのも得意だけど作るのも僕は上手い。
僕はあまり失敗しない。そういう記憶がないからだ。何事も上手くいくのはストレスがなくていいが、それじゃ適用力が身につかない。僕だからいいものの。なんて、誰の何を心配をしているんだか。無駄なことは嫌いだ。考えるだけ無駄。そうか、これが僕のストレスなのかもしれない。ひとりは嫌いじゃないし、むしろひとりでいる方がいいから、僕は僕のことだけを考えればいい。ここではそれができる。僕は自由だ。僕を煩わせるものなんてひとつもない。
メゾネットタイプのログハウスが僕の住処だ。ここが中々に良い。木の色、匂いは僕も落ち着く。程よく沈むソファに腰掛ける。僕の定位置。窓の外は、まだ雨が降っていない。が、雷は時折鳴っていた。いつ土砂降りがくるかと僕はワクワクしながら待っていた。今日は紅茶を飲んでいる。砂糖はひとつ。いや、ふたつ入れたかもしれない。
ドドドドッと音が鳴っている。鳴り出してかなり経つが、雨はまだ落ちてこない。窓ガラスを叩きつけるように降る様を見たいと思っている。ざあざあと降る雨を。外へ行く用事のない僕はどんな雨が降ろうが関係なくて、そういう空模様と、しなる枝葉が見たいと待っているのに。
「降らねえなあ」
随分としょんぼりした声音に我ながら驚いた。ひとり暮らしとはいえ、たまには声を発してみると面白いかもしれないと思う。
雨を待つ、か。
だって僕は、雨が好きだから。
その時、チャイムが鳴った。初めて聞いた。この家に客なんて一体誰だろう。僕はよっと掛け声を発して立ち上がり、スリッパをひっかけて玄関へ向かった。僕に警戒はない。ドアを開けて、目を瞠る。
「突然すみません。よければ、一晩泊めてもらえないだろうか」
「…長髪の、坊さん?」
「え」
「袈裟だろ?それ」
「そう、見えるのか」
「見えるけど」
「そうか」
しばし見つめ合ってしまう。泊めろと言ったか。つまり僕の返事待ち。そう理解した途端、僕はいいよと言っていた。考えるより先に口をついていた。そういうことって僕は滅多にない男のはずで、自分で自分に驚いてしまう。
男はそんな僕を黙って見つめていた。僕が動かなければ、男だって家に上がれない。いくら独り身が長いとはいえ、僕はもっとスマートな男じゃなかっただろうか。
でもまあいいかと僕は思考を切り替える。この男をもてなしてやろう。そう思った。
「どうぞ、上がって」
「ありがとう」
良い声してるじゃん、なんて、心に浮かんだその感想は、初対面の野郎に投げる言葉じゃないだろう。でもそれを我慢して何になる。ここは僕の家で、気に入らなければ男は出ていけばいいだけの話だ。気を遣うのは僕じゃなくてこいつだ。今のところは。
「お経、唱えてよ」
「…唱えたい人が?」
「いないけど」
男が顔をしかめた。揶揄ったと思われたか。良い声してんなって思って、と付け足した。すると今度は困った顔になったものの、機嫌は損ねたらしい。こいつの色んな顔が見てみたいと思った。
「お前、名前は?」
「夏油傑」
「年は?」
「二十七」
「二個下か。じゃあ傑ね」
「あなたの、名前は?」
「悟。呼び捨てでいい」
「じゃあ、遠慮なく」
傑を家に招いた途端、スコールが吹き荒れた。家中に響く轟音と枝のしなりが凄まじい。雷も鳴りやまず、稲光が傑の額を照らした。袈裟を貫き、長い髪を舐める。僕の家で、僕に断りもなく。
僕はルームライトをつけた。傑の輪郭がはっきりする。傑はきょろきょろとあたりを見回している。
「運のいい奴」
「え?」
「雨宿り目的だろ?」
「ああ、うん。そうだね」
「んだよ、はっきりしねえなあ」
「私の運というより、君だと思う」
「何が?」
「ありがとう、一晩世話になるね」
僕の問いは華麗にスルーし、傑が微笑んだ。このやろうと思った。このやろう。僕はもう、こいつを知る前には、戻れない。
傑は夜飯を作ってくれた。一宿一飯の恩義とやらで、リクエストを聞かれたからオムライスを頼んだ。卵はある。具はあるもので適当に。客のくせに汁物も欲しいというので、インスタント食品を放り込んでいる棚を教えた。自炊はしないのかと聞かれ、偶にすると答えた。お酒はというので、下戸だと馬鹿正直に告げると、私は飲んでもいいかななんて意外と図々しいことを言いやがる。僕は飲まないが、ビールもチューハイも日本酒だってここにはあるから好きに飲めと言ってやった。やったと嬉しそうな傑は、どこからかエプロンを見つけてきてそれが似合うような似合わないような。僕はソファの定位置で何もしなかった。外を見ていた。窓ガラスを殴りつける程の雨。暴風雨。大荒れの天気。しとしとと降る雨もいいが、こういう狂暴なのも良い。楽しい。何故なのかは分からない。きっと理由はない。そんなもんだと思うし、それでいいと思う。僕は雨を眺めるのが好きだ。
オムライスは美味かった。明日の朝食は僕が作ろうと思う。
「傑、ソファでも平気?」
「うん、大丈夫」
「キングだから一緒に寝てもいいけど」
まただ。考えるより先に口に出していた。今日会ったばかりの人間にベッドを半分貸してもいいなんて。何だ、これは僕の願望か?僕の自我を、僕が掴み切れないなんてこんなことは初めてのような気がする。その割に、危機感が乏しい。焦りもない。何というか。やっぱりこれは僕の望みに近い気がした。
「君が、いいなら」
「寝相悪いとか?」
「多分、大丈夫だと思う」
「多分かよ」
このソファも十分デカイから寝れはするだろうが、言ってしまった手前、ソファはなしだ。
「フロはそこの奥。お先にどうぞ」
「じゃあ、遠慮なく」
ほんとに遠慮してねえな。いいけど。何だか、こいつには我慢とか遠慮とか一切してほしくない。ここは僕の家だけど、好きにしてくれと思う。NGはない、お前なら。なんて心が広いのかと我ながら思うが気分が良いのは確かだ。
このソファから眺める雨模様、それと同じくらい、多分僕は、傑のことが好ましいのだ。
翌朝。外は良い感じで弱い雨が降っている。この家は湿気とは無縁だ。空調も完璧。僕の家は僕同様に完璧だ。雨音を聞きながら、朝食を用意した。後はあいつが起きてくるのを待つだけ。僕が目を覚ました時はまだぐっすりと眠っていた。誰かの寝顔を見たのは久しぶりだ。
正体不明のあいつが事実人間ではないならば、もうどこかへ行ってしまったかもしれない。ふとそう気付いた。四枚消費して作ったフレンチトーストをぼんやりと眺める。まあ、僕一人でも食えなくはない。まったく。柄にもなく浮かれてしまった。
「おはよう、悟。早いね」
「…おう」
僕の哀愁なんて知ったことじゃないと、確かにそうだけど、傑が上から降りてきた。目が開いていないように見えるが、足取りはしっかりしている。
「うわあ、フレンチトーストだ」
「何だよ。文句ある?」
「何キレてるの」
「キレてねえよ」
「美味しそうだね。久しぶりに食べるなあ」
傑はデカイ欠伸をしつつ、顔を洗いにいった。馴染んでいる。ずっと前から、それこそ、僕と一緒にここで住み始めたみたいに。キッチンに立つ傑、ソファに収まる傑に、違和感も新鮮味もない。僕が貸したパジャマの着こなしもそう。この家にどういう訳か傑の存在はしっくりきた。昨日が初めましての傑なのに、傑がどこにいてもそれはいつか僕が見た傑の姿であるかのようだった。僕の目に映る傑の姿、話し方、声色、こう言えばこう返るかもしれない想像が、それほど大差なく実現する。
お前は、僕が見ている幻なんだろうか。
「おまたせ。待っててくれたみたいで、悪いね。起こしてくれたらよかったのに」
「めんどくせ」
「はは、それもそうか」
僕の言い草に気を悪くするでもなく、傑は笑った。お前、オマエは、どうして。
「何で僕のところに来たの?」
ナイフとフォークを構えていた傑が動きを止めた。僕をしっかり見据えてくる。
「迷惑だったかな」
「僕が聞いてるんだけど」
「雨宿りだよ」
「他にもあるだろ、方法なんて」
「これを、頂いたら出ていくから」
「そんなこと言ってねえ」
「…ごめん」
「何だよ。ごめんて」
言い合いがしたいわけじゃなかった。なのに上手い言葉を吐き出せない。どう言えばいいのか分からない。そこで僕は気付く。僕は、どう思っているのだろうと。心が分からないのに、正しい言葉を吐き出せるわけがなかった。
「謝るのは僕か」
思わず溜息が零れた。ひとりじゃ決して零れなかった。僕の心を揺らす存在。オマエはそれなのか。
「ダメだね、私は。こんなに意気地なしだったとは」
「はあ?」
「あのね、悟」
何やら決意を孕んだ傑の瞳に、情けなくも僕は怯んだ。言われる前に言わなければ。言えなくなる前に。そんなことを思った。
「雨、止まねえし。今日も泊っていけよ」
「君が、望むなら」
「何その返し」
「ここは君の家だ」
「オマエはどうしたいんだって聞いてんだけど」
「私は、ずっとここにいたい」
「…ずっと?」
僕は自分が今どういう表情をしているのか分からなかった。傑も、それがどういう感情を表しているのか読み取れない。無表情。でも僕を見据える瞳だけが、やけに強い。だから。騙されそうになるんだ。
「…それは、ぜってえ違うだろ」
「どうして?」
「ずっとなんて先のことが誰に分かんだよ。出ていきたくなったら黙っていくだろうが」
「それはそうだね」
僕はぐっと息を飲んだが、傑の眼差しに負けじと立ち向かう。
「なら私も聞くけれど、君が出ていけと言うかもしれない」
「ねえよ」
「先のことが誰に分かると、君が言ったんだぞ」
「俺自身のことなら分かるって言ったんだ!」
「私だって同じだよ。私は君を求めてここに来たんだ。君が心底私を否定しない限り、私はここにいる」
そこで、僕の言葉は打ち止めになった。傑も何も言わない。フレンチトーストが早く食えと言っている気がして舌打ちする。それを勘違いしやがった傑がぶすっとむくれた。
「くそ。なんでこうなる」
「まったくね」
「食おうぜ」
「賛成」
昨日、早々に思ったが、傑の一口はデカイ。厚めに切ったトーストがみるみる消えていく。
「オマエ、ちゃんと噛んでる?」
「噛んでるよ。美味しいね」
「あっそ」
「甘いのは得意じゃないけど」
「…知るか」
その顔がマズイ演技だっていうなら、驚きだ。
半年程、経っただろうか。雨宿りをさせてくれと転がり込んできた傑は、いまもまだ、ここにいる。僕の隣で本を読んでいる。しゃべりだすと煩いが、静かな傑もそれはそれでちょっかいをかけたくなるというか。今読んでいるのは漫画だから、きっと怒られはしない。怒ったって別にいいけど。
「悟、言いたことがあるなら言って」
「僕が今何を考えてるか、当ててほしい」
傑が本から顔を上げた。僕を見る。よし乗ってこいと期待を込めるまでもなく、傑はにやりと唇を歪めてドヤ顔になった。
「遊んでほしいんだろ?」
「正ッ解!」
簡単すぎたな。でも多分、オマエだからだ。
「何しようか」
「オマエがしたいやつ」
「…悟は何がしたい?」
「だから。オマエがしたいやつだって」
決して、意見がないわけじゃない。傑任せではあるが、それが僕のしたいことであるのは事実だ。こう言うと、傑は決まって少し黙る。僕をじっと見て、怒るか詰るかさてどうしようかと決めているのだろう。オマエだって僕がしたいことをしたいくせに。そう、言うくせに。
「悟、考えて。私と何がしたいか」
「またそれかよ」
「私は…」
それきり、傑は黙ってしまった。今日はちょっと無理っぽい。そういう日になっただけ。僕はキッチンに逃げて、ココアを作った。傑には珈琲を淹れた。言葉はもういい。こうなることは一度や二度じゃない。僕は、窓の外を見る。雨はいつだって降っている。
傑も、僕の隣でまた漫画を読み始めた。
今日の食事当番は、傑だ。もう少ししたら、カレーが食べたいと言ってみよう。傑のカレーは三日かかるらしい。だから、三日後のリクエストだ。今夜のことなんて知らない。
傑も僕に付き合って、外を眺めることがある。強要はしていない。傑の意思だ。
「良い感じに降ってるだろ?」
「良い感じって?」
「あー、良い感じ、しねえ?」
理由なく好きな僕の感想に、意味を持たせることはできそうにない。言葉を知らない子供みたいに思われただろうか。でも、僕は生活の大半を雨を見ることに費やしている。家主は僕だけど、傑の方が余程動き回っている。じっとしていられない性質なんだろう。掃除洗濯、スイーツ作り。それら時間潰しが傑の苦にならないことを、僕は密かに望んでいる。
「雨、好きなんだね」
「ああ」
「私も嫌いじゃないよ」
「滅入るなら正直に言っていいぜ?つっても僕が天気をどうこうできるわけじゃないけど」
「ひとりだったなら滅入っていたかもしれないけどね」
「…ふーん」
僕は、オマエが来る前から、断然雨が好きだった。濡れることがじゃない。眺めることがだ。僕には、雨があればよかった。雨と暮らしていきたかったのかもしれない。
「オマエってさ、趣味とかある?」
「趣味?筋トレかな」
「したいなら使えよ」
「あるんだ」
「あったはず」
僕の家は広い。ひとり暮らしであろうが、いや、だからこそ、好きな家に住んでいる。誰に文句を言われるでなし、言われる筋合いもない。開かずの間になっていた一部屋を傑に紹介した。そういえば昔は僕も体を鍛えていた。今はやめてしまったが、腹筋はしっかり割れている。傑も良いガタイをしてるから、筋トレのノウハウは知っているだろう。
「へえ、一通り揃ってるんだね。ちょっと燃えてきた」
「お、筋肉バカの血が騒いじゃった?」
「そこまでじゃない」
ウキウキと部屋に踏み込んでいった傑を見送って、僕はソファに戻った。存分に仕上げてくれと思いながら、窓の外を眺める。口角が上がっている自覚があった。傑が楽しそうだと、僕はとても気分が良くなる。不思議に思わなくもないが、深く考えることはしない。ここではそういうことはしなくていいと思ってる。僕は、もう。
「君の趣味は?」
「趣味ねえ」
当然、僕も聞かれるだろうとは思って、一応心の中を探ってみたが、ないという答えしかなかった。趣味はない。強いて言うなら雨を眺めること。ここでは不自由はなく、不満もない。煩い声も音も聞こえない。じゃあ、何が僕の心を満たしているのか。そも、満たされることは重要だろうか。必須事項か。心が空っぽであったって、不純物の一切がない証拠だとしたら、それは良いことじゃないのか。満たされていた時を忘れている?今、僕の心には何があるんだろう。
掴めなかった。僕は僕の心の状態が把握できない。
ならば、僕が感じているこの平穏は、居心地の良さは、実は全部、幻なんだろうか。
「一緒にやろうよ、筋トレ」
「何でよ」
「張り合い?」
「ま、いいけど」
傑に誘われるまま、久しぶりにランニングマシンに乗った。永遠と走れそうで何だかなあと思う。横で同じく走ってる傑も二十四時間走れますみたいに軽やかだ。互いに汗は掻いているけれど。
「何か賭けるか」
「いいね」
「負けた方がチャーシューを作る」
「なにそれ面白そう、私挑戦したい」
「…賭けにならねえ」
傑が笑う。僕も笑った。僕たちは交互にシャワーを浴びて、一緒にチャーシューを作ることにした。
ふと、傑の視線を感じ取る時がある。振り向くと目が合う。そんな時、傑はばつが悪そうにしたり、瞬きひとつを残して何でもないみたいに読書に戻ったり、何か飲まない?と聞いてきたりする。わざと、視線に気づかないふりをしても、中々に傑は諦めなくて、なのに何を言うでもなかったりする。言いたいことがあるなら言えというのが僕の信条なのに、傑に関してはそうじゃない。僕も視線を返す。話すことは何もない。見つめ合うだけ。にらめっこでもいい。軽く笑って、離れるでもいい。そこに傑がいるなら、傑が何をしても構わない。僕の応えが欲しいならいくらでも。おもちゃを手にして学ぶこどものように、オマエの興味が僕は欲しい。
そう考えるようになった。だからだろう、視線に気づくまでもなく、僕は傑を探すようになった。傑が今どこにいるのか、筋トレルームか、キッチンか、それとも上で午睡だろうかと、僕が傑を探すようになった。態度には出さない。僕はソファの定位置で雨の庭を眺める。五感で傑を感じながら、だらりと身体を伸ばすのだ。
傑、傑、と、僕の心はいつだってオマエを呼ぶようになった。理由は、ない。理由なく雨が好きなことと同じ。
傑が好きだ。
「あーあ」
「どうした?」
「…聞いてんじゃねえよ」
「隣でそれは無理があるな」
「それはそう」
雨は、いつだって目の前に降る。でもオマエは、いつだって僕の隣にいるわけじゃない。
傑、オマエはいつまで、ここにいるんだろう。
夜中、目が覚めた。寝つきも寝起きも良い僕は、夜中に目が覚めるなんて滅多にない。理由は分かっている。僕はベッドを抜け出した。流石に隣で抜くわけにはいかない。家主権限で遠慮なくやっちまおうかとも思ったが、羞恥が勝った。それと、焦燥。そういう言葉は一瞬だけでも思い浮かべるだけで気が重くなる。僕は小さく溜息をついて下へ降りた。
僕は、傑というオカズを得てしまった。そういえば、性欲はどこかに落としてきたのかというくらい、その点においては不健康そのものだった。そんな僕を、今更どっかの誰かが憐れにでも思ったか。
「…すぐるっ」
このトイレで初めて出した。傑にバレたら怒りと軽蔑でドン引かれそうだ。
一年が経ち、二年が経った。傑との生活は続いている。殴り合ったりすることはないが、言い合いは茶飯事だ。それでも傑は出ていかない。僕も出ていけなんて言えやしなくて、そうやって日々は過ぎていく。
「九十九年、まじでやっちまったな」
僕はゲームのコントローラーを放り出して、腕を伸ばした。首を鳴らす。隣の傑は半分寝ているようなもんだった。目が開いていない。僕も欠伸をして目を擦った。窓の外は霧雨だ。
傑がぽつりと零した。疲れたけど前よりは楽しかった、と。
「げえ!オマエ経験者?!」
「あの時はまじ死んだ」
「根気ある奴がいたもんだな。誰だよ。オマエの何」
オマエが僕の関わらない思い出を、他人を語った。こんなに一緒に暮らしているのに初めて聞かされた気がする。ここには僕とオマエしかいなくて、僕はひとりでも構わないし、実際ひとりだけど、オマエもそうだとは限らなかった。
「なあ」
「君だ」
「…は?」
「やったかもしれないだろ、君と」
傑の姿が一瞬ブレた。僕は瞬く。思い出す。僕は、傑が何者であるかを知らない。
「すぐる」
「流石に眠いよ、いこう。悟」
傑はよたよたと上への階段を登っていく。途中でへばっても僕がベッドまで運んでやるから。重いに決まってるけど転がしてやるから。そう心で呟く間に、傑の姿は消えた。ボフンとベッドにダイブした音が聞こえる。僕も後を追いかけた。いや、オマエ、向きがおかしいって。ここまで来れたなら平行に倒れろよと、僕は傑の体を持ち上げて、壁際に転がした。隣に僕も転がる。傑の寝顔を見つめた。隈はない。痩せてもいない。九十九年の疲労を癒すように、気持ちよさそうに眠っている。
ふと思い当たり、ヘアゴムを取ってやろうとした僕の腕は、空中で止まってしまった。何故なら。
「…まじかよ」
傑の髪が短いのだ。頭のテッペンで団子にまとめていたはずだ。もしくはハーフアップ。いつもそうだった。最初からそうだった。それが今は、僕とあまり変わらない短髪だった。
傑に触れたくて仕方がなかった。雨を眺める僕の隣に座って、本を読む傑の手に、髪に、頬に、触れたくてたまらなかった。理由はない。好きだからとしか。何故も、どうしても分からない。
触れれば、傑は出ていくだろう。
でも触れなければ、傑はここから出られない。
「どうして、来たんだよ」
僕は、雨ばかりを傑の目に映してしまった。オマエが見たいのは、僕が見せたいのは、雨じゃない。
僕はいつまでも見ていられるのだ。雨も。オマエも。好きだから。傑、オマエが。
「傑」
「…さとる?もしかして、寝てないのか?」
ぱしぱしと瞬きをしながら、傑がむにゃむにゃ言う。もう八時間は寝てるから起こしたまでだ。起きたなら言いたいことがあった。だから言う。
「傑、どうしてここへ来た。何かから逃げてる?僕はオマエを帰さないよ。気付いてるはずだ」
「…何、急に」
「ヘアゴム。寝る時邪魔だろうと思って取ってやった」
僕はヘアゴムを掌に乗せ傑に差し出した。恐らく、傑の目にヘアゴムは映っていない。掌を一瞥し、傑が僕を見る。
「私の髪、どう見えてる」
「腰まで伸びてる、今は」
「今日はハーフアップにしようかな」
穏やかに僕を見つめながらそんなことを言った。
「団子もするよな」
「その日の気分でね。悟は短いから直面しない問題だろうけど」
「僕だってその日の気分でコーディネートしてますー」
とはいうものの、実際僕は着れればいいとしか考えていない。趣味もなければ、好みさえないも同然。
「君、白が似合うね」
「オマエは黒だな」
傑はゆったりめの服装が好きだとふんでいる。僕も好きだ。厚みは違うけど、身長はそれほど変わらないからシェアできて楽しい。僕だって黒も似合ってると思う。オマエの白も良い。
「帰りたくねえの?」
「…どこに?最初に言ったね。私は、ここにいたいって」
「それは、オマエにとって何か都合がいいことでもあるから?」
言い淀む傑を僕だって問い詰めたくはない。でも僕は知りたかった。このまま傑となあなあで、安穏と暮らしていくことはしたくなかった。知らなければいけないと思うんだ。オマエのことを。オマエがどうして、ここへ来たのか。オマエがここへ来た意味を掴みたかった。僕の未来がまたひとりでこの大好きな雨を眺める日々に戻ろうとも。オマエを追い出すことになったって。
オマエを繋ぎ止めてしまった。
上手く息が吸えなくなりそうで、僕は彷徨わせた指先を傑の耳朶へ着地させた。喘ぐように口を開く。
「このピアスもほんとはしてねえな?」
「してないよ」
「ははっ、これだけくっきり見えてんのにな」
僕には、傑の魂が見える。この目には本当に目にしたいものが映っている。知っている。知らないけど知っている。オマエが僕にとっての何者なのか。理由は必要ない。ただ、ただ。傍にいてほしい。
そして、もっと。
僕が欲しいのは。
「…とりあえず、何か食うか」
「…ソーメンにしよう。実は九十八年あたりで決めていたんだ。ツナ缶あるだろ。それとナス」
「オマエ、ナス好きね」
「ここに来てから、好きになったんだ」
僕も好きだけど。
傑と抱き合う夢を見る。傑は、僕に笑ってくれる。僕も疑わずに。夢の中ではそれが普通で、でも起きたら当然、それはとんでもない夢になる。初めて傑で抜いた日の朝、僕はきっとぎこちなかった。傑は何も言わなかったけれど。言えなかったのかもしれないけれど。でも、夢を重ねる程、罪悪感は薄れていく。慣れてしまう。目が覚めて、思わず隣で眠る傑を抱き寄せそうになって踏み留まる。一度寝ぼけたフリで抱き着いてみようかと本気で考えたりして。性欲は夢で発散できた。起きている間、傑に手が出ることはない。抑えているわけでもない。僕の隣に傑がいる。それを何百日積み重ねても、僕に飽きる日はこないだろう。ここは僕の城だ。僕がキング。
傑が入れてくれるようになったココアに、時折、マシュマロが浮いていることがあって、何故かと聞くと、気分だという。ここに傑を囲っていれば、傑の思考に僕という存在が入り込む。高揚と、焦燥。喜びを感じる。同時に、傑を閉じ込めている事実が苦しい。
この話をはじめようとすると、何故か僕たちは言い合いになって結論が出せない。僕は出ていけとは言わないし、傑も出ていくとは言わない。
「悟、おやつ何にする?ケーキかアイス、大福もあるな、それから」
「ミックスジュース」
「…作れって?」
「うん。全部食う」
「…了解」
僕は手伝わない。今週は傑がおやつ当番だ。外の雨は今日はずっと小降りだ。止まないでほしい。止めば傑が出ていってしまうかもしれない。傑はここで雨宿りをしている身だ。何より、雨が止んだら、僕は何をすればいい?
ずっといるなんて、おかしなことだ。
ずっといたいなんて、それには理由が必要だ。
僕は理由を持たずにいられるけど、傑は違う。
だから、言い合いになるんだ。いつも。
「傑」
「んー」
ジンジャークッキーを食べている傑に言う。
「晴れたら出ていくだろ」
クッキーを咀嚼して、飲み込んで、それから、傑が何やら深呼吸をした。聞いてしまったくせに僕は早速後悔する。いよいよだ。今日、いや、今日は引き留めて明日だ、明日、僕はオマエを、送り出すのかもしれない。
「悟、これまでこの手の話を私たちが最後までできた試しがない。だから、今日こそ私の気持ちを最後まで聞いてほしい。それでどうなるのかは、君次第だ。君に責任を押し付けているわけじゃない。でもどうしたってここは君の城なんだ。私にできることは、君に伝えることだけ。決めるのは君だ。分かっているだろうけど」
傑はゆっくりそう話した。僕は一音一音、傑の言葉を脳に刻みつけた。良い声だと、一番初めに思った。笑うと可愛くて、怒ると怖くて、寝起きのおはようは小さな子供みたいで、僕は本当に大好きだと思う。
「ここに、君がひとりで住んでいると聞いたんだ。年中雨が降っていると。私はここを素通りすることもできたけど。でも、できるわけがなかった。君がいると聞いたんだ。会いたかった。昔、私たちは親友だったかもしれない、なら、友を訪ねたって罰は当たらないだろうと。私の罪がそれを許さないのならそれでもいいんだ。会いに行かずにはいられなかった」
傑の声は凪いでいる。感情に乏しい僕が言うのも何だが、もっとこう、力説してほしいものだ。そうすれば、望みはあるのだと思って、聞いていられるのに。
「そうしたら、あっさり君は招いてくれた。嬉しかったんだよ。本当に」
「そうは見えなかったけどな」
「もっと覚悟を決めておくべきだった」
僕の胸がきゅうと傷んだ。何だそれはと、声にすればまた言い合いになる。僕は唇を噛み締めた。出ていきたくなったということだ。やっぱりそう。それが、普通だ。
「君の傍にいたいと告げる覚悟が、初めから私は足りなかった。君の都合なんて知らないと言える勇気も」
「…それがあったら、オマエは出ていかなかったとでも」
そこで傑が僕を見た。あんなに淡々と話していたのに、その顔は何だか泣き出しそうに見えた。泣き出しそうなのは僕で、僕は、都合のいい傑を見ているのかもしれない。
「ひとつ、賭けをさせてほしい」
「…わかった」
「明日、ここを出ていくよ」
覚悟と、勇気。オマエにさえ持てないものを、僕が持てるだろうか。
それからは、いつもの僕たちだった。最後の晩餐は、何だったっけ。同じベッドで眠って、翌朝、フレンチトーストを一緒に作って食べた。僕は泣きそうだというのに、傑はいつも通りだった。鼻歌を歌いながら牛乳と砂糖を掻き混ぜていたし、オレンジを添えようとか言い出して倉庫に走っていった。初めて甘い珈琲を淹れてくれて、最後になんてものを飲ませるんだと、全然いつも通りじゃないと気付いた。そういえば傑の入れてくれるココアは最初から甘かったな。
傑が行ってしまう。
傑がいなくなってしまう。
僕の隣に、傑がいた日常が、もうすぐ終わってしまう。
外を見た。いつも見ていたのに忘れていた。雨が降っている。僕の庭。ひとりでも平気だったのに。
覚悟と勇気を持ってもいいのだと、傑は言った。
傲慢じゃないだろうか。
僕は傑を解放したかったはずだ。
拳を握る。
「じゃあ、悟」
傑が前を向いた。
「世話になった。…またね」
傑が何か言っているけど、上手く聞き取れない。僕は傑の背を見つめている。雨は止まないのに出ていこうとしている。濡れたら風邪をひく。ここにいればいいのに。ここにいたいと言ったのに。嘘だったのか。違う、傑は嘘は言ってない。あれが嘘だというなら、嘘にしてしまうのは、この僕じゃないのか。
僕がここにいる理由。
傑を招いて、暮らした意味。
ここにいたいと傑は言ってくれた。
「傑」
呼び止めて、僕は一歩一歩、傑の背に近づいた。傑は動かない。ドアの向こうは雨だけれど、傑の進路は塞いでいない。傑は振り向かない。知っている。だから僕は。
僕は、その腕を掴んだ。
「俺も一緒に行く」
振り返った傑が僕を見る。目を合わせる。頷いてくれと思った。かつてないほどの動悸。指に力が篭る。傑、と、口にするまでに心が叫んでいる。傑の唇がゆっくりと開いて、ああ、と、零れた声は少し震えていた。静かに笑っている。僕も溜息を零すように笑った。ありがとうと、随分小さな声で傑が言う。礼なんて要らない。僕はオマエに何もしていない。ひとつ言えるのは、僕に会いに来てくれてありがとうということ。そして、実はオマエ、寂しんぼだろっていうことだ。僕は見て見ぬふりをする。じゃなきゃ、その内側に引き込まれた唇に、食らいついてしまいそうだから。
賭けの勝者は傑なのだろう。傑の刻が、僕を連れて動き出している。
人生に於いて、僕は二度、傑に挑まれ、二度とも負けた。一度目の勝敗は僕たちの袂を分けたけど、二度目は違う。
傑がいる。俺の隣に。
僕の庭に、光が差していた。太陽だった。陽の光。僕が目を細めると傑も手をかざしていた。そして、とんでもないセリフを吐いた。僕が一瞬ぽかんとしてしまうくらいの。
君は私の太陽だよ、って。
「…く、くっせえことを急に言うんじゃねえ!」
「…金輪際言わないから安心しろ」
「いやダメだ、こっち向け。見せろ、恥ずかしがってる顔を」
傑は思い切り横を向いて目まで閉じている。ほんのり赤い頬。後悔しているんだろう。僕だって同じ色になってるのにな。馬鹿な傑。分かってねえな。その頬、今なら僕に噛みつかれ放題だ。
「出かけるには打って付けだな」
「ああ」
晴れたのはいつぶりだろう。思い出せない。僕たちの仲の良さが齎したのかもよと宣ってみると、傑の目には、ずっと晴れていたのだという。驚いた。そこもかよと、僕は誰にでもなく突っ込んだ。
僕と傑とでは見えているものが違う。離れる理由は尽きない。いくらでも沸き起こる。でもそんな中で、それでも一緒に歩いて共に眠る僕たちがいるかもしれない。
今度こそ。
この僕と傑のように。