GODDESS 傑との身長差は十センチ、十センチ低い位置にある瞼に目をやると、視線を感じてくれた眼が僕を見上げる。0.2秒だけその色香に酔ってから、僕は言う。
「お手柔らかにね、傑」
「善処しよう」
世界一の戦闘狂みたいに笑って傑が飛び立つ。今日は髪をおろしているから爽やかな良い匂いが鼻孔を擽った。胸いっぱいに吸い込みながら、凛と立つ姿を見送る。その身に漲る呪力の滑らかさには全く以って惚れ惚れする。昔の僕のお手本だった。爆発寸前にまで高められた純度に釣られるように興奮する。僕が死ぬ時はこれを目一杯浴びて逝きたいと思う。最高の死に方だ。お前ら呪詛師が羨ましいくらい。
無下限呪術と呪霊操術、階級は最上位、健康な肉体を持ち、男と女である僕たちは、呪術界においては御誂え向きだ。ベタもベタ。唯一無二で無敵で最強。その通り。
僕の出自と比べた時、傑の身分が底辺にあろうとも、この僕が男で傑が女であることと、そして傑自身が知らしめてきた実力が蹴散らしてお釣りがくる。肩書がデカイのは事実だしどうしようもない。度胸もメガ級。
全ては己独りで事足りる僕たちが、ただの悟と傑になれたことは運命でもなんでもない。興味ない。僕は傑がいとおしくて仕方がない
『はっ!最高傑作を授かってやろうじゃないか。悟、君も気合を入れろ』
『ははっ!オーケイまかせろ!』
傑は僕の女神だ。そう言ったら狂ったみたいに爆笑された。腑に落ちない。
ツーカー、それはそう。僕たちはこの世の双璧、呪術師だ。妻であり夫である前に仲間。
呪胎の変態、と同時に待機場所から転げるように走ってきた補助監督。叫ばれたSOS。驚きに目を見開いた傑。罠が、裏で同時進行していたのだと、僕たちは同時に理解した。魂が引きつる。上層部の遣り口に怒りよりも先に傷つかざるを得ない傑は、まだまだ甘い。
「悟!」と傑が僕を呼ぶに合わせ、視線を交わす。意思疎通は刹那で十分。僕が陣を書き終えると同時に、俊足を飛ばしてきた傑が中へ滑り込んだ。僕は両の手を打ち合わせ、傑を凶行の場へと送る。
珍しく僕たちを一か所に留め置いたかと思えばそういうことだった。くそやろうと思わずの呪詛が零れる。僕たちへの嫌がらせを人生の生き甲斐にしている老害どもはマジで呪霊よりも性質が悪い。僕が傑を宥めておけるのも時間の問題だ。まあ、傑が爆発する前に僕が爆発するんだけど。そうなると、傑なら強烈なデコピンで済ますだろうが、僕は心臓ぶち抜くから。
傑の甘ったれた甘さはどうしようもない。愚かで、だけど僕の胸はいとおしい時みたいに締め付けられる。だから僕が守る。元気いっぱい怒り散らかす傑の隣で、僕は傑の魂を守っていく。
傑の甘さに付け込んで手折ってみろ。僕はお前たちを狩り殺してやる。
廊下を曲がる。傑が歩いている。可愛いうなじ。柔らかくて甘いことを僕は知ってる。唇を舐めてしまいなら僕はそうっと駆け寄って、呼びかけざま、傑の顔を覗き込んだ。少しびっくりした様子で傑が僕を見上げる。
「早かったね、悟」
「予想上回った?」
「上回った」
「よし」
喜ぶ僕を見て傑が笑う。可愛い。僕の傑。びっくり成功。これで後は直帰できたら言うことないんだけどな。
「さて、じゃあ次の現場行ってくるね」
「気を付けて」
「傑もね」
「ん」
傑の額にキスを落とす。唇で計った体温は平熱だ。問題なし。傑は僕より体温が高い。いつも温かくて冬は暖を取れる。夏はだからひっつくと怒られるけど、めげる僕じゃない。離れる代わりにキスを強請れる。一種のギャンブル。僕は傑に溺れている。
昔、傑は僕からの不意打ちのキスに、照れたり怒ったりしていたけれど、今は違う。夫婦という肩書には、僕が思う以上の効力があった。単に形式上、傑を手に入れたというだけじゃない。それまでよりずっと、傑が心を寄せてくれた気がしている。多分、結婚前まで傑がよく口にしていたけじめというやつだろう。言葉は堅苦しいけど、触れたいとか、キスしたいとか、抱き締めたいとか、そういうことに傑は寛大になった。
今もさっと周囲を確認して、ささっと僕の頬にキスをくれた。それからお菓子じゃなくちゃんとご飯を食べてよって、お願いされる。実行するかは別として、僕は元気にオーケイを返すのだ。
オクラとナス、パプリカ、ベーコンを買った。ペペロンチーノを山盛り作って皿に盛る。デザートは牛乳かんをデカめに、僕用の練乳を添えて。ビールはキンキン、コーラもバッチリ。時間がなくて用意できたのはこれだけだ。何せ知ったのは昨日。
昨日、僕はとあるCMに目をとめた。そのキャッチコピーを耳にした途端、僕は何というか、軽く興奮した。出張中の傑は家にいなくて、別に隣にいたっていいんだけど、僕は高速で頭を回転させた。傑がいない内に考えなくちゃ、みたいな?驚かせようっていうか、いや違うな、伝えたくなった。
僕は日々、本当に、傑がいとおしくて仕方がない。結婚して十年。ケンカはなくならないし、意見がぶつかることも昔ほどじゃないけどないわけじゃない。腹も立つし口をきかなくなることもある。でももうそれさえも僕は、傑が僕の宝物である証左として胸に染みて終わる。
「ただいまー!」
「おかえり、傑~」
「うわあ、良い匂い!美味しそう~!悟の手料理久しぶり!」
はしゃぐ傑。僕の女神。いとおしい。僕の息の根を止めるのは、時間でも病でもなく、オマエの手であってほしい。
「傑」
「ん?」
よだれが幻視できそうな傑の崩れた顔に笑いながら、僕は正面から抱き締めた。
「愛してる」
「…へ?」
この言葉を声に乗せるのは久しぶりだ。僕は「好き」を沢山言うのが好きだから。
黙る傑。照れているようだった。
「あはは、可愛い」
「ア、アラサーに向かって君」
「可愛いよ」
ポポポと頬を染めていく傑。伏せられた瞼に唇を置く。こめかみにもキスを。顎を持ち上ると、ちゅっと傑からキスしてくれた。
僕と傑の身長差は出会った時から変わらない。十センチ。この隔たりさえもがいとおしい。冗談みたいに細い手首に吸い付くのが好きだ。しなやかな尻とすべすべの背中も良い。胸はこの世のどんなものよりも柔らかくて、熱い胎と体臭は僕をメロメロに狂わせる。全部僕のものだ。その目も、涙も、甘い肌全部。
僕の永遠の伴侶、魂の番、夏油傑へ向けて、僕は。
プロポーズアゲイン。
十年前に発した言葉をもう一度、心を込めて贈った。
「まだまだ、幸せにするね」
「…負けないよ」
「うん」
「…ニンニク、いっぱい入れてくれた?」
「もちろん」
ペペロンチーノに意識を持っていこうとする傑の前で、僕はテーブルに用意していた四角い箱を捧げ持つ。
「…ゆ、指輪も買ったの?!」
顔を引きつらせる傑に、僕は満面の笑みを披露した。
*
生粋の庶民、一般家庭出身の私では、五条家当主、五条悟とは釣り合わない。それがどうした。
生粋の呪術師であり、連綿と受け継がれてきた最強の呪いの血を引く至宝、五条悟が、他者を本気で愛せると思っているのか。知ったことではない。
妻であっても、お前の価値は、その胎にのみあるのだから決して驕るなかれ。
つまるところ怖いのだ。私が。呪霊操術を術式に持ち、五条悟に愛されている私が。能力でも権力でも何一つ私を屈服させられないものだから。
大層な身分と歴史を背負おうと、総じて皆小物だなと思った。そのくせ、悪知恵だけは年中無休で働く。それこそ一般市民の私などでは想像も及ばないようなことが突然身の回りで勃発する。もはや嫌がらせというレベルじゃない。弱者の命を食い物にした私潰し、何ならついでに悟も潰せれば重畳というような。腐ったミカンとは悟の表現だ。ほんとそう。
私は、愚者には死を望む。無知ゆえの傲慢、非術師という猿だ。彼ら愚者を、私の手で、死へ追いやることが、私の生まれた意味だと考えた時がある。猿を生存させることが耐え難かった時が。
私は、悟を殺したかった。私になら、出来るんじゃないかと思った。だって悟は私を愛しているから。悟さえいなければ私は私のやりたいように生きていける。生きていくべきだと考えた。私は強い。悟には及ばずともその次に、私は強い。
愚者には死を。
愛してる、傑。
私を抱く時、悟は愛してると繰り返す。普段の、好き、可愛い、大好きと、無邪気に私を構う悟はいなくなる。私の腰を痣が残る程強く掴み、指が折れる程に握り込み、瞳は、私を射抜いているはずなのに、目が合っているという気がしない。私の胸元に額を埋め、愛してると、ひたすらにその言葉を血を吐くように私へ打ち込む。私の胎へ存分に精を放っても抜かずに次へと誘われる。慈しみなんてないような苛烈な行為。君が抱いているのは私なのに、君は誰を見ているのかと拗ねたくなる。
私を見て、私を欲しがって。私だけを、もっと。
私は人一倍、欲深い。
悟は、そんな私を選んだ。私も悟を選んだ。抱き合う時、肩書なんて服と一緒に脱ぎ捨てている。それでも、私たちの体には術式が刻まれていて、悟は私の胎を使い、私もそれを許している。私を抱かなければ死んでしまうみたいに悟は私を求める。なんて弱い。まるで生きる為のセックス。私は事実、悟を殺せるだろう。だって悟が望んだら、私に否やはない。
『なあ、もっと強くぎゅってして。オマエの呪力擦り付けてよ。俺が、オマエの中に、こう、するみたいに』
恍惚とした悟の顔は死に顔みたいに見えるけど、その時は私だってそういう顔をしているに違いない。
私がいなければ、悟はもっともっと、強くて冷たくて硬くて孤高の何者かに成っていただろう。私の憧れる王子様みたいな男に。
憧れと愛情は違う。私は、王子様じゃなくて、いとおしい人を手に入れた。いずれこの世の頂きに君臨する男を。替えのきかない世界の歯車を。
私には胎がある。最強のカードだ。悟を溺れさせる為のもの。私は安堵していた。嬉しかった。私にはこれがある。私は愛した男を手に入れることができるのだと。
人でありながら、怪物であり、兵器と同時に、人である。そんな人間は確かに彼ひとりだ。その孤高を憐れみ、力に同情することは自由だけれど、私は違う。彼は人だ。そして、怪物。兵器だ。どの彼も愛している。いくらでも二つ名をつけたらいい。彼は人として私を愛し、怪物として私に寄り添い、兵器としてのボタンを私に託している。
畏れるなら私を。
異形の悟に向かう愚かしい感情は、この私がのみ込んでやる。
甘えたで、無垢な悟。彼を染めるようなことは私が許さない。
悟がいなければ、私は生きてはいかない。世界を捨てる。愛した人がいて、その人が傍にいないのならば、生きていても仕方がない。悟と出会わなければそんな思考も生まれなかっただろう。だから私は。
悟を傷つける全てに牙を剥こう。彼を損なわせるものを許さない。彼の神経を逆なでる輩は片っ端から潰してやる。
悟を愛している。私が守る。
私は生きたい。
『これって、君を利用していることになるのかな』
『なるかよ。オマエらしいわ』
悟に仇をなす腐ったミカンは何よりも万死に値する。猿など目じゃない。罪は重い。だから猿は弱者に格上だ。
弱者には罰を。
愚者には死を。
強者には。
悟、私の悟には。