綿となりとて 最期くらい、呪いの言葉を吐けよ。
そう呟いた傑の顔は笑っていた。仕方がないなっていうような、昔、よく見た笑顔──。
十年ぶりにくらったそれは、中腰体勢だった僕の鍛えている体幹なんてこんにゃくにしちゃうような笑顔だった。
(傑…)
ああ、傑。こんなに近くでオマエを見るの、久しぶりだ。あれから十年?長いようで、でも今となっちゃ、あっという間だったかな。
僕はお前に何も言えなかった。追いかけて探して、僕に話すことなんてオマエにはもうなかったとしても、僕にも言えることなんてなかったとしても、顔を突き合わせばよかったと思う。頭であれこれ考えて、無駄だ何だと納得して決めつけて諦めて──何も行動しないことこそ一番やっちゃいけないことだったと。
例え、オマエの道行きが変わることにはならなくても、僕とオマエの間に降り積もった十年分の言葉というものがあったなら、今この時に、何かを成したかもしれないのに。
あの日、オマエに向けた僕の指先はポーズでしかなかったと僕はよくよく実感した。オマエ以外を皆殺しにしてやろうかと、そこに縋ったのかもしれない。オマエの覚悟に追いつけなかった。オマエを殺すことはできなかった。
びっくりするだろうけどさ、いや、信じてもらえないか。僕はオマエのことをどうやら好きになっちゃったんだよね。よく言うじゃん、失って初めて気づくってやつ。恋心、執着心、性欲、征服欲、どれもこれもひっくるめて言葉にならないモン全部ひっくるめて、夏油傑っていう男に対する底知れない感情が、生まれたんだ。
オマエが去ってから一年くらい、物凄く荒れてさ。初めて部屋の中ぐっちゃぐちゃにしたな。片すのも面倒だからすぐ引っ越した。オマエの寮部屋も綺麗にかっ攫われて俺が置きっぱにしてたゲームや漫画本、おやつとか全部没収された。俺のだっていうのに。オマエがいた痕跡が一切合切なくなった。
俺は過去を振り返るなんてしたことがなかったし、忘れるならそれだけのものだって思ってたから、そうやってオマエのことも忘れていくのかもしれないなんて、気付いた時にぞっとした。オマエはもういないんだってことを受け入れない限り、付きまとうだろう恐怖。そんなものをまさかオマエが俺に寄こすなんて餞別にしちゃ性質が悪ぃ。でもそのお陰で腑に落ちた。俺はオマエを失ったんだと。
如何にして、喪失に足るほどの俺にとってのオマエになったのか、記憶力抜群の俺はこんなことにならなきゃ発揮しなかったくらい、オマエと過ごした日々を思い返してみた。自分で自分の頭の良さに惚れ直したね。流石俺。無自覚だったとはいえ、俺の行動にはちゃんと理由があった。当然だけど。
オマエ、携帯で撮った写真とかどうした?消しただろ。俺は残してるよ。きっとオマエは捨てるだろうなって思って。図星?別に見返したりなんてしねえけど、俺はオマエの恥ずかしい青春時代を握ってるってこと。ざまあ──。オマエさ、俺がオマエを隠し撮りしてたって、知ってる?知らねえよな?したんだよなあ、実は。一、二回。気になる?ならねえ?怒りそうだよな。沸点低いもんな、オマエ。そうだから、何で俺がそんなことしたかっていうと──。俺、オマエと手を繋ごうとした時がある。不発に終わってるけどあった。繋いでみてえなって。組手とか、戦闘中のアシストなんかは別だぜ?オマエに触りたいと思ったことがあった。オマエを感じてみたいと。オマエのそういうの、俺は知らなかったから。オマエのことは何でも知ってみたかった。オマエだって断らない自信まであった。断る理由なんてないだろうって。後悔してる、実行しなかったこと。躊躇なんてしてなかった。不発に終わったのは、何ていうか、勿体ぶっちまった。最後まで大切にとっておくお気に入りのデザートみたいに、俺は、繋ぎたい、触れたい、感じたいっていう感情に、浸っている最中だった。オマエがいなくなるなんて当時の俺が考え付くはずもない。気付かない間に、オマエの存在は俺の血となり肉となって、刻み込まれていったんだ。
笑ったオマエ、ブチ切れたオマエ、メシ食ってるオマエ、風呂場で寝落ちしかけたオマエ、灰原のギャグで俺の顔に麦茶を噴出したオマエ、依頼人を誑し込むオマエ、俺に説教垂れるオマエ──。オマエは四六時中、俺の傍にいたからさ。
君にならできるだろ、悟。
〇.〇一秒の回想は、この十年で一番、鮮やかだった。
オマエの理想にはまだ遠いけど。
傑を見つめる。
瞼、睫毛、鼻筋、少し荒れてる唇を見つめた。
頬に手を添える。耳朶に触れる。引き寄せられるようにキスをした。
口の端についていた血を舐めて。頭を撫でて。指先で髪をかき分け、肩を掴んで傑を抱き締めた。
だってオマエ、手も足も出せないもんね。
傑、まだそこにいるか?
死には段階があって、心臓が止まっても、魂が離れるまではまだ、オマエはここにいる。
手を繋ぎたかった。抱き締めたかった。一緒に眠って、体温を感じたかった。恋人みたいに。
キスをして、キスを返してもらいたかった。
そうして僕は傑の命を絶った。
僕の親友。
「大好きだ」
僕のいとおしい人。
ずっとずっと、愛してる。
親友だよ。たったひとりのね。
思ってもみない言葉だった。この男にしてはまるで甘すぎる餞別だ。鼻で笑ってやれればよかったが、不覚にも私は虫の息だったので。言い訳だというならそれでもいい。
(悟…)
君に人生最大の八つ当たりをかましてから十年、あっという間だったかな。何せこの世は猿ばかりだ。狩っても狩ってもキリがない。他人を当てにし、縋り、醜くのたうち回って生きるしか能のない猿は、けれども猿なりにきちんと役目を全うするものでね。私の言うことを結構聞くんだ。悩ましいと言おうか。唾棄すべき猿と共に生きねばならない私は、君の眼にどう映っただろう。
親友──そんな言葉に私を当て嵌めてくれた君に、ひとつ、白状しよう。実はね、どうやら私は、君のことが好きだった。いやはや、我ながら驚きだ。君の憤慨は尤もだろう。
思えば、百鬼夜行を画策してから、私の命運はカウンドダウンを始めた。里香を手に入れることを絶対条件に、将来のビジョンを練り直し、大義と共に歩んだ道を初めて振り返った。猿たちの存在意義を今一度胸に刻み、家族たちとの結束に想いを馳せ、そして、君という親友に行き着く。少し前に、菜々子と美々子に、五条悟は何者かと問われていたのも、カウントダウンに組み込まれた歯車のひとつだったのかもしれない。
それまでは、心の奥の奥、二度と振り返らない箱の中に、君との想い出はあった。それを十年を境に開けてしまった。初めて会った日に大喧嘩になったね。次の日には仲直りをしたが、そもそも、君の方に、喧嘩をしたという認識がなかった。君は、私が急に殴り掛かってきたから殴り返しただけで、私が怒った原因には理解が及んでいなかった。君の言った「死ぬ覚悟がないなら帰れ。俺は助けない」というのは、当時家を出たばかりの君にとっては仕方の無い言い草だったろう。呪術界に常識を持ち出すことの愚かさを、ろくに知らなかった私は当然カチンときたけれど、それよりも、よろしくという挨拶に何も返されなかったことの方にムカついた。もっというなら、ショックだった。初めてできる呪術師の同級生、仲良くなりたいと、期待を持って入学したものだから。挨拶は大事だなんて、君は誰にも教わらなかった。そういう場所で君は育ってきたのかと思うと、切なさを覚えずにはいられなかった。
私達は互いに教え合った。君からは呪術のことを、私からはそれ以外のことを。
硝子と三人で夜蛾先生をおちょくったり、後輩ができてからは、彼らも巻き込んでせめて高校生らしいことをしようと計画した。春は席替え、夏は海水浴、秋は焼き芋、冬はスケート、そのほとんどは予定を立てただけで終わってしまったけれど、皆で顔を寄せ合ってあれやこれやと話し合ったことはいい思い出だ。呪いと死に塗れながら駆け抜けた数百日間。辛く、楽しい日々だった。私にとっての青い春。
その中でも、ひときわ私の胸をくすぐるのは君という存在だった。
私の大義は、私から君を奪った。
この世界が、私から君を奪った。
酷い弱音だと笑ってくれ。
箱から出してしまった君は、二度と箱の中には戻らなかった。君は常に私の心の片隅に立っていて、私は時にイラつき、時に眺め、時に手を伸ばし、宣戦布告に訪れた瞬間に、ああ、こんなに強い男を私は知らないと思った。こんなにもまだ、焦がれているのかと。
だから、閉じ込めたのに。開けてしまったら戻せないと分かっていたはずなのに。
こんなに恋しいような気持ちが湧くなんて思ってもみなかった。
友情は、恥ずかしくも恋情になっていた。
惜しいなどと、愚かな思考だ。
百鬼夜行は成功させる。
そうすれば、それさえ叶えば、君に対する懸想を鼻で笑って抱えていけるだろうと言い聞かせた。
傑、大丈夫か。
〇.〇一秒程の回想が、とても鮮やかに駆け巡った。
強く、正しく、美しい君が、私にとっての唯一だ。
かつて勝気に煌めいていた瞳が、まっすぐに私を見つめる。
今から私を殺そうとしている男に、全身を包まれたような心地がして、柄にもなく胸が疼いた。
痛みは感じず、鼓膜を撫でる声の柔らかさが、どうにも心地よくて、瞼が落ちる。
悟、私が君に言えることは何もない。
君のくれた言葉に報いることは不可能だから。
ただ、君の手で逝けるのかと思うと私は、つまるところ、君のことが──。
大好きだった。
「さ、最期くらい、呪いの言葉を吐けよ」
いい年をした呪詛師の最期が、そんなセリフで、照れを隠さざるを得ないなんて。何とも格好がつかない。
しかも私の魂は、私の羞恥と共に、悟からの告白を受けて、花火のように打ち上がったのだ。
前世、そんな風に傑と死別した僕は生まれ変わってしまって驚いた。しかもぬいぐるみになってしまった。意味不明。生き物でさえないなんて、そんなことある?マジかやってられるかと項垂れたのも束の間、僕は僕の身体を持ち上げた人物を認識して前言を撤回した。
(す、傑だーーーーーー!)
ふわ五という名のぬいぐるみらしい僕を持ち上げ、胸元にぎゅっと抱き締めたのは、間違いなく傑だった。この俺が間違えるものか。
夏油傑三歳。三歳にして健在の前髪、舌足らずながら「さとる」と僕を呼ぶ声、僕の小さな綿の手を握る、短い五本指から流れ込んでくるぬくもりは、前世、僕が生涯唯一愛した男のそれと同じものだった。
「すーくんがぬいぐるみを気に入るなんて珍しいね~」
「ずっと手放さないんだって?」
「そうなのよ。幼稚園にまで持っていくってきかないの」
前世を覚えている僕は、人間からぬいぐるみに生まれ変われど、前世から何ら変わりのない五条悟であるわけで、ガキに対しては小さいなこいつくらいにしか思わなかったはずが、傑に関しては小さいは可愛いのだと思い知らされた。
傑は常軌を逸するほど可愛かった。全部がちっさいんだ、目も鼻も口も歯も舌も爪も何もかもが!現時点で、どうやらこいつに前世なんてものの記憶はないようなのに、僕を「さとる」と命名した。僕を片時も手放さない健気さ、一途さ、いじらしさが全身から溢れ出ていて、僕に咽び泣く以外の何ができようか。
前世、呪いを殲滅することだけに全振りして生きた僕は、前世振りに己の感情の高まりを覚えた。綿の身ではあるけれど、どくどくと脈打つ心臓が確かにある。
(オマエ、そんなキテレツに可愛くってどうするの?外歩いて大丈夫?幼稚園とか行ってる場合?誘拐されるよマジで)
過保護?いやいや、マジ可愛いんだって、傑。これが将来は前世みたいな輩になるの?嘘でしょ?って思うけど、ならないかもしれないけどでも、なってほしい。会いたい。綿でしかないこの身が切ないけど、今はとにかく、この、傑の愛らしさが僕は心配でならない。この世にも呪霊はいるのか、残念ながら僕には分からなかった。術式が刻まれているのかも、この糸目には見ることが叶わない。呪霊を操る宿命なんて再びこの命には背負わせたくないけれど、僕は神様じゃないから。
道行く猿が──おっと、一般人がみんな傑を見てる気がする。傑は毎日元気いっぱいで、友達がたくさんいて、びーびー泣いたかと思えば、きゃっきゃと笑い、誰にでも愛想がよく──そこんとこほんと変わらないな──僕を常に携帯してくれる。ありがたい。できることならじじいになって死ぬまで傍に置いてほしいけど、さすがに無理があるだろう。僕の綿にも限界はくる。せめて、傑が自分で自分の身を守れるくらいに大きくなるまでは、僕と共にいてほしい。綿にできることなんて、精々が愛玩できる玩具でいるくらいのものだけど、傑が僕に向かって「あのね、さとる」ってたくさん話しかけてくれるから、今生、僕はとても満ち足りていた。口が利けるわけじゃないし、傑の言うことに頷くこともできないけれど。それでもいい。
(どうかオマエの人生が、喜びに溢れかえるものでありますように)
僕は、オマエの幸せを世界一願う、世界一、オマエを愛してる魂だから。
「すぐるくんていうんだね。ちょっとおじさんに道を教えてくれないかな?」
ほら言わんこっちゃない!ほらね!オマエは自分の可愛さを海より深く理解した方がいいんだよ。三歳ぽっちには難しい話かもしれないけどさ。まったくオマエはわんぱくっ子なんだから。ひとりでどんどん歩いていくんじゃねえよもう!
道ですか?なんて聞き返しちゃダメだって!相手にすんな!こら傑!誰でもいいから人を呼べ!呼べったら!僕と繋いでる手に力がこもる。あああ傑!僕を抱き締めたって何にもならないんだって!ああ~傑の体温まじ気持ち~じゃなくて!
「すぐるくん、こっちにおいで。座ってお話しようか?」
てめえ、傑の優しさに付け込みやがって。傑の外面は完璧なんだよ。勘違いすんな猿!つーか頭撫でんな!気色悪がってるだろうが!おいおっさん、まじやるか、てめえ、俺の天使を穢してみろ、タダじゃ──。
「やだ、さとる…」
ブッツン!
僕の綿がブチ切れた。
「今 す ぐ 失 せ ろ。殺 す よ ?」
「ひっ?!」
「さとる?」
僕は傑を後ろに庇い(つもりでも)、無下限を張って(つもりでも)、あろうことか白昼堂々傑に覆いかぶさろうとした汚物に向かって吠えた(つもり)。尻餅をついた男を睨みつける。
無下限の内側で僕をまじまじと見つめる傑の視線がくすぐったい。可愛いよ傑。僕の傑。大丈夫、オマエは僕が守る。この命に代えても。
「傑、走れ。で、ママを呼べ。大きな声で」
「うん」
僕の心が通じたのか、傑はだっと駆け出して、傑ママを呼ぶ。ほどなくして、傑ママが血相を変えて駆け寄ってきた。よし、一安心だ。
僕は綿という綿が萎んでいくような気がして、傑の僕を呼ぶ声と混ざり合うようにして、意識を失った。
気が付くと、傑が僕をのぞき込んでいた。傑の小さな手が、僕の頭を撫でている。気持ちがいい。傑。傑。愛してる。
「さとる、たすけてくれてありがとう」
当然だ。だって僕は、オマエを守りたい。オマエと生きたい。ただ、それだけでいいんだ。
気が付くと、私は小さな手にむんずと掴まれていた。死の間際に感じたぬくもりと同じ。どういうことだろうと思いを巡らせる間もなく、大きな瞳が私を見つめていた。
その男児こそ、五条悟三歳、前世の親友、そして、今生巨億の富を築いている五条財閥の次期跡取り息子だった。
かくいう私は、なんとぬいぐるみである。ぬいぐるみに生まれ変わってしまった。そんなことがあるのかと思う。ふわ夏というらしいが、悟に「すぐる」と命名され、確かに私は傑であるので、違和感というならこの綿の身くらいのものだった。名前を言い当てられこそすれ、現時点で、悟に前世の記憶はないとみている。どこにでもいる普通のクソ生意気な三歳児だった。六眼の煌めきもない。六眼を持たない五条悟がいるという点で、ここは呪霊の生まれない世界だと思っていいだろうか。ただの綿の存在でしかない私にはもう、呪霊を見ることも取り込むこともできやしない。
二度目に出会った悟三歳は、一度目の悟十五歳の原点を見るようだった。寝つきも寝起きもいい。要領もよく、頭の回転も幼いながらに速い。が、挨拶をしやがらないので、その度に私が頭突きをくらわせている(気持ちだけは)。転がるしか能のないぬいぐるみだから仕方がない。
悟は幼児にあるまじき熟練度で一人暮らしのような生活を送っている──というのは少々大げさだが、ほぼ一人暮らしのようなものだ。雇われのおじいさん(じいや)とおばあさん(ばあや)夫婦が離れで暮らして通っては来るものの、ご両親は世界中を飛び回っていて、年に数回しか帰らないらしい。寂しいの何たるかさえまだ分からないのかもしれないが、幸い、悟は楽しそうだった。じいやとばあやに可愛がられながら、私に頭突きを貰いながら、大人しく座っていれば育ちのいい──実際そうだが──おぼっちゃまくんである。
「すぐるが人間だったらいいのに」
三歳のくせに小学一年生の算数ドリルを眺めていた悟がふいに呟いた。羽毛のような絨毯に寝そべり、頬杖を突いた状態で、拙いながら正解の数字を鉛筆書きしている天才児の、豪邸にひとりきり、図書館並みに揃えられている蔵書を知識の師とし、友達は私だけ、欲しいものは特にないと宣う悟の、可愛らしい願い──。
悟は我儘だ。三歳の我儘は可愛い。あれしろこれしろと甘えるのは悪いことじゃない。じいやに肩車をしろと無茶を言うのは最初だけ、首が折れたら死ぬから許してやるとふんぞり返る瞳には、最初から諦めがある。ばあやに「メゾン・ダンドワのリエージュワッフルとおなじやつ、いちごましましで作って」と言った直後に、「やっぱなし水ようかんの気分になったから水ようかん買ってきて。ついでにじいやを整骨院にぶちこんできてよ」と屋敷の維持管理に妥協を許さない老夫婦に「命令」を出す。前世で養ったことがある双子の少女達も聡い子供だったが、控えめながらも愛情を強請ってきた。けれど悟は、最初から自分には必要ないものと割り切っている節が感じられる。それでも平気だと言い聞かせているような。私の感傷かもしれない。でも。
(私が人間だったら、じいやとばあやなんか目じゃないくらい、厳しく君を躾けるが、それでもいいのかな?)
鉛筆を握ったまま昼寝に突入した悟に、私はそっと近寄る。そっと、額を悟のそれに傾けた。六眼がなくとも、孤独な子供。孤独に耐えらえる強い子供。君は私の唯一の形をした五条悟そのものだ。
「すぐるのおっぱい、もみたい」
(…ん?)
何やらぶっ飛んだ発言が聞こえたけれど、どうやら寝言らしい。おっぱいを恋しがる時期は過ぎたと思うが、両親が恋しいか。
悟が私を抱き締める。落ち着くぬくもりだ。だから私も、私のこの綿の身が、少しでも君の心を温められるならとても嬉しく思う。
黒いワゴン車が停車した。颯爽と歩く悟三歳の真横にだ。悟に抱きかかえられている私は横目で見ながら瞬時に状況を理解した。
誘拐!さもありなん!
普段滅多に外には出ず、もっぱら家の敷地内にある公園で──悟の為に造られたらしいが、広さと遊具の多さがまるでテーマパークだ──駆けずり回っている悟が、今日に限って散歩にでかけた。当然だがひとりで!SPもつけず!私だけを連れて!馬鹿なのか君は!
ワゴンからふたりの男が降りてきて、悟の両脇につく。悟はこんなことになっているというのに平然と歩き続けていて、私はちょっと混乱してしまう。ドラマの撮影とかじゃないよね?都心の外れに立つ五条邸を出て、まだ五分ほどしか経っておらず、通行人は誰ひとりとしていない。私は焦る。悟三歳があまりにも悟十五歳を彷彿とさせるものだから忘れがちになって調子が狂うが、この子は三歳、まだ三歳の子供なのだ。守らなければならない。守ってみせるとも。私がこの命に代えても。
「ケガしたくなきゃ大人しくしようね、ぼく」
「さ、この車に乗って」
悟が立ち止まった。嫌な予感がする。悟は口が悪い。三歳ながら利発が服を着て歩いているような美しい子供だ。そんな子供からの挑発に逆上しないこの手の大人は皆無といっていいだろう。
「誘拐ねえ。ださっ!」
悟!まったく君って子は!どうしてそうなんだ!今の私はぬいぐるみなんだぞ!頭を使え!もっと命を大切にしろ!初めての誘拐劇に余裕ぶるんじゃない!ほら、何だかんだ手が震えてるじゃないか。私をいくら抱き込んだところで無意味だというのに──!
「オマエはぼくが守るからな、すぐる」
瞬間、私のどこかの綿がブッツンという音を立てた。自分の命より、綿でしかない私を守ると、君は言ったか。
「こ の 子 に 触 れ る な。食 ら う ぞ」
「なっ?!」
「うわあ?!」
私はありったけの念を込めて、術式を発動させた(つもりでも)。男たちは恐怖の雄叫びを上げながら、しきりに両手両足をバタつかせた。まるで全身をクモの糸にでも絡め取られたかのように。終いには尻餅をつき、這いつくばって、何とかこの場から逃げようとのたくっている。この下種どもめ!
「悟、散歩はやめだ。今日は家に帰ろう」
「いいよ。クレープはまた今度にする」
悟は落ち着いていた。私を抱く手からも震えは伝わってこない。クレープなんていくらでも取り寄せればいいのに。食べ歩きは、確かに最高の調味料ではあるけれど──。
「ありがとうすぐる。さすが、ぼくのしんゆうだ」
ああ、そうだな。私は生まれ変わっても君の親友でいたい。願わくは、君といつまでも共にいたいと思っている。
俺の名前は五条悟。十五歳。こいつは「すぐる」、俺の相棒のぬいぐるみ。引くなよ。これが現実だ。文句は言ってもいいけど、俺はこいつ以外に何を言われどう思われようが全く気にならないから無駄な労力使うことになるって覚えとけ。
すぐるとは生まれた時からの付き合いだ。物心ついた時にはもう握ってた。大好きな奴。こいつが俺の恋人。綿だけど。
私の名前は夏油傑。十五歳。彼は「さとる」、私の相棒のぬいぐるみ。ああ、引かないでほしいんだが無理にとは言わないから安心してくれ。私たちのことは放っておいてくれればいい。私にとって重要なのは、彼と共にいることだから。
さとるとは生まれた時から一緒にいる。物心ついた時にはもう抱き締めていた。いとおしいんだ。綿だけど。
「ふわ?(傑?)」
「ふわ?(悟?)」
ああそうか、オマエはそいつを待っていたのか。
ああ君は、彼を待っていたんだね。
「オマエのふわ五、ちょっとこいつに見せてやっていい?」
「構わないよ」
「オマエ、名前は?俺、五条悟」
「私は」
気が付くと、俺は傑を抱き締めていた。綿の手じゃない。人間の手で。
温かい傑の背を抱き締めていた。
ふわ五とふわ夏がぴたりとくっついて、微笑んでいた。