羽化五時五十九分、五条の意識は覚醒した。ナイトテーブルに置いているスマートフォンの画面をタップし、59の数字を確認する。寝返りをうって目を閉じた。目覚まし代わりのアラームが鳴るまであと一分。雨の音がする。
顔を洗って身支度を整えた。靴紐を結び、フードを被って玄関を出る。ストレッチをして走り出す。雨は小降りだが泥濘具合を見るに昨夜から降り続いているらしい。
朝食はどうしようか。店に入るか、帰って作るか。ベーカリーショップの前で足を止めたが、レインジャケット脱着の面倒臭さを思ってやめた。帰って焼こうと決める。明日はあれにしようとガラス越しのクロワッサンに定めていた視線を戻し、ジョギングを再開した。心なしか雨脚が強くなってきた。
フライパンにバターを落とす。食パンを放り込み、こんがりと焼き上げてからハムとチーズを乗せて二つ折りに。もう一枚食パンを焼き、餡とチーズを挟んだ。
随分長い間、雷が鳴っている。落ちるかもなと思った。
九時。自宅をオフィスと兼ねている五条は、片手にタンブラー──今日はアールグレイにした、片手にチョコレート詰め合わせの大袋を抱えて仕事部屋に向かう。ここで、五条はあらゆる機械語を組む。
五条はとても優秀な男だった。知力体力時の運、全てを持って生まれてきたとは、周囲の言だ。遺伝子分野の未来を担うとまで言われた五条が、院を卒業後、研究職ではなく一般企業の営業マンになった時、友人たちは一度は驚いたが、惜しむ真似はしなかった。五条の選択には"理由"がないことを知っていたからだ。
五条は無趣味である。頭を使って体を動かせば大抵のことは成せてしまう。物事は引っ掛かりのないビロードのように五条を撫でていくだけだ。それ故の諦観を、五条は学生の頃には既に持っていた。動機は見出せず、突き動かされるような熱意を知らない。今もまだ。
初めて就いた職は一年でやめたが、分ったことがあった。自分は、雇われることに向いていない。己の意思を殺して非効率に消費されるのはストレスが溜まる。履歴書を認め、スーツを新調し、己を売り込み、企業の歯車のひとつとなって一年様子を見てみたが、ただひたすらに退屈だった。社内外の人間と衝突もしない代わりに、実りある会話もなく、意味という意味さえ分からなくなる程退屈だった。五条は逃げた。初めて逃げた。社会人になるとはかくも恐ろしいのかと、友人の一人に嘆いたが、彼女が五条に呉れたのは「ふーん」というそれだけだった。相談のし甲斐がないと思ったが、そもそも五条が望んだのは嘆きを聞いてもらうことであり、意見が欲しいわけではないと、よくよく知っていたのだろう。
社会人が向いていなくとも食い扶持は稼がなくてはならない。一度、ギャンブルに手を出したらあっという間に儲けてしまい、イカサマを疑われ何やら命の危険を感じてやめた。その時も五条は後輩のひとりにツイてないと嘆いたのだが、彼からは「五条さん…」という溜息しか貰えなかった。五条もつられて溜息が出た。
次に、五条は求人誌を集め、手当たり次第、目につくアルバイトに応募した。履歴書なんて目を瞑ってでも書けるくらいだ。お金のことは二の次。これなら続けられると思えるものに出会いたかった。
結果は惨敗。あらゆる現場で重宝され、上手くいきすぎることは返って五条を恐れさせた。世の中を舐め腐って生きても良かったが、怒られる気がした。誰に?そんなことは分からない。でもまだだめだと。足掻けるだけ足掻かなければと思った。いつか誰かに認めてもらう為。それは誰だろうか。分かるわけもなかったのだけれど。
優秀すぎて嫌になると別の後輩にも嘆いたことがある。彼は言った。生きながら死んでいるみたいですね、と。流石に五条も言葉を失った。少しだけ涙が滲んだ。そんな五条を哀れに思ったか、彼が付け加えた言葉は結果、天啓となった。
他者の中にいるより、ひとりであることが、貴方の強みなのでは。良い意味で。
五条は唸った。ひとりであること。集団に混ざるのではなく、ひとりで立つ。確かに、これまで熟してきたアルバイトの中でも、家庭教師や、時代劇のエキストラ、清掃員など比較的ひとりで完結するようなものは割とすんなり馴染んでいた気がする。しばらく使っていなかった頭を五条は働かせた。己がより快適に、効率良く、社会の歯車となる未来を思い描く。誇れる己でありたい。生まれたからには。
一時期、五条は方向性を変えてみたこともあった。ヒモとか犬とか、ツバメ、そういうものにもなってみたのだ。どうやら己の見目は一般的に見て麗しい部類に入るらしい。というのも、五条の周りにいる人間は誰も面と向かってそういう誉め言葉を吐かなかった。だから、無頓着でいられたのだが。けれどある日、一度だけ、駅に設置されているストリートピアノを弾いてから、思い知らされた。昔からよく視線を寄こされるとは思っていたけれど、身長が百九十を超える白髪の大男は目を引くといえば引く。だから仕方がないと思っていたのだが、理由はそれだけではなかったらしい。ピアノを弾き終えた五条は万雷の拍手に包まれた。一度はプロになる道も考えたことがあった五条はその賞賛に礼を返したが、この時の様子が、五条の一段飛び抜けている容姿と共にSNSで拡散された。街を歩けばモデルや俳優、何故か声優に至るまで芸能のスカウトが絶えず、住所まで特定されてしまった。芸能界に興味はない。どこにも興味なんてないが、有象無象を相手に身を売るのは拒否反応が出る。五条は目立ちたがりではない。適材適所というなら、自分には不向きだ。どちらかというと、裏方に徹している方が好きだ。自分が身を置くべきと思えるのは、誰かを支えられる場所。ひとりであることを良しとする傍らで、そういう思いもあるらしい。
五条は知っている。この現状を何というのか。無いもの強請り、というのだと。
幸か不幸か、五条が己の騒動に対し、驕るなり憤るなり、何らかの感情に支配されることはなかった。五条の心はいつも通り、至ってマイペースで、平坦だった。心は動かない。心は動かすもので、自ら動くことはないのだと、五条は思い込んでいた。だから試しに、異性に媚びてみたのだ。言われたことをやって、望むようにしてやった。二三日は耐えられたが、限界が来るのは早かった。自分が息をしているのかすら分からなくなる程の虚無感に見舞われた。あれも恐ろしかった。なんて傲慢なんだと無理矢理自分に言い聞かせてやっと、正気を保った程だった。他人の傍にいるというのは、斯くも難しいものなのか。
人生がイージーであることを楽しめたら良かったのだろうか。思考は常に回っているのに、何を思考しているのかは分からない。欠伸をかみ殺すこともなく、午睡をしたこともない。疲れを感じはすれども、休め方が分からない。万全のコンディションとはどういう状態なのだろうか。己のことだというのにこうも分からない。
いっそ頭を空っぽにしてみたい。
五条は頬杖をつく。ぱちぱちと瞬きをして世界を見るけれど、五条に救いの手が差し伸べられることはない。五条にとっての救いとは何か、五条自身分かりはしないのだ。
五時五十九分、五条は目覚めた。常ならあと一分、ベッドの中にいるところだが、今朝は起きた。起きたい気分だった。カーテンと窓を開け放つ。凛と冷えた空気を吸い込む。何だか美味い。はす向かいの暗闇に浮かぶポーチライトに目が留まる。初めて見るわけでもないものが、認識として五条の内に刻まれるというのは、あまりないことだ。朝からテンションが高いと自覚する。
白湯を腹に入れ、支度を整えた。靴紐を結び、外に出る。やっぱり空気が美味しい気がする。地面を蹴り上げる両足も軽い。ペースを上げてしまわぬよう気を付けながら走る。
五条は朝よりも夜が好きだ。陽気に灼熱を謳う太陽よりも、信念を曲げない頑固者が呉れる優しい月光。静と動なら、動の後にくる静の時間を好む。星に適応したヒトの生活リズムはよくできていて、五条はとりわけ、明日が来る前、日付が変わる前の、世界に鼓動を預ける時間帯が好きだった。昔から、不思議と闇は怖くない。
五条はひとりでも寂しくはない。寂しくはないが、楽しくもない。でも、ひとりであることが大切にも思えた。何かの証のように。
闇は五条を肯定し、そして太陽は五条を追い立てる。立て、行け、走れと。それが嫌なわけではないが、面倒に感じる時がある。生きることは面倒臭い。退屈ならなおさら。だから五条は夜が終わってしまう世界を、見て見ぬふりで走る。今日も同じ。そのはずだった。が、ふと、今日はそういう気分にないのではないかと思った。朝からどうもテンションが上がっている。
楽しみなのだ。彼に会えるのが。
ベーカリーショップの看板が見えてきた。店の前には誰もいない。気をつけて走ったつもりが、待ち合わせには十分程余裕がある。少し遠くへ視線を飛ばしてみると、こちらへ向かってくる人影があった。五条は片手を上げる。彼だ。
「ごめん!待った?!」
「いや、僕も今来たところ」
「良かった!私の方が早いと思っていたんだけど」
「勝っちゃったね」
「そうみたいだ」
爽やかに笑う青年に五条も笑いかけながら、どうぞと、店の扉を開く。ありがとうと青年が五条に向けたそれは、屈託のない笑顔の見本と呼べるべきものだと思うのだ。
クロワッサンとパンオショコラ、それから大きなメロンパンをトレーに乗せ、レジへ向かう。飲み物はミルクティーを注文した。先に席に着いていた彼の前には、クロワッサンとクロックムッシュ、ホットコーヒーがある。予想を裏切らないラインナップに思わず笑いそうになってしまい、なんとか堪えた。が、頬は緩んでいただろう。幸い、彼は気付かなかったようだ。気付かれてしまったとしても、五条はこの胸の内を言語化できる気がしなかった。嬉しいようなくすぐったいような。多分、ワクワクもしている。彼に相談できるならどんなにいいだろうと思ってしまう。ろくな説明ができないのだけれども。
彼とは昨日、この店の前で出会った。中の様子を伺っているようだった。入ろうかどうしようか迷っている風に見えた。格好からして、彼もジョギングの途中だろう。朝食を考えているのだとしたら、伝えてやろうと思った。ここのクロワッサン美味しいですよ、と。
突然、横からかけられた声に、振り向いた彼と目が合った。五条よりはいくらか低いが、彼も身長がある。大柄な男というのは立っているだけで威圧感を与えるらしいが、友人から何と言われようと知ったことじゃなかった五条は今、新しい知見を得た。彼の切れ長の目元が、じゃあ食べてみないといけないなと綻んだ瞬間の笑顔が、福耳を飾る大きなピアスと共に、五条の脳内に焼き付いた。
『良ければご一緒しますか?僕、ここでよく朝食摂るんで』
『え!じゃあ、明日!明日はいかがですか?今日は手持ちがなくて』
『奢りますよ』
『いえそんな!悪いですって』
全く悪くないのだが、無理強いは良くないと五条も心得てはいる。明日なんてすぐだ。寝て起きればやってくる。五条は頷いた。本当に来てくれるのかと、気付けば口をついていた。自分のことなのに驚く。しかし五条の呟きは彼の耳にしっかりと届いたらしい。滲ませた不安までも汲み取ったのか、彼は笑ってこう言った。
『明日、同じ時間にまたここで。そういうあなたも絶対来てくださいよ?』
名は、夏油傑。歳は二十八。各地を転々としていて、昨年の十二月にこの街に越してきたという。大きく開けた口にクロックムッシュがみるみる吸い込まれていく。よく噛みなよと零せば、よく言われると返ってきた。さもありなん。
「五条さんはここの生まれ?」
「悟でいい、同い年だから。生まれは京都。何となくこっちに来て、そのままって感じ」
「私はどうも同じ場所に住み続けていられなくてね。知らない土地に行きたくなるんだ」
だから中々定職に就けないと、少しも困っていなさそうに笑う。各地を回っているお陰か、伝手に恵まれ何とか食い扶持には困らず生きているという。広く浅くのつきあいなんて五条からしてみれば煩わしいとしか思えないが、彼にとってはマイナスとはならないのだろう。人好きのする笑顔と物腰、語り口は穏やかで、何よりそう、その笑顔が、ぐっとくる。
「明日も会えない?」
唐突ともいえるタイミングだったのは認める。けれども仕方がなかった。五条の口から勝手に零れていったのだ。
「いいよ!」
思いのほか、彼はすんなりと、しかも前のめり気味に了承してくれた。実は塩バターロールも食べたかったんだ、ほんと美味しいね、とニコニコしている。食べればよかったのにと言ってみれば、これを口実に五条を誘ってみようと思っていたと、今度は眉尻を下げ照れ顔を見せてくれた。
彼から目が離せない。満足に呼吸ができていない気がして、五条は密かに喘いだ。
「そうだ連絡先。いや、良ければ、だけど」
はっきりものを言うかと思えば、そこは遠慮するのかと思った。彼が言い出してくれなければ、五条などはそのまま家に帰って、瞼を閉じたって思い描ける彼の笑顔に、やっと連絡先を聞いていなかったと気が付いて、慌てる羽目になっていただろう。明日の朝の約束はしていたとしても、こういううっかりをする自分ではないはずだった。
「もちろん」
仕事とは関係のない、出会ったばかりの男のIDが五条のスマホに登録された。その夏油傑という名にさえ、何やら愛着が湧く気がするのだ。
翌朝。
五条はしまったと思う。ベーカリーショップの看板が表に出ていない。ウサギだかクマだかのガーデンオーナメントもだ。ということはつまり、定休日だ。今日は火曜日。五条は店の定休日を知っていたのにやってしまった。かなりのショックに打ちのめされていると、おーいという声がする。夏油だ。
「おはよう!悟!」
「おはよ、傑」
おかしな話だが、五条は呼ばれた自分の名前、さとるという名の語感に心を打たれた気がした。温もりのような何かが、しみじみと胸の内に広がっていく、そんな気がする。まただと思う。嬉しいような、くすぐったいような?いや、もう五条ははっきりと感じとっている。嬉しくて、くすぐったい。夏油が相手だからだ。
「悪い、今日定休日だった。うっかりしてた」
名を呼ばれたくらいで浮かれてしまったが、五条がやらかした事態は頑として目の前にある。謝れば許してくれるだろうが、格好はつかない。項垂れずにはいられなかった。
「あるあるだよね。私もよくこういう目に合うから、事前にチェックはするようにしてるんだけど」
浮かれちゃってたなと、夏油が零す。それを聞いて、ピクリと動いた己の右腕を、五条は他人事のように自覚した。すぐさま理性で抑えつけたが、でなければ夏油を掴んでいた。掴んでどうしたかったのか、途切れた未来なんて分からない。でも、提案を思い付いた。
「家、来いよ。ホットサンド作る」
「え、いいの?」
五条の目に、夏油の瞳の色がよく見えた。もっとよく見たかったが、その欲をぐっと押し込んで頷いた。走り出す。有無を言わせぬ誘いにも、夏油はすぐさま追いついて、隣に並んだ。
「悟の家は、分譲マンションの最上階」
「ブー、平屋の賃貸」
「じゃあ、車はジープ」
「ははっ!何で分かるの」
「ひとりぐらし」
「そりゃそうでしょ」
「ひとりっこ?」
「うん」
「私も」
「何が?」
「ひとりっこのひとりぐらし」
「ふーん」
自分も何か話さなければと五条は思う。けれどひとつしか出てこなかった。そんなわけがないのだ。珈琲が好きならカフェでテイクアウトしようかとか、時間は本当に大丈夫なのかとか、五条の家は、ここからなら走ってまだ十五分くらいかかることとか。なのに。
「恋人は?」
果たしてこれは実際に五条の口から出たものだろうか。妄想の中で言っただけとはならないか。チラと隣に視線を送ると、夏油も五条を見ていたらしい。またやらかした。気まずい。が、どうしようもない。
「いないね」
「本当に?」
「悟はどうなの?」
「いたことねえよ」
「キレるなよ」
「キレてない」
これがいい年をした大人の会話だろうか。五条の駆ける足は自然と早まるが、夏油は文句なくついてくる。上手に地を蹴る音や、静かな息遣い、ウェアの擦れる音、様々な気配の全てに意識が向く。耳を欹ててしまう。それに、何故か五条は誇らしいような気持ちだった。一体どういう感情なのか説明できない。でも分かることもあった。夏油とならきっとどこまでだって走っていける。
「私もいたことないんだ」
「ほんとかよ」
夏油の言葉を鵜呑みにしたくはないのに、五条は嬉しくて仕方がなかった。
うわあ、と夏油が言う。そして美味しそう!という感嘆が続いた。ちゃっちゃと作ったホットサンドだ、見栄えに気を遣うでもなし、普通だろと五条は思う。大袈裟だなあと笑えば、そんなことないよ!とイイ顔で力説された。そのテンションにちょっと驚いてしまったのだが、実際、夏油と食べた今日のホットサンドは、とても美味しく感じられた。何度も作っているが、特に上手くできたのだろうか。簡単に作れるとはいえ、バターの量や焼き加減が絶妙にマッチしたのかもしれない。ならば五条も自分を褒めたいと思う。こんな気持ちになったのはいつぶりだろうか。むしろそんな場面がこれまでの人生においてあっただろうか。記憶にない。
「私も酒のつまみなら自信があるよ」
「じゃあ今夜作ってよ。酒は飲めないけど、つまみの類は好きだから」
「今夜?」
「いや、いつでもいいけど」
「うん、私はこのあと、特に予定はないから平気だけど、悟、仕事は?」
「あるけど、夜メシの話じゃねえの?」
「そう、夜メシの話だね」
「家、いてくれていいよ。好きに使えばいいし」
「え」
「いちいち驚くなって」
「ははっ」
何が可笑しいのか分からない。でも五条は釣られて笑っていた。
「昨日今日会った相手にできる対応じゃなくない?」
「まあ、そうかもな」
「よかった、自覚があって」
「何だよ、お前、実は悪党だったり?」
「まさか!善良な一市民だよ」
「だろ、僕もだし」
「本当かな」
「オイ」
夏油が笑う。ここで、この家で、この男が、屈託なく笑っている。不思議だと思えど、しっくりくる気もする五条だった。
夏油の作ってくれたピーマンとベーコンのサラダ、これが激ウマだった。夏油は料理動画をよく見るらしい。食べることが好きだと言った。その時、五条は思った。夏油に美味いメシを作ってやりたい。それはすなわち、一緒に食べる五条も満たすことに繋がる。間違いない。五条が作ったホットサンドを美味そうに食べていた。誰でも簡単に作れるあんなもので、あんなにぐっとくる笑顔を見せてくれたのだ。試しに、初めて動画サイトを覗いてみたが、なるほど、世の中にはこんなにも美味そうなものが溢れているのかと、食への興味が希薄すぎたなと思った。
五条はスマホを手に、思案する。ホットサンドをごちそうしてからまだ一週間も経っていない。毎朝ベーカリーショップ近くの公園で少しだけ立ち話をする仲になり、もう五条の中では特別な親友枠に収まっている男だが、相手もそうとは限らない。が、そんなことはどうでもいい。どうでもいいが、躊躇はする。慎重になる。間違えたくない。たかが夕食に誘うだけの話を大袈裟に捉えすぎているのだとしても。
「うお!」
五条は大きくビクついた。眺めていたスマホの夏油傑という文字、それが切り替わり着信があったのだ。その夏油からだ。通話をタップし、開口一番こう言った。
「こええよ」
「え?」
「いや、こっちの話。どした」
「悟だよね?びっくりした。間違えたかと思ったじゃないか」
「悪い、丁度かけようと思ってたから、驚いただけ」
「そうなの?何か用事?」
「先にどうぞ」
「そう?ありがとう。じゃあ、君、甘いもの好きだと思うんだけど、合ってる?」
「僕の甘味レベルを舐めてると痛い目に会う、とだけは言っておく」
「あはは!やっぱりね!良かった、じゃあ付き合ってほしいケーキ屋さんがあるんだけど」
「ほほう?」
「いつなら空いてる?」
「そうだなあ、そこってテイクアウトできる?家でのんびりしたい」
「それもいいね。大丈夫のはず。なら、今度は私の家に招待しようかな」
そこで初めて、五条は夏油の住処というものを想像した。どんなところに住んでどういう暮らしをしているのだろう。そこへ行けるというならワクワクしてしまう。五条はちょっとからかってみたくなった。
「いいよなあ、掘り炬燵のある家って」
五条はボケてみた。どんなツッコミがくるだろうかと期待した。ところが、返ってきたのは沈黙だった。
「傑?」
「何で、知ってるの?」
思ってもみない夏油の声音だった。小さくて、微かに震えていた気さえする。迫真の演技?そうであってほしい。じゃなければ嫌だ。五条は途端に焦った。
「は?待って、適当言っただけなんだけど」
「ほんと?」
「ほんとだって!」
詰るでなく、恐れるように尋ねられてしまい、五条は思わずスマホを握り締めた。数秒前の己の思考回路を呪う。良からぬ勘違いをされてはたまらない。今すぐ弁明をしなければ。どうやって。五条は軽く混乱した。吐くべきセリフがちっとも纏まらず、焦りばかりが膨れ上がる。
その時。五条の耳に夏油の明るい声が届いた。
「なーんてね!」
「は?」
五条は呆けた。力が抜ける。
「あれ、悟、騙された?」
「なんだ、マジ、焦った」
「え、そんなに?うそ、ごめん」
五条は大きく息を吐いた。軽い気持ちで仕掛けた五条であるが、返り討ちにあってしまった。心臓に悪い。安堵が全身に広がっていくのが分かる。
「でもね、私、将来掘り炬燵の家に住みたいって思ってるんだよ。これは本当の話。人生で二番目に手に入れたいものなんだ」
そう語る夏油の横顔が五条の瞼に浮かんだ。現実に、夏油の表情が見える場所、そこがずっと五条の場所でもあるのなら、それはどんなにいいだろう。
「じゃあ、一番手に入れたいものって?」
「それはまだ決めてない。これから見つけるかもしれないし、見つからないかもしれない」
「ふーん。そういう考え方ね」
「何だよ」
「僕にはない考えだから。僕って未来を夢みないタイプらしくて」
「ええー、悟、そんな寂しいこと言うなよ」
「寂しいとかは感じてないから平気。だと思う」
寂しいのかと、五条は思った。他人が下す評価に一切の頓着がないからか、五条は己の見られ方なんて顧みない。
「でも」
「でも?」
夏油の相槌は柔らかく、五条にひとつ息を吐かせはしたが、早く答えたいという焦りも生む。考えながら話をするという場面が、五条には珍しいことだった。状況を把握し、思考を働かせ、言葉にまとめ、吐き出す行為は、五条の中でいつだって順序良く並んで実行される。思考しながら言葉を組み立て同時に吐き出すような、ともすれば心までもが駆り立てられるような感じは初めてだった。
「傑と先の話ができるんだとしたら、凄く嬉しいし、楽しいだろうなって思う」
多分、と最後に付け加えた五条の声と、「口説いてる?」という夏油からの声が重なった。
夏油からは「多分かよ!」というツッコミが入るが、五条に上手い返しはできなかった。口説くとは、一体?と首を傾げてしまったからだ。先程自分がまとめつつ口にした想いを反芻する。
嬉しいし、楽しい。
鼓動が跳ねた。口説いていいなら、口説かれてくれるなら、五条は夏油を口説きたいと思った。
「ふふっ!ねえ、悟。会えない?今から」
「いいよ。家来て」
「うん、待ってて」
「待ってる」
会いたかった。会って、顔を見て、話しがしたい。どんな話でもいい。そう思う。
玄関を開けた先、やってきた夏油を見て、五条は瞬いた。雰囲気が違う。五条は髪を下ろしている夏油を初めて見た。耳朶にある射干玉は記憶にある通り。いつもはだんごを作ってまとめ上げている髪を、ハーフアップにしているのだ。
「や!」
「いらっしゃい」
本当に来た。来ることを疑っていたわけじゃないが、そう思ってしまう。
「そのケーキ屋だけど、今から行くか?」
「その手もあるね」
「この家には今大福しかないよ」
「それも捨てがたい」
「大福な」
嬉しそうな笑顔と共に、夏油はありがとうと言った。勝手知ったるなんとやらで、自らコートをハンガーにかけ、カウンターに腰かける。急に迷惑じゃなかったかと聞いてくるが、冗談で迷惑だったと返しても夏油はきっと笑ってのってくれるだろう。全然迷惑じゃないよと、僕も会いたかったと、素直に答えても同じようなリアクションをくれるに違いない。会いたかった。夏油から言い出してくれたことが嬉しかった。若干の照れもあるが、純粋な喜びが胸を占めていると分かる。
「そういえば、悟の用事、聞いてなかったね」
「ああ、後で言う」
「何、勿体ぶるじゃん」
夏油は相手との線引きが上手いのだろうと思う。五条が同じことを二度言わなくても通じるし、しつこい遠慮もしない、意見を押し付けることはないが、言いたいことはハッキリと主張する。気持ちが良い。五条は自分の性格が誰にでも通用するとは思っていない。夏油にかかれば、五条悟だろうと扱ってみせるというわけだ。
キッチンに立ち、茶の用意をする。夏油用の湯呑があった方がいいなと思った。マグだって箸だって必要だ。皿もそう。買い物に誘えば一緒に来てくれるだろうか。強請るには時期尚早か。食器はひとり暮らしにしては数が揃っている。無駄遣いだと言われるかもしれない。その可能性は大だ。背後のカウンターに夏油の気配を感じながら、けれど五条は言ってみた。
「オマエ専用の皿とか、買ってもいい?」
「買ってくれるの?」
「自分で買うか?」
「じゃあ、私が悟の分を選んで買うよ。それならいい。一緒に買いに行こう」
急須を持ったまま五条の動きが停止する。茶は注ぎきっている。何という提案返しだろうか。五条の気分をこれ以上はないという点まで引き上げる内容だった。夏油が怖い。夏油は五条を喜ばせて何か企んでやしないだろうかと思ってしまう。
「あのさ、僕が今どれだけ喜んだか分かってる?」
「ええ?」
きょとんとした後、全く分かっていないだろうに、ふにゃっと笑んだ夏油の前に、五条は緑茶を淹れた湯飲みを置く。力加減を誤り、ゴトン!という音がたってしまった。
大福を食べ、雑談に興じながら夜メシを食っていけと言ったら、用事があると断られた。結構なショックを受け、五条の口と表情は閉じざるを得ない。ちなみに何を作るのかと聞かれ、カルボナーラと答えたら次は絶対作って、絶対食べたいと言われた。社交辞令には聞こえなかった。
炊き出しの手伝いに呼ばれているのだと教えてくれた。それが今日の夜ご飯になるのだと。ならば自分もその炊き出しの手伝いに参加できないかと尋ねたが、場所が問題だった。夕方には北上するという。夏油の地元らしい。いつか行きたいと言うと、かまくらを作ってあげると言う。そこまで雪深いとはと驚いた。いつか連れて行ってあげるから待っててねなんて言われて、いつまででも待っていると答えた。
特別とは。いつの間にかそうなっている、そういうものだと考えていた。気付いた時にはもう遅いなんて話も聞く。気付かないまま人生を終えてしまうのかもしれない。自分ならありえる。それが人であれ、モノであれ、一等特別というものを、五条は持ってみたかった。自分には縁遠い話だと思いながら。
ひとりであること。ひとりでいることは、五条の普通だった。平気だったから、寂しいとも感じなかった。けれどもう、五条はそうあれそうにない。ひとりであるということは、夏油が隣にいないということ。ひとりでいるには、もう寂しい。
まさかの人生の岐路にいる。ずっとこの一本道を歩いていくものと思っていた。左右にたくさん見えている道のどれとも交わることなく、続いていくものと思っていた。あの日、ベーカリーショップの前で出会えた僥倖を噛み締めずにはいられない。夏油にとっては新たな出会いのひとつでしかないだろう。でも五条にとっては生涯に食い込む出会いになった。
皿を新調したくなった時、物欲そのものを抱いてこなかったと気付いた。五条の身の回りにあるものは、実家で使用していたものや、他人から寄こされたもので完結している。
人を、好きになったことがないことにも向き合わされた。これまでに何かを特別いとおしいと感じることがあっただろうか、慈しんだ記憶はあるか?ありはしない。
故に、見返りを求めたこともない。何かを強く願ったことも、誰かに乞うた覚えもない。だから、五条の誘いに夏油がのってくれるとそれだけで満たされる。一緒に買い物に行くという些細な約束、いつか地元に連れて行ってほしいという小さな願い、それらが果たされ叶った時の喜びは五条の想像に易かった。
夏油は、五条の中にある退屈を片っ端からやっつけて、そこにラグを敷いて、クッションを持ち込んで、コーラまで用意して、さあ乾杯しようなんて言ってくる男だった。この気持ちを何と表現しよう。堪らないなと、思った。
この世界において、五条の頭脳は優秀で、容姿にも恵まれている。生きるだけなら十分だ。生きていくだけならば。学業にしろ、ピアノにしろ、事を成せるまでに五条が繰り返した研鑽は、他人がそこまで賞賛する程のものではない。謙遜ではなくそう思う。五条は一生懸命生きていないのだ。生きている実感が薄い。五条を羨むのは自由だろう、けれど。
五条は満たされない。一生。そう、思っていた。
嘆くフリをしていた。感情は想像の中にしかなかった。己の在り方を不幸と片付けるつもりはない。それでも、五条は今まで何も知らなかったのだと気付いた。自分という男はこうであると、語れないまま生きてきた。何に喜び、何に怒り、何に哀しむのか。楽しいという感情の、その表層しか知らなかった。
二十八にして五条はもがく。生まれたての赤ん坊のように。
◇
幸せにしたい。漠然とした願いを、小さな頃から持っていた。なのに、夏油は人を愛せたためしがない。愛するってどういうことなんだろう、愛したい気持ちってどういうものなんだろう。分からないまま、ハタチを過ぎたあたりで夏油は立ち尽くした。いつか自分は誰かを愛してその人を幸せにするのだと信じていた。誰もがそうして生きている。家庭を築き、血を繋いでいる。自分もそうなるはずだと思っていたのだけれど。
きらきらと輝いていた願いが、気付いてしまった焦燥に覆われていく。夏油にはどうすることもできなかった。
社会に出た夏油は中々一つ所に留まれなかった。しばらくすると新しい地を求めたくなってくるのだ。この性分は恐らく変えられない。いとおしい人を探している。出会えるといい。でも出会えないかもしれない。きっと出会えない。心が開かないのだ、ずっと。
各地を転々とし、その度に職も変えてきた夏油は、何でもこなせる器用さを武器に、その土地土地でそれなりに重宝された。優しくされたし、拒否もされた。自分が大柄な男であることと、目つきの悪さは自覚している。それらを口調と態度でカバーしてきた。幸いにも、そうして生きることは苦ではない。乾いた心は夏油の中でずっと眠っている。岩のように動かない。仕方がないと思うしかない、そんなパートナーだった。
次をこの街に決めた理由はひとつだ。SNS上で彼を見つけた。気付けば食い入るように画面を凝視していた。会いたい。話したい。声が聴きたい。心が飛び跳ねた気がした。惚れた。異性だったが他に言い表せない。憧れとは違う、崇拝でもない。一目惚れも少し違う。メンクイ、は否めないけれど。興味が湧きおこった。彼の佇まいを思い浮かべるだけで、胸の奥から何かが溢れ出してくる。高鳴る。動悸と衝動が抑えられない。異常なくらい居ても立ってもいられなくなった。ドクドクと忙しなく脈打つことが、この心臓にもできたのかと思った。いやしかし、このままでは近い将来ストーカーになってしまう。それはよくない。落ち着け。夏油は深呼吸を挟んだ。会いに行こう。会えなければ諦める。探して探して、探し回って、そうやって生きていくのもいいかもしれない。彼を困らせることだけはしない、絶対に。夏油はそう誓ったのだ。
夏油は引っ越しのプロである。身一つと印鑑があれば大抵何とかなるものだ。夏油はいつだって身軽だった。だから、引っ越してきたのが昨日だとしても、毎朝のジョギングは欠かさない。これは学生時代から続けていることだった。新しい街を知る手掛かりにもなる。
そして夏油は開いた口が塞がらなくなった。実際、そんな面は晒さなかったが、内心では激しく動揺していた。だって早々に出会ってしまったのだ。嘘だろと思った。幻覚を疑ったが、本物のようだった。一生分の運を使い果たしてしまったかもしれない。この日、夏油は人生を賭けてでも会いたかった人物、五条悟の目に映ったのだ。
幸せにしたかった。烏滸がましくとも、願っていた。当然だが、それは誰でもいいわけじゃない。愛ってなんだろう。どういう気持ちになるんだろう。夏油の知りたかった答えは、夏油のすぐ目の前でクロワッサンを齧っていた。
本当は、地元の炊き出しの手伝いが終わってから、連絡を入れようと思っていたのだ。でもすぐに、会う約束だけでも取り付けておきたいという欲に駆られた。理由をどうしようと考えた。ただ会いたいだけだなんて正直に言えるはずもない。もし自分だったら即答はしかねるだろう。甘いマスクの彼だが、瞳はリアリストの光を湛えている。ただそう、彼は恐らく甘党じゃないだろうか。ミルクティーと甘いパンを選んでいた。ならばカフェに誘おう。それくらいなら問題ないはず。じゃあ誘い文句は?単にお茶をしようだなんて生産性に欠けるようでは、スマートな彼を喜ばせることは難しい。来て良かったと思ってほしかった。次に繋がる好印象を抱いてほしい。
夏油は美味しいケーキの店を検索した。いくつか候補が上がるが、彼の舌が知らないとは限らない。彼を唸らせるとっておきの武器でなくては。できれば自分で見つけたかったが、餅は餅屋だ。夏油には双子の現役女子高生という強い味方がいるのだった。以前、しつこいナンパにあっているところを見かねて助けたのだが、思いの他懐かれしまい、ちょくちょく近況を報告し合ったりしている。今回初めて、夏油から彼女たちにコンタクトを取った。この街のことを彼女たちが知っているなら幸いだし、場所は問わずに穴場的情報をいくつか教えてもらえたらと思った。結果、彼女たちは大いに応えてくれた。人気のパティシエがこの街で最近オープンしたという店と、全国に散らばる彼女たちお墨付きのショップのURLをすぐさま送ってくれたのだ。定食屋巡りならともかく、カフェ巡りなんて夏油には縁遠いものだったが、五条がいるなら話は別だ。決して甘味が得意とは言えないけれど、その街々で、五条はケーキを、夏油は珈琲を楽しめばいい。そんな旅をする夢を見る。夏油は彼女たちに礼を述べた。もしこちらに来る用事があったなら、その時は奢らせてもらうと約束した。嬉しそうにはしゃぐ彼女たちの声に、夏油もそんな日が訪れるといいと思う。最後に、ひとりで行くのかと聞かれた。一瞬迷ったが、連れて行きたい人がいると答えた。しばらくの沈黙の後、頑張ってね!とユニゾンで言われる。やけに力のこもった後押しで、どうやら恋人でも誘うのだと思われたようだ。当たらずとも遠からず。
夏油はきっと、五条とそういう仲になりたいと思っている。
後日、五条に勧めたのは、タルトタタンというケーキだ。砂糖とバターで煮詰めたりんごにタルトの生地を被せて焼く。一口食べた五条の目が見開かれた。
「何これ、今まで食った中で一番美味いんだけど。飲めるんだけど。何これ」
知らないなら食べてみてくれと五条に懇願され、一口貰った夏油も唸った。なるほど、これは美味い。美味いなと、夏油は神妙に頷いてしまった。甘党ではない夏油の味覚が万歳をしている。絶妙にキャラメリゼされ、極上の滑らかさを纏ったりんごがするりと喉を通っていったのだ。確かにこのりんご、飲める。
「引っ越してきたばっかりのくせに、よく知ってたな、こんな店」
「知り合いに教えてもらったんだ。現役の女子高生。間違いないだろ?」
「女子高生~?どういう繋がりだよ」
「ナンパを助けたんだ」
「うっわ、目に浮かぶわ」
オエーとばかりに五条が舌を出す。
「悟、いい大人がそんな顔しない」
「知りませーん」
「もう」
まるで子供じゃないかと思えど、そんな五条であってさえ、いとおしい。五条のことがいとおしいと思う。恋は盲目と最初に言ったのは誰なんだろう。
◇
合鍵を使い、夏油の家にお邪魔する。五条が手に下げてきた袋には今夜の材料が詰め込まれている。今日の夜ご飯は、本日の主役である夏油のリクエストで、豚カルビのネギ塩炒めだ。あとは味噌汁と切り干し大根、白菜とえのきのスープ。ご飯は新米である。
五条にもついに趣味といえるものができた。料理である。これまでも自炊はしてきたが、今では仕事をしていない時は、ほぼキッチンに立っている。自分が作ったものを、たくさん、夏油に食べてほしいのだ。夏油と出会わなければ相変わらず無趣味を貫いていただろう。味を創造するというのは奥が深くて面白い。夏油が美味いと食べてくれる喜びは、相当のものだった。茶色いおかずばかり作っても、夏油はペロリと平らげてくれる。食わせ甲斐がある。夏油という男は味気もクソもなかった五条を、笑顔ひとつで美味しく仕上げてしまうのだ。
(いや、何考えてんだか)
キッチンを拝借し、夕食を作る。もう数えきれない程ふたりで食卓を囲んだ。時間が合えば遊びに出かけているし、旅行の計画もいくつか立てている。互いにゲーム好きで、本好きだったが、理系脳の五条と文系脳の夏油では度々意見が衝突した。けれど、深刻な喧嘩別れまでには至らない。先に謝るのは五条の方が多い。例え夏油の意地が原因だったとしても、夏油を許せない真似は五条にはできない。夏油も夏油で、自分の非について分からないフリができなくて、先に謝った五条に対して、何故君が謝るのかと更にキレることだってある。言い合いは平行線になり、それでも、段々と表情を無くしていく五条を夏油が見ていられなくなる。そんな時、互いの仲を取り持つのが食卓だった。互いに歩み寄って、食事を作る。五条の腕はここ一年でめきめきと上がっているが、夏油は元から上手い。
五条と夏油が出会ってから一年が経とうとしていた。
「ただいま~」
家主がケーキの入った箱を手に帰ってきた。玄関まで出迎えた五条がお帰りと言いつつ箱を受け取る。今日、二月三日は夏油の誕生日なのだ。
一年前の今日、あのベーカリーショップの前で、ふたりは出会った。店の正式名称はベーカリーショップYAGAという。ウサギだかクマだか判別しづらいガーデンオーナメントが、店の看板横で出迎えてくれる。中に入ると、出窓やレジ横、クロワッサンの入ったカゴの奥に、イヌのようなネコのような形に編まれたぬいぐるみがちょこんと座っていた。ファンシーだか何だかよく分からない。可愛いといえば可愛いし、彼?らが皆手にグローブをはめてファイティングポーズを取っているのも個性的で面白い、とふたりは思う。朝早くから顔を揃えているパンはどれもこれも美味しそうだ。店の常連となったふたりが、たまたま店頭に顔を出していた店主を知った時、その強面に目が点になったものだ。あの美味いクロワッサンとか塩バターロールとかをあなたが?!という失礼な態度を隠しもしなかったというのに、ふたりを上回るガタイの持ち主である店主はコックコート姿で一言、俺のパンは美味いかと聞いた。ふたりは大きく頷いた。
最初、夏油の誕生日を知った時、五条は驚いた。二月三日、夏油と出会ったその日の事を、五条は覚えていた。思わず「言えよ」と突っ込んだ。すると「初対面の人間に自分の誕生日なんて明かさないよ」と返ってくる。それはそうかもしれないが。私ならともかく、よく覚えていたねと言った夏油に、当たり前だろと五条はぼやく。当たり前だった。その理由を、夏油は五条の優れた記憶力で片づけたようだが、そうではない。夏油と紡ぐ記憶の全てが、五条にとっては宝物になるのだ。
一口目の豚カルビを飲み込んだ後、夏油は真顔でこう言った。美味しすぎて絶句する、と。五条がその賞賛をもらうのはそろそろ片手じゃ足りなくなってきた。夏油のリクエストに腕を振るうことは、五条の生活の一部になった。心の内が温かいもので満ちていく。そういう時、五条は夏油の目にとろけるような微笑を刻んでいる。
ジンジャーエールと白ビールで二度目の乾杯をして、ふたりはケーキをつついた。
「そういや、豆とか買ってねえわ。忘れてた」
「ああ」
「福を招くんだっけ?」
「そう、で、邪気を追い出す」
「邪気ねえ。なーんか俺たちには寄りつかねえ気がするんだよなー」
「あはは!ポジティブでいいじゃないか」
夏油が笑う。夏油のこの笑顔が好きだ。毎日見ていたい。その為にできることは何でもしたかったし、料理のように、夏油の為にできることがあるというのは、五条の喜びと直結していた。
夏油の薄い唇が開き、フォークで大きく削り取られたチーズケーキが飲み込まれていく。美味そうだ。夏油が買ってきたケーキだが、情報元は例の双子だろう。夏油がそうやって笑う傍に、自分をいさせてほしい。これから先もずっと。この願いを、五条は今日、夏油に伝えようと思っていた。
「なら、福を招く為にまこうか」
夏油が言う。福なんてわざわざ招かずとも幸せにしてやると、五条は言いたい。傲慢かもしれなくても、心の底から溢れてくる。
「よし、コンビニ行ってくるか」
「大丈夫だってば、私、買ってきてるから」
「はあ?なんだよ、傑、言えよ」
「ふふ」
「じゃあ恵方巻は?」
「君の豚カルビに敵うわけないだろ」
夏油はやれやれと首を振った。声も動きも芝居じみていて、笑ってしまう。余程お気に召しているらしい。
五条にとっての福は、今、目の前にある。
腹も満たされ、少しだけ星見酒にも洒落込んで、ソファに並んで座り、のんびりとテレビを見ている時だった。悟、と夏油が呟いた。五条が視線をやると、夏油は前を向いたまま、けれど瞼は閉じられていた。その横顔をじっと見つめながら、五条はあるだろう続きを待つ。
「これからも、よろしくね」
零れたのは、そんなありふれたセリフだった。言うのも聞くのも馴染みある挨拶が、この時ばかりは五条の胸を突く。当然だ、当然、そのつもりだ。五条はまだまだずっと夏油とよろしくしていきたい。けれど何を今更と、こちらもよくあるセリフで返すことは、五条にはできなかった。だって夏油から五条へ、五条だけに寄こされたものだったから。静かに、優しい声音で、夏油とのこれからが五条にはあるのだと、そう言ってくれたから。
痛いくらいの拍動を抱えて、五条は応える為の言葉を必死に探す。が、次の瞬間、目を瞠った。見つめていた先、夏油の眦から涙が滲んで、頬を伝ったのだ。本人はまるで気付いていないように見える。じっとして動かない。涙はよく宝石に例えられるが、こういうことかと思った。望めば手に入るというものではない、この世の唯一で刹那の雫だ。
五条は拳を握り、体幹に頼りながら、引き寄せられるように夏油の涙にキスをした。
五条はゆっくりと身体を戻す。夏油は時が止まったかのようだった。けれどもやがて、夏油の瞼は持ち上がり、五条を瞳に映す。驚いているようには見えなかった。気付かなかったのかもしれない、とは、思えないのだけれど。
「初めて、涙が出た」
「え」
「出るかもしれないって、思ったから、よろしくだけに、したんだけど」
キスしてもいい?と、夏油が言った。伏せられた瞳から涙はもう出ていない。五条はもう一度その頬に触れたかった。答えることよりも、目の前にいる夏油を待っていられなくて、五条は腕を回した。夏油の腕も五条に回る。
頬と頬でキスをした。直に触れ合った。こんなにも近い。温かい命の匂いがする。目に映る現実を追うように唇を重ねた。胸の奥で震えた何か。それを心と呼ぶのだろうか。己の根源が震えている。
五条が夏油の下唇を吸い上げると、夏油も同じように五条を吸った。
深い吐息を零して、夏油が俯く。途端に寂しくなった五条は覗き込もうとしたのだが、夏油は逃げるように五条の肩に顎を乗せ、そのままぎゅうと抱き締めた。五条にできたのは、それよりも強く抱き返すことだけだった。
「君を、幸せにしたい。私にならできると、言ってくれ」
ゆっくりと、はっきりそう告白した夏油に、五条はぐっと息を飲んだ。そして咆えた。
「オマエ以外の誰にできるんだよ」
咆えたつもりだったのだ。己の声がこうも震えてしまうとは、思ってもみない。
五条は夏油の両腕を掴んで、顔を上げさせた。夏油は五条が初めて見る顔をしていた。少し赤くなっているおでこと眉間の小さな皺が哀願めいていて、五条だけを映す眼差しは上目遣いだ、目元とほっぺは温かそうな色に染まり、唇も、何とも言えず柔らかいと知ったのはついさっきだった。この表情につけられる名前を五条は知らない。知らないけれど問題ないと思った。だってこんなにも可愛い。
今度は五条が、夏油の肩口に甘えてみた。夏油の掌が五条の頭を撫でる。ずっとずっと、こうしたかったのだと思えた。
「大好きだよ、悟」
五条はやっぱり顔が見たくて、夏油と額を合わせた。俺も大好きと、鼻先にキスをする。夏油が照れたように笑った。五条も笑う。胸がいっぱいになって、満ちていく。
何度でも伝えたい想いがある。溢れてくる。想いの全てを伝えなければならないわけじゃない。伝えられるわけもない。
(傍にいてほしい)
(離れたくない)
だっていとおしくて仕方がないのだ。その魂までもが。
あなたに会う為、生まれた時から。