黒限(成長後) 浮気ごっこ黒限 浮気ごっこ
ふわふわのくせ毛は直毛にして、髪の色は明るい茶色に。その上に配達のお兄さんがよくかぶっているような帽子をかぶれば、変装はできあがりだ。顔立ちや体つきは変えていないのだが、ぱっと見たところの、「羅小黒」のイメージとは違うだろう。
小黒は変化術の便利さに改めて感心しながら、帽子を目深にかぶり直し、大きな荷物を玄関扉脇の壁に立てかけた。深呼吸をして、インターホンを鳴らす。
「……はい」
「こんにちは、ご注文の家具のお荷物お届けにあがりました!」
なじみ深い落ち着いた声に、元気よく返す。二、三の言葉のやり取りの後、奥からほとほとと足音が近づいてきて、玄関扉がゆっくりと開いた。
「お世話になります、黒猫家具屋です!」
とびっきりの営業スマイルに対して、奥から現れた涼やかな佇まいの男は、あまり見慣れないそっけない顔だった。
「ああ、そこに置いておいてくれ」
无限がおかしくなってしまったのではない。小黒もおかしくなったわけではない。
これは、そういう遊び……プレイなのだ。
***
話は小一時間前にさかのぼる。
「浮気をしてみないか? いやもちろん、本当じゃなくて、ふりで。私と」
数秒固まったのち、小黒は顔を両手でおおって呻くように言った。
「……見たんだ……」
あれを。この前うっかり机の上に出しっぱなしにしてしまった、ひとには見せられない秘蔵の本を。
仕方がないのだ。小黒は健康で食欲も性欲も旺盛な年頃なのだ。決して、絶対、情人である无限に不満や物足りなさを感じているわけではないけれど、それでも自分一人で処理する時というのはある。あの本のモデルは長い髪がきれいで、後ろ姿自体は似ていないが、ベッドに流れる長髪が少し无限と似ていて、シチュエーションも興奮するもので……。
机の上に置きっぱなしにしたのは小黒だけれど、自分の部屋なのだから悪いとまでは思わないし、かと言って无限も悪くはなく、本の貸し借りなどで留守の部屋に出入りすることは時々あることだったから、つまり、お互いうっかりの遭遇だ。
「死ぬ……」
「小黒、そんな、すまない、そこまで」
真っ赤になって落ち込む小黒を无限がなぐさめたり謝ったり逆に小黒も謝ったりした後、本題に入ったのだが、
「ああいうのが好きなんだろう? 訪ねてきた間男とそういう……」
「ちょっと待ってそれはちゃんと言い訳させてもらいたいんですけどあくまでフィクション! あと処理として! 現実でしたいわけでもあなたにしてほしいわけでもなくてそもそも僕はあなた以外と全然そういうことする気はないんだけどじゃあ何でそんな物持ってるかって聞かれたらうわああああ」
「落ち着いて。お前が私を裏切らないことはわかっているよ。本なのだから、物語を楽しむようなものなのだろう?」
「そう! そうです!!」
无限に言われて、小黒は両手の拳を握って何度も大きく頷いた。その手を優しい手つきでなでながら、无限は微笑んだ。
「だが、物語を読むにしても、好みはあるだろう」
「ま……まあ、それは、はい……」
よりにもよって、どうして昼下がりの若奥様が初対面の間男とダメなのにしてしまうようなモノを置きっぱなしにしてしまったんだろう。小黒は激しく悔いたが、今さらどうしようもない。見慣れた无限の微笑みが、何を考えているかわからなくてちょっと怖い。
「私は小黒が浮気などしないのは分かっているが、そういう願望が少しでもあるのかと思うと、正直妬けた」
「やけ……」
「だから小黒」
无限が小黒の両のこぶしをきゅっと握る。
「浮気をしよう。私と」
***
そういうわけで今に至るのだが、正直なところ、小黒は……めちゃくちゃ興奮していた。
无限が。あの、端正で涼やかで清廉な无限が。小黒にはニコニコしているがよそでは滅多なことで無表情で淡々とした姿勢を崩さない无限が。ベッドでは可愛くねだったり堪え切れずべそをかいたりする人なのに、普段の様子からはそんなの想像もつかないような无限が。
初対面(という設定)の小黒の誘惑に負けて、体を許すことになるだなんて。
正直、めちゃくちゃ興奮する。
小黒は……あくまでフィクション、おかずとしてだが、貞淑な人が、何だかんだで行きずりの男とどうにかなるというシチュエーションが好きだった。
もちろん无限が本当に浮気だなんてことが起こったら、いや起こるはずがないけれど、起こるはずがないのだからそんなことを考える必要はないけれど死ぬほど辛くて悲しいだろうが、考えていると本当に辛くなってきたので続きを考えるのはやめよう。
これは、恋人同士の遊び。合意の上でのプレイなのだ。
……なのだが。
「お客さん、そうは言っても重いし大きいし、中まで運びますよ」
「自分で運べる」
「でも、自分の仕事ですから」
ちょっと強い口調でそう言うと、无限は「……そうか」と仕方なさそうに部屋に入るのを許可してくれた。
「じゃ、失礼します」
脇に立てかけてあった大きな段ボールをよいしょとばかりに持ち上げて、小黒は住居に足を踏み入れた。何の変哲もない2LDKのアパート。玄関は掃き清められて整っていたが、リビングまで来るとさすがに少しは雑然としている。キッチンにはちょうど淹れる途中だったらしいお茶、ソファのあっちこっちに転がるクッション、そして部屋の隅に転がっている壊れたテーブル……。小黒はそっと目をそらし、黙って後ろをついてきた无限を振り返った。
「いい部屋ですね! 設置はここで?」
「ああ、置いておいてくれればいい」
「はは……」
愛想のかけらもなく言い放つ无限に、演技でなく苦笑いが出る。姿勢のいい立ち姿に、さらさらと流れるちょっと見ないくらい長い髪。容貌も整って美しく、これで微笑めば誰だってころっといってしまいそうなのに、雰囲気は触れがたくて硬質な……「ガードが堅そう」な感じ。
无限って、こんなだったかなあ、と小黒は思うが、たぶん、よそから見ればこんななのだ。この人が小黒と仲良く暮らして、しょっちゅうイチャイチャして、時には嫉妬したり変なプレイをしているだなんて他人からすれば信じられないかもしれない。
「お客さん、そういうわけにもいかないですよ。さっきも言ったけど俺も仕事で来てるんで。ちゃんと組み立てまでやらせてください。中途半端にして帰ったって知られたらあとで俺が怒られるんで」
「……じゃあ、頼む」
无限が不承不承頷いたので、小黒は運んできた段ボールを荷ほどきし、作業を開始した。
家具屋という設定でこのプレイを始めたのは、折よく、壊れてしまったものの代わりにテーブルを買ってきていたからだ。何事もなければ无限と二人で組み立てる予定だった。壊れた経緯はひとにはとても言えないのだが、ベッドに行く間も惜しんでテーブルでいろいろしていたら、ついうっかり力が入りすぎて……。
次のテーブルは、脚が金属製のものにした。これなら壊してしまっても自分たちで直せるからだ。
説明書には「最低でも二人以上で組み立ててください」とあったが、小黒にとっては簡単な作業だ。所要時間、三分。金属を使ってふわふわ宙に浮かせたまま、瞬く間に脚をはめてねじを回して、床に置いてがたつきがないのを確かめたら完了だ。
「ふう、疲れたなあ」
小黒はわざとらしく額をぬぐった。
考えていたのだ。浮気プレイということは、どこかで无限いい感じにならなければ。腰を下ろし、距離を縮めて手を取り……とするなら、タイミングは今だろう。
「のどが渇いちゃったな~、お茶とか飲みたいな~」
「……」
ちらっと无限の方を見る。无限から言い出したプレイなのだ、彼にだって今がそのタイミングだと分かるはず……なのだが、何だか反応が鈍い。チラチラと何度も目線を送ると、やっとのことでキッチンに行って……水を汲んできた。
「す、座っていい?」
「……どうぞ」
「あの、よければお客さんも座ってくれません? 一人で座るのも落ち着かないし」
「私はいい」
仕方がなしに小黒は一人でソファに座り、ちびちびとコップの水を飲んだ。无限からは一言もしゃべらず、昨日食べたご飯のことなど話を振ってみるが、にべもない。
……正直、気まずい!
あれ? これ、浮気プレイだよね? 何も始まりそうにないんだけど、始まるんだよね?
小黒は混乱した。无限ときたら、笑顔の一つも見せなければお茶も出さない、隣にも座ってくれそうにない。それともこれは、私を小黒から奪う気ならもっと強気で来い! という、彼からの無言のプレッシャーだろうか? ……ちょっとありそうかもしれない。
「お客さん、ねえ、ちょっと隣に座って話でもどう? 家の人が仕事ばっかでさみしいとかひどいとかない? おれ、話聞きますよ?」
思い切ってそっけなく立ったままの无限の手を引く。返ってきたのは、小黒が未だかつて向けられたことのない凍り付くような冷たい目線だった。
「放せ」
「……ひゃい……」
お買い上げどうもありがとうございました。またのご利用をお待ちしております。
ガードが固いどころかどう見ても不機嫌そうな无限にそれ以上食い下がることができず、小黒は大人しく挨拶をしてアパートの玄関を出た。
「ええ……? えええ……!?」
いや、これはおかしい。こんなんじゃなかったはずだ。一人さみしく過ごしている、貞淑だが実は体の疼きをを持て余している美人と浮気するはずだったのに、普通に何もなく終わった。意味が分からない。
「え!? なんで!?」
さすがにあんまりだ。変化させていた髪をいつもの姿に戻し、くるりと部屋に飛び込むと、さっき追い出されるように外に出た時のまま、无限はそこに立っていた。
「ねえちょっと! 普通に追い返しちゃダメじゃん!」
「小黒!」
さっきまでの態度が嘘のように、ぱーっと无限の顔に笑みが広がった。長い髪を揺らして首に手を回し抱き着いてきて、白くてふわふわの髪に指を差し入れてくる。
「わ、なに、くすぐったいんだけど」
「やはりこっちの方が似合っているよ。お前が、これからさっきみたいな髪型にしたいと言うならそれもいいと思うけれど」
「え? 髪を変えたから怒ってたの?」
「怒ってはいないよ、だが、」
无限は抱き着いたまま、ほんのりと眉を下げる。その顔を間近で見て、この人はもしかして困っていたのだろうかと思いつく。
「小黒と浮気をするつもりでいたのに、小黒じゃない風で来たから」
「だって、浮気ってそういうもんじゃない? それっぽくした方がいいと思ったんだ」
「私はこのままの方がいい。小黒が好きだから」
小黒は徐々に頬が熱くなるのを感じながら、「NGワード決めて始めるべきだったかあ」とぼやいた。途中で止めればよかったのに、自分の言い出したことでもあるし、小黒がノリノリだったから止めるに止められなかったのかもしれない。
「じゃあ、初めからこのまま来てたら僕と浮気してくれたの? どんな感じに?」
「ふふ、そうだな……」
无限が帽子を取り上げて床にぽとりと落とす。隠れていた猫の耳がぴんと立つのを、指先が根元から毛の先までそうっと撫で上げた。濡れたような目が愛しげに細められた。
「あんまり格好いい人が来たものだから、玄関先で誘ってしまうかもしれない。アクシデントを装ってこうして抱き着いて」
「じゃあ僕は『お客さん、大丈夫ですか』って抱きとめようかな。黒猫家具の配達人はやってていいの?」
くすくすと笑って无限は頷く。さっきも髪を変えただけで顔はそのままだったのだから、そんなに違うかな? と思わないでもないが、小黒だって无限が突然髪を染めて髪をくるくるにして他人のふりで迫ってきたら、えーちょっと待ってよと言うかもしれない。
「『ちょっと胸が苦しくて。さすってもらえないか』」
「こう?」
「もう少しやさしく……」
「これくらい?」
「うん……」
小黒に抱き着いたまま、无限はうつむきがちに頷く。流れた髪の間から白いうなじが覗く。いつも思うのだが、野外で任務に当たることが多いのに、どうしてこんなに肌がきめ細かくて日焼けしないのだろう。思わずごくりと喉が鳴った。
「ベッドまで運んで」
「いきなり寝室に連れ込んじゃうの?」
「じゃあ、ソファがいい?」
「そっちの方が好み!」
そんなに広くもない玄関で成人男性を抱き上げるのはそれなりに難しいのだが、そこは鍛錬の成果、どこにもぶつけず抱き上げて廊下を奥へと進む。なにがおかしいのか、小黒の首に手を回した无限が声を立てて笑う。
無事に真新しいテーブルが運び込まれたリビングに到着し、ソファに彼を寝かせて離れようとすると、无限が首から手を外さない。むずがるように首を振って甘える時の声で呼んできた。
「小黒……」
「ダメですよ、お客さん。仕事があるから」
「あとで手伝うから。お願い」
この人に脚をすり寄せて体を引かれてねだられて、抗うことのできるやつがいるだろうか?
「いけない人だなあ。僕からは誘惑の一つもしてないのに、こんな風に」
「だって、小黒が……黒猫家具屋さんが、格好よくて」
「もう、やらしいなあ」
「……好きだろう?」
「うん」
「しゃおへい」
无限が軽く仰向いて目を閉じる。
こんなに可愛いお客さんのお願いなら、聞かないわけにはいかない。
小黒はにやにやしてしまう顔を引き締められないまま、ソファに乗り上げた。
完