Down, down, downDown, down, down
アルハイゼンの執務室へ書類を届けに行くと、明日の予定を聞かれたので砂漠での仕事が終われば何も予定はないことを伝えれば、家に来て欲しいと言われた。
何も珍しいことではない。彼と付き合い始めてからはティナリやカーヴェ達との食事会とは別にアルハイゼンの家へ行く機会が増えた。
機会が増えたからといって何か特別なことをするわけではない。作りすぎたタフチーンを持って行ったり姉弟子から送ってもらった古書を届けたりすることはあるが、家に入ればアルハイゼンは気に入りのソファに腰掛けて読みかけの本を開き始めるし、俺も俺で彼の隣に座って新しいデッキの構築に没頭するだけ。互いに空腹を覚えれば、それを満たし、ごく稀に恋人らしい戯れを少々。
明日はアアル村でキャンディスとの打ち合わせがあるからついでに彼女の得意料理を手土産に持っていくか、と考えながら書類仕事に励んだ。
翌日、砂漠での仕事を終え、一人では到底食べきれないアアルシャコリを持って彼の家に向かう。ノックはしなくていいと言われているものの、他人の家に無断で上がり込むのはどうも落ち着かないので軽く2回叩いた。すぐにドアが開いたのでそのまま玄関を抜ける。ドアが閉まる音を確認して背後の男に手土産を渡せばすぐにキッチンへ足を運んでいた。いつも通りだ。
俺もいつものようにソファに腰掛けると、テーブルに本が無かった。珍しいこともあるものだ。いつもなら何かしら本が置かれているはずだから。
「セノ」
キッチンから戻ったアルハイゼンはいつものようにコーヒーの入ったマグを持っているかと声の方へ顔を動かせば、小さな盆に霧氷花の花蕊と錐のようなもの、そして一対の丸い耳飾りが載せられていた。
「頼みがある」
俺が盆の中身を見たのを確認してからアルハイゼンはそれらをテーブルの上に置いて、定位置に座った。
「俺に開けてくれないか」
そう言ったアルハイゼンがヘッドホンを外しているのに俺はやっと気づいた。開ける?何を?それは聞かなくてもわかる。この耳飾りをするための穴を開けてほしいということだ。でも何故?
「これをつけることに何か意味があるのか」
アルハイゼンは俺の問いに、なるほどと呟いた。
「お前は信仰からこういったものをつけるタイプではないだろうし、そもそも普段ヘッドホンをつけているのだから邪魔になるんじゃないか」
「確かに君が言う通りだ。俺は信仰心が強いわけでもないからな。何かに縋ることも願掛けもしない。全ての結果は自分自身の行動に伴うものだ。そこに気休めを求める時間があるのなら根本的な問題を解決すべきだ」
「色気付いたのか?」
「まさか」
「じゃあ何故」
「だってずるいじゃないか」
「ずるい?」
「君にはいくらでもできるのに、君は俺に何も残してくれないだろう?ならばこうやって形にしてしまおうと思っただけだ」
「……一種の自傷行為だぞ」
ようやっと出た言葉はそれだけだった。アルハイゼンはとろりと瞳を溶かして続けた。
「君にとっては、だろう?だが俺にとっては違うよ。手入れをすれば一時の傷ではなく、一生ものの証になる。だからこれは君から俺への、最上の贈り物になるんだ」
だから君をくれないか?
そう続いた言葉に俺は頷くことしかできなかった。
アルハイゼンに誘導されるがままに彼の膝の上に乗って、先ほどの錐のようなものを握りしめている。アルハイゼンはというと、霧氷花の花蕊で耳たぶを冷やしていた。貫通させるための前準備だそうだ。そう説明されながら手渡された道具をもう一度見つめた。細い針がギラリと光ったような気がする。
これで俺はアルハイゼンに傷をつけるのか。
脳内で言葉にしただけなのに身体が震えた。仕事の過程で負傷することもやむを得ずさせることには慣れたのに、アルハイゼンに傷を残すのは怖い。
そもそも、だ。
こんな繊細なことは専門家にやって貰えばいいだけのことだし、わざわざ旅人に霧氷花の花蕊を調達してもらってまで自分たちでする必要はない。
けれどもアルハイゼンは俺を選んだ。自ら進んで俺に傷つけられるのを望んだのだ。それならば俺も覚悟を決めなくてはならない。
「セノ」
アルハイゼンが霧氷花の花蕊を盆の上に戻した。どうやら準備ができたようだ。
片目を瞑りながらとんとんと耳たぶをつつくアルハイゼンに誘われるように自分も人差し指で触れてみる。
すごく冷たい。俺はここに今から針を通すのだ。
ふう、と息を吐いて指定された箇所を針の先端で狙う。息を止めて狙った場所に押し込めば終わりなのに、指先がかたかた震えて言うことを聞かない。
「セノ?」
いつまでも訪れない痛みにアルハイゼンが目を開いて俺の様子を確認してきた。止めようと意識をすればするほど指の震えは大きくなる。
「セノ」
痺れを切らしたアルハイゼンの声色が尖ったものになる。まずい。早くしないと。せっかく冷やした時間も無駄になる。
するり、とアルハイゼンが俺の左手をとった。そして手のひらを胸の位置へ。
「さすがの俺でも緊張しているんだ。だから君のタイミングでいいよ」
忙しない心音が手のひらを伝って届いた。なんだ、お互い様じゃないか。
いつの間にか震えのとれた右手で改めて狙いを定めて、一気に力を込めた。つぷりと柔らかい感触が不快だった。
アルハイゼンは一瞬だけ顔をしかめたが、すぐに俺の手から道具を奪い盆の上の脱脂綿を傷口にあてていた。俺はさっきのアルハイゼンと比べものにならないくらい心臓が全身を駆け巡って意識がぼんやりとしていた。わけもわからず自分の右手をじっと見る。
「セノ」
頭上から柔らかい声が落ちてきて、頭上にぽんと温かい感触が落ちてきた。見上げると口元まで緩んだ恋人の顔が眩しかった。
「ありがとう、大事にするよ」
その言葉にまた震え出した身体を恋人がそっと抱き寄せてくれた。
左耳には銀色の粒が存在感を表していた。
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「それにしても君に貫かれるのも悪くないな」
「気味の悪い言い方をするな」
「ふっ、そんな顔で言われても可愛いだけだよ、セノ」