美しきケモノ美しきケモノ
愛玩動物を飼っている。
ヒト科、オス。推定年齢20代前半。
銀灰色の髪色に白磁の肌。身長は180cmは超えている大柄な男。
男を飼い始めたのは1ヶ月ほど前。
予備校の帰りだった。
繁華街の外れにある予備校を出て、家まで近道をしてみようと普段は寄り付かない裏路地の道を駆けていた。裏路地というだけあって人はいない。少しすえた匂いと、ごみ箱の影に寄り添うように佇む猫の目が合うくらいだ。どこかジトっと湿っぽい空気を吸い込んでしまえば、ここはやはり通うべき場所ではないと改めて感じる。今後は絶対通らないようにしようと、心に決めて帰り道を急げば、猫よりも大きな影が視界に映った。
人間だった。
路上生活者かと思ったが、この人間の周りに大きな荷物はない。飲んだくれの行き倒れかとも思い、近づいたところでアルコールの香りはしなかった。
ここで救急車か警察を呼んでおけばよかったのかもしれない。けれども何故かあの日の俺はこの男の腕を引っ張って肩に回し、重い体を支えながらのろのろと帰路に着いたのだった。
帰宅後、玄関先にとりあえず男を転がして、浴槽に湯を溜めた。音声ガイドが呼ぶまでクローゼットから養父の服を引っ張り出した。養父が海外出張で不在でよかった。そうでなければ、きっと要らぬ心配をかけさせてしまったに違いない。
先に汗を流して、男の元へ戻って男の頬をぺちぺち叩く。肩を揺すったところで家まで意識がなかったのだ。申し訳ないが叩いた方が反応があるだろうと思った。青白い頬が薄ら赤らんだ頃、男の瞼が動いた。
「……いたい」
ゆるゆると開いた男の目は緑と赤が綺麗に混じった不思議な色をしていた。掠れて低い声は彼特有のものか、それともあの路地に長くいたせいでやられたのかわからない。
「叩いてすまなかった。意識がなかったから仕方なかった」
「……それよりここはどこだ?確か俺は繁華街にいたはずだが」
のっそりと体を起こした男はきょろきょろと玄関を見回した。俺はその問いに答える。
「路地裏で倒れて意識がなかったから、家に連れてきたんだ。風呂は沸かしてあるから入るといい」
「連れてきた?君が?」
「ああ。何か問題でも?」
「あるに決まっているだろう。そもそも君は俺を一人で連れてきたのか?保護者には連絡したのか?」
「上背があったから持ち上げるのに苦労したが、問題なかった。養父(ちち)は海外赴任で実質一人暮らしのようなものだからそこも心配しなくていい」
「ますます問題しかないように聞こえるが」
「それより、あんなところで倒れていたんだから、気持ち悪いだろう。風呂に入ってきたらどうだ?着ている服もまとめて洗うから洗濯機に入れてくれればいい。着替えは新品ではないが、養父のものを持ってきたから使ってくれ」
額に皺を寄せた男に着替えを渡して浴室の方向を案内すれば、彼はため息をつきながら浴室へと向かった。それを確認して俺はキッチンへ。
「あ」
男の名前を聞くのを忘れていたが、後で聞けばいいとすぐに思い直して冷蔵庫から買い溜めしている牛乳パックを取り出した。
男がリビングへ来たのは、俺が牛乳を飲み終わって、スマホのアプリでカードゲームの対戦を3回終わらせた辺りだった。こざっぱりした様子の男は風呂上がりということもあって頬が少し紅潮している。
「助かった。ありがとう」
「サイズは大丈夫そうだな」
「ああ。それと、借りたタオルは脱いだものと一緒に洗濯機に入れてスイッチを入れておいた」
「これからやろうと思ってたんだが、ありがとう」
「いや、世話になっているのはこちらだから礼を言われる筋合いはない」
男は俺の隣に座り込んできた。二人分の重みでソファのバネが沈む。
「何か飲むか?牛乳とお茶、それから水なら常備しているが」
「ああ、じゃあ水を」
「待っててくれ」
俺は一度キッチンへ戻り、客用のグラスに冷えたミネラルウォーターを注いで男へ渡した。男は小さくお礼を言った後、グラス一杯の水を一気に飲み干した。どのくらいの時間意識を失っていたのかわからないが、この様子だとよほど喉が渇いていたのだろう。風呂に入れる前に水分補給をするべきだったかと考え、冷蔵庫からミネラルウォーターをボトルごと持ってきて、ソファの前のテーブルに置いた。男はボトルと俺を交互に見てきたので、足りなかったら飲んでくれとだけ言った。男はそれを聞いて今度は自分でグラスをいっぱいにした。
特段やることがなくなってしまった俺は男を観察することにした。先ほどまで薄汚れた格好をしていて気づかなかったが、男は綺麗な顔をしていた。砂埃でくすんだ灰色の髪の毛は照明の光も反射して元の銀灰色を取り戻していたし、肌も白かった。そして養父のゆったりとした寝巻きからも隠しきれていないがっしりとした肩と丈が足りず少し見える下腹部の割れ目は男が豊かな体格の持ち主であることを証明していた。
まるで彫刻のような男だ。昔、養父が見せてくれた古代王国の彫刻作品は目の前の男のようなものが多かった気がする。水を飲む度に上下に動く喉仏をじっと見ていると、男は飲み干したグラスをテーブルに置いて、こちらを見てきた。あまりにも不躾に見すぎていたから不快に思ったのだろうか。
「アルハイゼン」
「は?」
「俺の名前だ。自己紹介が遅れてしまった」
「あ、ああ。俺はセノだ」
いきなり自己紹介を始めた男に面を食らってしまい、反応が遅れた。男、もといアルハイゼンはセノと俺の名前を繰り返した後に、突拍子もない提案をしてきた。
「頼みがあるんだが」
「なんだ」
「俺を愛玩動物(ペット)としてしばらくこの家に置いてくれないか」
「は?」
駄目だろうか、と問う視線の凄みに負けてしまった俺は気づけば首を縦に振っていたらしい。こうして、俺と愛玩動物アルハイゼンとの奇妙な生活が始まったのであった。