理科室の恋人。理科室の恋人。
アルハイゼンが教師をやってる話。
モブ女の子の視点で話が進んでいきます。
安定のなんでも許せる人向けです。
中庭の主役が桜から藤へと交代するこの時期、私は決まってあの日を思い出す。
旧校舎、藤棚、理科室、そして、アルハイゼン先生。
アルハイゼン先生は私が高校2年の時の生物の先生だった。
先生は学校の中で一番私たちに年の近い先生で、身長も顔立ちもテレビに出ている芸能人に匹敵するくらい整っていた。(いま思えば、芸能人より世界史の教科書に出てくるような芸術作品みたいだった)だから入学式でアルハイゼン先生の紹介を聞いただけで一目惚れしちゃう子達が何人もいた。同性だらけの学校で、親世代(下手すると祖父母)の先生たちばかりだったから、余計ガチ恋勢に拍車をかけていたんだと思う。
でも、そんな熱も入学して数ヶ月で冷めていった。それはアルハイゼン先生が漫画やドラマみたいな先生じゃなかったからだ。
まず、時間に異常に厳しい。
高等部の先輩がたまたま日直の仕事が長引いてしまい、提出締め切りの17時をほんの少し過ぎただけで授業プリントを受け取ってくれなかったらしい。先輩が事情を説明したのにも関わらず、先生は、
「君が自由に使える時間は放課後だけなのか?授業は2限に終わってたはずだが」
と言ってさっさと帰ってしまったそうだ。(そもそもまだ部活の時間だったのに!)
時間厳守なのはもちろんわかるけれど、それにしたって少しくらい大目に見てくれたっていいのに。
次に、授業以外で会えない。
先生はクラス担任を持っていなかったから、会いにいくなら職員室なんだけど、職員室にも滅多にいない。一応、先生の机はあったけれど、他の先生達の荷物置き場になってた。
じゃあ、先生はどこにいるのかというと、旧校舎の第2理科室。
私が入学する少し前に校舎の建て替えがあって、旧校舎は部活の活動場所くらいしか使ってなかったのだけど、アルハイゼン先生はなぜか授業を旧校舎の理科室でやってた。私たちが使ってた校舎にも当然理科室はあったけど、先生はそっちは使わなかった。(おかげで生物の前の授業が体育だと移動だけで時間がかかって大変だった)
噂によると、理科主任の先生を怒らせて出禁にされたからだとか、旧校舎の理科室の方が職員用の校門に近いからだとか(先生は定時退勤で有名だった)、実は理科準備室に住んでいるからだとか。どれも冗談っぽく聞こえるのに、アルハイゼン先生ならそうかもしれないと思わせるのは一つの才能だと思う。
実際、アルハイゼン先生と理科主任が口論しているのをよく見かけたし、新校舎と旧校舎の間に中庭があったから、旧校舎の方が職員口に近かった。根も葉もない噂にしては裏付けがしっかりしていた。
理科室に住んでいる噂だって、先生の使う第2理科室には先生の趣味らしい分厚くて難しそうな本が実験器具の保管用の棚に詰め込まれていたし、おそらくこれも趣味らしい、動物の剥製や生き物の標本も教室の後ろの棚にきっちり並べられてた。
だからいくら顔が良くても変人は無理!って子はたくさんいて、早々にリタイアし中には顔が良ければそれでいいと猛アタックした強者もいたけど、先生は勉強をしない生徒には殊更厳しかったから色々な意味で泣かされてたのもみてきた。
私はアルハイゼン先生の授業が好きだった。理由はシンプル。わかりやすかったから。教科書をそのまま読むだけのつまらない授業じゃなかった。生物の授業は化学と違って実験が殆どないからつまらないのかなって正直思ってたけど、アルハイゼン先生は違った。植物とか受精卵の観察とか、実験ができそうなものは何でもやらせてくれたし、少しだけ黄ばんで年季の入った骨格標本とか鉱石とか資料集でしか見たことないものも実物を(なんで持ってるのかわからないけど!)見せてくれた。正直、先生は熱血タイプじゃないんだろうなって思ってたから、単純に自分が好きだからこういうことしてくれてるんだろうなってわかった。
私は正直ドラマに出てくるような熱血タイプの先生が好きじゃなかったから、アルハイゼン先生の生徒との距離感が心地よかったんだ。だから周りから生物の授業係になっても嫌じゃなかった。係といっても提出課題をまとめて理科室の教卓に置いて置くだけで楽ちんだったしね。(ただ、幽霊が出るって噂の旧校舎に授業以外で行くのは嫌だったけど!)
結局アルハイゼン先生の授業を受けたのは1年間だけで、高校生活最後の一年は受験勉強に明け暮れてあっという間に過ぎていった。卒業式で目元を真っ赤にした同級生たちと抱き合って、それぞれの進学先へと旅立った。アルハイゼン先生に卒業アルバムのメッセージを書いてもらうか迷ったけれど、あの先生のことだから頼んでも書いてくれなかったと思う。でも、今はちょっとだけ後悔してる。
卒業してから母校を訪れたのは、大学3年の春だった。
こんな私だけれど、大学時代は真面目に教員を目指していて、教育実習を母校で行う関係で先生たちに挨拶をしに来たのだ。定年退職した校長先生以外、変わっていない職員室の顔ぶれを見て、なんだかアルハイゼン先生にも会いたくなってしまった。先生たちと談笑しながら壁の時計を見て、アルハイゼン先生がまだ理科室にいるであろう時間なのを確認した。だから、ちょうど話題が途切れたあたりで話を切り上げて職員室から出た。
職員玄関から外に出て、目指す先は旧校舎。現役時代みたく、理科室のすぐ隣の非常口の扉を開けて、靴置き場からスリッパを借りた。パタパタ音を立てながら薄暗い廊下を進めば、見慣れた「第二理科室」の表札。
お邪魔します、と小声で言ってからドアを開けたら、教卓の上に2クラス分のノートが積んであって、ここも何も変わらないんだなって思った。そのまま準備室にいるであろうアルハイゼン先生に声をかけようと、ドアノブに手をかけると、中から人の声がする。誰かいるんだろうか。ここ来る人いたっけ?
私は誰が来ているのか興味が湧いてしまい、音を立てないようにドアノブを回して中を覗いてみることにした。
中にはアルハイゼン先生しかいなかった。先生はドアに背中を向けて座っていて、ちょうど正面の前から中庭の藤棚が見えている。私の方からだとちょうど死角になっているから、絶対先生以外に誰かいるのかもと思って、首を伸ばしてみると、先生の右側に1つ骨格標本があるのが見えた。授業で使ってたやつより小さい、人体の骨格標本だ。あんなのあったっけ?
「君がいなくなってもう10年経つんだ」
アルハイゼン先生の声だ。でもやっぱり人影は見えない。独り言にしては大きい。
「君の好きな藤が今年も綺麗に咲いたんだ。……懐かしいな。君を迎えに来たらいつもの待ち合わせ場所ではなくこの藤棚の中にいたこともあった。藤の花以上に君が綺麗なことを素直に言えずに待ち合わせ場所にいなかった君を咎めたんだったな。あの時は悪かった。青二才だったんだ。物分かりの良い君ならわかってくれるだろう?」
アルハイゼン先生の顔は相変わらず見えないけど、先生は標本の頭蓋骨のてっぺんを撫で始めた。
「早く君に会いたいよ、セノ」
湿っぽい声での先生はそう言って標本全体を抱きしめた。吊り下げられた標本は先生の動きに合わせてぷらぷら動くだけ。私は血の気がさっと引いてしまい、音を立てないようにドアを閉めた。
……なんだかとんでもないものを見てしまった、気がする。どくどくと心臓の音がうるさい。私はスリッパの音にも細心の注意を払いながら気を落ち着けるために第二理科室の中を徘徊する。
先生の趣味で置いてる鉱石、先生の趣味で作った動物の剥製、うん、前と変わらない。それから棚に詰め込まれたこれまた先生の趣味の本たち……。平常心を取り戻すために本の背表紙を眺めていた私は上から2段目の棚の数冊に目が釘付けになった。
「もしかして、これって……」
私はさっき見た光景と見つけてしまった本のタイトルから一つ仮説を出してしまった。いや、嘘、そんな。
心臓がバクバクする。平常心、平常心。深呼吸、深呼吸。あ、そうだ、手のひらに人の字を書いて飲み込んでみる?いや、それは緊張している時にやるやつ!今の状況は緊張?ううん、違う。
これ以上ここにいたらますます知ってはいけないことに気づいてしまいそうになり、私はそのまま旧校舎を後にした。その日は家に帰ってもあの先生の声がずっと耳から離れなかった。
翌年の秋、私は教育実習生として再び母校を訪れることになるが、旧校舎は取り壊され、アルハイゼン先生も姿を消していた。
あの日見た光景をわたしは忘れることはないだろう。今は職場となった校庭で、藤の花が朽ちることがない限り。