波間 扉の向こうが騒がしくなり、誰かの話し声や数人の足音が響く。また面倒が始まったと、水槽の中で身体を横たえていた人魚は目を開いた。
彼は名前をゲンブと言った。大柄で、澄んだ深い青色の魚の下半身を持つ北の海で生まれた人魚だ。ゲンブは住処の魚が激減したことで仲間たちが痩せていくのを見ていられず、住処での漁を禁止することと引き換えに網元であり豪商の家へ嫁いできた。「嫁いだ」と言っても、人間と人魚の婚姻が対等に受け入れられることはなく、ゲンブは商家の新しい商品として見せ物のように扱われている。
鍵が回される音がし、ゲンブは身体を起こした。扉が開くのを、疲労感と底の知れない恐怖を押し殺しながら待つ。しかし扉はいつまで経っても開かない。ゲンブは水槽の縁から身を乗り出し、耳を澄ませた。先ほどよりも人数は少なくなったようだが、廊下を歩く足音は聞こえる。ゲンブはしばらく耳を澄ませ、どうやら客人が来たわけではないと息を吐いた。
客が来たわけではないのなら、部屋の外に出されることはない。先日、屋敷にきた客人が人魚の歌声を耳にしたいと言ったため、ゲンブは夜通し喉を震わせなければならなかった。俺はセイレーンではないと、ゲンブは何度か心の中で愚痴をこぼした。
ゲンブはそのことを思い出し、深く息を吐いた。
「随分と弱っているなあ。そろそろ海が恋しいんじゃないか?」
不意に声がし、驚いたゲンブは魚の足で水面を叩いた。水飛沫に濡れたのか、声を発した何かは不愉快そうに唸り声を上げる。
「何者だ。この屋敷の人間じゃねえな」
「お前さんと話がしたいんだ」
ゲンブは声に聞き覚えがなかった。相手をますます訝しみ、眉間に皺がよる。
ゲンブが警戒した様子で辺りを見回すと、くすくすと笑いながらそれは彼の視界へ躍り出た。
それは月の光を受けて銀色に光る狐だった。4本足で器用にお辞儀のような仕草をすると、水槽の縁に乗り、驚いた表情のゲンブを見てにんまりと笑った。
「猫、か?」
「惜しいな、狐だ。お前さんが住んでいた海の近くに狐はいなかったのか?」
「初めて見た」
ゲンブは狐と呟くと、興味津々といった様子で彼の体を見つめる。
「随分、熱心に見るじゃないか。恥ずかしいな」
バツの悪そうな表情で、すまねえと頭を下げるゲンブに、狐はカラカラと大口を開けて笑った。
「お前さん、好奇心が旺盛だな。その様子だと、こっちへ来てから外をロクに見たことがないんじゃないか?」
「外?」
彼は灰色の瞳を軽く見開いた。瞳の奥が仄かにきらきらと揺れているように狐には見えた。
「屋敷の外だ。こっちはお前さんが住んでいた場所と違って暖かいからな、文化や様子もきっと違うだろう」
ゲンブは知らず知らずのうちに唾を嚥下した。
ゲンブのような北の海の人魚たちは好奇心が旺盛だ。北の海が閑散としているからか、人魚たちの住処には太古から先祖が貝殻に記した、人間の世界でいう「本」が大量にある。北の海の人魚たちは漁の合間や嵐が過ぎ去るまでの間、大抵は自分の興味があることについての貝殻を読んで過ごす。
たとえば、ゲンブの仲間である兄妹と暮らしている青い髪の青年は人間の世界の武闘について書かれた貝殻をいたく気に入っており、何かとあれば同じ貝殻を読み返して描かれている絵の真似をしていた。
ゲンブは特に人間の生活について書かれた貝殻を気に入っており、空で言えるようになるまで読み込んだ。
「俺はその辺の狐と違ってな、ちょっとばかり特別なんだ。お前さんさえ良ければ、外の世界を見せてやれる」
「待て」
ゲンブは狐の言葉を遮り、そんな美味い話があるかと苦々しく呟いた。
握りしめた水槽の縁をつたって、水滴が落ちる。
「俺はこの水槽から出られねえ。もし、お前が俺をここから出せる方法を知っていたとしても、上手い話には裏があるもんだ」
狐は玄武の顔を見つめる。
「なんの見返りもなく、そんなことをしてもらえる理由はねえからな。俺が差し出せるものは少ないぞ、狐」
「そのとおりだな」
狐はそう言うと、水槽の縁から飛び降りた。ゲンブが見えるように月明かりの側へ行く。ぎらりと光った狐の毛並みに、玄武は思わず見惚れた。
「話が唐突すぎた。俺はアメヒコという」
俺はゲンブだと言えば、狐は嬉しそうな顔をして彼の名前を何度も呟いた。
「ここらに昔から住んでいる、ちょいと特別な力を持った狐だ」
パタパタと尻尾が揺れる。やがて尻尾の揺れはぴたりと止まり、アメヒコはゲンブを真っ直ぐに見上げる。
「ゲンブ、俺は本当にお前さんに外の世界を見せたいんだ。どうしてと聞かれれば信じてもらえないだろうが、そうだな……お前さんのことが好きなんだ」
「は?」
ゲンブは狐の姿をいま一度見返し、眉間に皺を寄せる。狐に見覚えはない。やはり騙されているのではないか、何かうまい話を掴まされそうになっているのではないかと、アメヒコを睨みつけた。
「一目惚れというやつだな」
「俺はお前に見覚えがないぞ」
不愉快そうな表情をするゲンブを見て、アメヒコは大口を開けて笑う。
「お前さんは知らないだろうさ。俺がゲンブに惚れた時、お前さんは眠っていたからな」
ゲンブはますます不愉快になって、説明しろと言いたげに唸り声を漏らす。アメヒコは、おいおい食うなよと茶化した。
「この家に人魚が嫁いでくるって話で、一時期ここらは持ち切りでな。俺も気になって見物に来ていたのさ」
「ここへ来た日の話か」
ゲンブは唇を軽く噛んだ。それはゲンブが初めて人間から辱めを受けた日と言っていい。知らず知らずのうちに眠らせ、着飾らされ、目を覚ましたときには狭い水槽のなかで大勢から見下されていた。
同胞へ別れを告げる間などなかった。
突然のことに状況を理解することができず目を白黒とさせていたゲンブを見て、大勢のうちの1人が豪商の男へ声をかける。
「貴殿は買い物上手でいらっしゃる」
ゲンブはこの時、ようやく自分が置かれた立場を正しく理解した。
そのことを思い出し、ゲンブは唇に歯を強く当てる。唇から流れ出た血が水槽の中を淡く濁らせた。
「切れているぞ」
「知ったことか」
アメヒコは「俺はお前さんを見たとき、世界にこうも綺麗な存在がいたのだと震えたんだぞ」とぼやき、ゲンブの肩へ飛び乗った。驚き、咄嗟に身動きが取れなくなった様子の彼の頬へ鼻を擦り寄せる。