*小さな赤子
ぱちり、
鼻をくすぐる塩素の匂いに目を開けた。見覚えのない白い天井が目に入る。
あたりを見渡すとここは個室のようで、俺は困惑した。
無機質な白い壁、木目調の小さな棚があって、足元に目を向けると救護室で見たことのある白い柵のついたベッドに俺は寝ているようだった。
さっきまで、何してたんだっけ。
最近はもうずっと調子が悪くて死ぬんじゃないかと思ってたけど、身体の感覚はちゃんとあるし死んだわけじゃないみたいだ。
だけどなんとなくだるくて、身体を動かしたくない。
「起きたのかい」
部屋を開けて入ってきたのは、弓弦がいたときに何度かお世話になったこの施設唯一の医者だった。
こんなふざけた施設にも、医務室はある。
だけど、ヤブ医者無資格当たり前、使い捨てのコマである俺たちを『建前上』応急初期するための施設だ。
だけど、弓弦みたいなお客様をそこにやるわけにはいかないから、上官専用の医者がいた。それが、この人。
頭のてっぺんがバーコードみたいになっていて、周りに映えた丘みたいな髪の毛は白髪だらけ。
そのおじいちゃんの医者は、内科も外科も眼科も皮膚科もこなす、今思うと超有能な医者だった。
その医者をぼーっとみつめ、そのまま視線を下に下ろすと小さな四角い透明な箱が見える。いわゆるコットってやつだったんだけど、当時の俺は知らない。
「っ!?」
その中に得体の知れないものが動いているのを見て、俺は瞬時に飛び退いた。
「〜〜ったぁ……」
同時に腹に激痛が走り、顔を顰める。
「おお、大丈夫かい……」
「だ、大丈夫、じゃないけど……それ、なに」
震える手でコットを指差す。
老人の医者は、ああ、と相槌をうつ。
「君の腹から出てきた子だよ」
母子共に健康そうでなによりだ、と医者は言った。
「は?どういう意味?」
「君、ここ半年以上はずっと体調が悪かったんだって?……君はね、妊娠してたんだよ」
「妊娠って。おれ男だけど」
「ああ、驚くべきことにね。しかも陣痛が来るまで医者にかからせないとは、本当にここの施設は……」
やれやれと首を振る。
医者は続けた。
あの日、折檻室で冷や汗をかいて泣き叫ぶ俺を清掃員が見つけてここに駆け込んできたらしい。マジで痛すぎて記憶にないけど。
その理由っていうのが、子供を産む参道が俺の場合は限りなく細くてしかもそれが肛門に繋がっていたりと自然な出産が不可能な構造になっていたかららしい。子宮は子供を押し出そうと収縮するけど出口がないし、破水して羊水が子宮内に回ってしまっていたというのもあるらしい。難しいことはよくわからないけど。
「……うそだ」
「本当だ」
「うそだ!」
「本当だよ」
この軍事施設で唯一のこの医者は、毎日たくさんの人間の相手をする。俺だって弓弦のいた頃は何度も世話になったけど、忙しいからかいつもそっけなかった。
だというのに、今は俺だけをみて淡々と説得している。
「医者はもう何十年も続けているが、男から妊娠した事例なんて見たことがない。今調べてみたけど他にも事例は確認できなかった」
「……」
「でも、君が生きて今ここにいることも、ここに赤ん坊が元気にいることも事実なんだよ」
生まれたての赤ん坊なんてはじめてみた。赤い顔で、猿みたいで。
赤ん坊が、ぱちりと目を開ける。俺と同じ、青い目をしていた。
「……俺と同じ色だ」
「ああ、その通りだ。君から生まれたっていう紛れもない証明だね」
触ってみなさい、と医者に言われる。
壊れそうな赤い小さな赤ん坊の頭に指を這わすと、赤ん坊は求めるように顔をすりあげた。
「……あははっ」
かわいーじゃん、とコットに乗り込んで赤ん坊を撫でる。
「さっきまでよく泣いてたんだけどね。お母さんに気に入られたくて必死なのかな」
医者が苦笑する。
「変なの。俺が嫌いになる理由ないのに」
なー?と赤い猿を撫でる。
「……そうかい」
医者は少し待っていてと言いつけて部屋から出ていった。
戻ってきた医者が手に持っていたのは小さな手帳である。
それが何か訊ねると、母子手帳というものらしい。本当は妊娠してからずっと書くものらしいけど、子どもが生まれてからも記録をつけるためのものだという。
「身長は、47.5cm。体重は2510g。血液型は今のところA型だね」
少し小さめだけど、基準値以内だし問題ないと思うよ。と医者は言う。
この赤子の行く末は、きっと俺と同じ。
俺なんかから生まれたから、いくらちゃんとした家に生まれた弓弦の子でも俺と同じ人生を歩むことになる。
あーあ、望んだことだったけどこうなるなんて思ってなかったし。
ごめんな、得体の知れないガキが母親でさ。
医者は養子にでも出したほうが幸せになれるって言ってきたけど、外の世界に出て幸せになれるのかが俺にはよくわかんなかった。物心ついてから、この世界しか知らない。俺が頑張って上官に上りつめて、いい生活させたあげた方がたぶんいい。
もしかしたら養子になった方が幸せかもしれないけどさ。俺は力のない赤ちゃんだったとき、外の世界に捨てられてここにきたから絶対幸せになれるわけじゃないと思う。そう言ったら医者も納得していた。
だから、早急にこの子は軍事施設に併設された乳児院に送られることになった。
その前に、出生届ってやつを出さなきゃいけないらしい。
名前を決めなさいと医者に言われて、悩み込んでしまった。
女の子、女の子。
俺は男なんだか女なんだかよくわかんない名前だから、女の子ってすぐわかる名前がいい。
花の名前、花、花、花、バラとかチューリップとか、そんなのは知ってるけど。
そのとき、はたと思いつく。
いつだったか、演習中に見つけた花があった。
生い茂った草木の中で一際目立つ大きな白い花をつけていたから、弓弦に聞いたんだ。あの花は何て言うのって。あいつは俺が花に興味を持つなんて珍しいとか余計なことを言いながらこれはユリの花だと教えてくれた。花粉が服につくと取れなくなるから気をつけなさいと、花粉をちぎった弓弦がユリの花をつんで俺に渡してくれたんだっけ。
この子の父親は弓弦だから、弓弦も関連した名前がいいだろう。なら、これがちょうどいい。
「……ユリカ。ユリカに、する」
「わかった。ユリカだな」
まだ目もろくに開いていない、3キロにもならない赤子の姿をみたのはこれが最後だった。
軍事施設にも図書室はある。
とはいえいわゆる娯楽本みたいなものはなく、聖書やそれに準ずる本、軽い歴史書や医薬書なんかがあるだけだ。
今までは暇つぶしに聖書を読むくらいだったけど、今日はそこで植物図鑑を見つけた。
不意に赤子の姿が脳裏をよぎる。
あの嘘みたいな出来事はいまだ夢のように感じるけど。腹に残った傷跡はいつ見ても生々しく、これが現実なのだと思わせた。
ここを、でれる。
自由に、なれる。
そう思ったとき、真っ先に浮かんだのはあの赤ん坊の顔。
あのくしゃくしゃで猿みたいな……
赤い赤ん坊。
医者は確か、戸籍は俺に入ってるって言ってた。名前もちゃんと『ユリカ』で登録してあると。
「あら、どなたですか?」
併設された乳児院に入ると、初老の女性が俺に気がついてやってきた。
「……会いたい人が、いる、んですけど」
「ああそう、どなた?」
「……ユリカっていませんか」
「ああ!ユリカちゃんね!」
ここには基本的に施設関係者しか入れない。それ以外の人は名札を下げているので客人だとわかるし、個人情報はガバガバだった。
連れてこられたユリカはお昼寝中だったらしい。眠そうな目を擦って、顔を上げる。
俺と同じ、髪と瞳。顔立ちだって、俺そっくり。
「あらあら、お兄ちゃんとユリカちゃん、こうして見るとそっくりね!」
俺のことを兄だと思っているらしい女性がそんなことを言った。
だっこしてみる?とユリカを渡される。
赤ん坊のときは、壊れそうで怖くて一度もだっこしたことがなかった。はじめての子ども、はじめての幼児。あったかくてふわふわでいい匂いがした。
大きくなったな。これが腹の中にいたなんて考えられないや。
「……なるべく早く、迎えに来ます」
俺の手で育てられるとは思わない。
俺はまだ10代のガキンチョで、俺はこれから七種茨として上り詰めなきゃいけないから。
この子に不幸な思いをさせるつもりは毛頭ない。しっかり稼いで、十分な暮らしをさせてやる。そのために今は、頑張らなきゃいけないんだ。
そう言って俺は乳児院を去った。
ユリカが乳児院を出る二歳の誕生日、俺はユリカを迎えにいって自分が建てた孤児院にユリカを預けたのだった。