キスの日 レッスンが終わった後にSNSを覗いていた朱雀が、今日はキスの日らしいと教えてくれた。彼女の画面を覗いて見ると、以前に共演したアイドルユニットが互いの頬にキスをしている写真が投稿されている。「今日は #キスの日 !」という文章も画像に併せて添えられている。そんな日があるのかと感心していると、朱雀は顔を真っ赤にして私を見ていた。
「なんだよ」
「げ、げ玄武も、雨彦さんとこーゆーこと……すんのか?」
声を潜めた質問に、自分の顔に徐々に熱が集まっていくのを感じた。
とある情報番組に雨彦姐さんとゲストに呼ばれた際、朱雀といるときはクールで頼れる印象を持たれている私が、雨彦姐さん相手だとおちょくられ、年相応に取り乱したり焦ったりする様がそこそこの層に「ウケた」らしい。番長さんが見せても良いと判断したSNSのツイートを見せてもらったが可愛がられているらしいことは理解できた。Legendersと神速一魂の偏り気味だったファン層の新規開拓と何より315プロダクションそのものの広告になるかもしれないと番長さんがこぼしたのを聞いた私は、雨彦姐さんさえ良ければと言って2人での仕事に多少そういった意識をして臨む様になった。
これを世間では「百合営業」と呼ぶらしい。営業の甲斐もあってか、ライブで見たことのないタイプのお客さんに来てもらえる様になったし、今まで来ていなかった類の仕事ももらえる様になった。ありがたい限りだ。
だが、私は本当に雨彦姐さんに惚れてしまった。場の流れで朱雀よりも親密なやり取りをすることになった仕事の後に、さりげなく気遣い、普段通りの距離を取り直してくれた。事務所でも、誰かが悩んでいる時にそっと助け舟を出している。大人然とした立派な在り様に気づけば目が離せなくなり、彼女と仕事がある前日は朱雀の時とは明らかに違う興奮で眠れない日さえあった。このことは朱雀にも内緒にしている。
キスの日を言い訳にして、雨彦姐さんにキスしてもらえないだろうか。そんなことをチラと考え、私は慌てて顔を左右に振った。
「おい、玄武?」
朱雀が訝しげに私を見る。私は朱雀の手から携帯電話を奪うと、画面の電源を落として彼女の方へ放った。
「うおぉっ!?」
「馬鹿なこと言ってねぇで部屋出るぞ。次はWとC.FIRSTが借りてる時間だ」
そう言って部屋を出れば、一拍置いてから朱雀が頭ににゃこを乗せて慌てて出てくる。「自分だって照れてたくせに」と抜かす彼女を睨み、レッスンルームに鍵をかける。
事務所にいる山村さんへ鍵を返しに行こうと顔を上げると、向こうから誰かが歩いてくる。朱雀がそちらへ走り寄ると、同じ様に想楽姐さんが寄ってきた。奥の方から、いくらか遅れてクリス姐さんと雨彦姐さんの姿も見える。
ふいに雨彦姐さんと目があった気がして、私の胸は早鐘を打つ。不自然にならない様に視線を逸らした。
「レッスンルームの鍵、貸してもらってもいいかなー? 次、私たちなんだよね」
「Legendersが? WとC.FIRSTはどうしたんだ?」
「どっちも仕事の打ち合わせになったらしくて、それならって譲ってもらったんだー。プロデューサーさんから神速一魂にメッセージとか来てないかな?」
彼女の言葉に朱雀と私が各々の携帯の電源をつける。ちょうどレッスンをしている時間帯に番長さんからメッセージが入っていた。
「気づかなかったぜ」
「すまねぇな、想楽姐さん。これ、レッスンルームの鍵だ」
私がレッスンルームの鍵を差し出すと、想楽姐さんは鍵を受け取って首を横に振った。
「朱雀ちゃんも玄武ちゃんも、レッスンお疲れ様ー」
手を振って想楽姐さんがレッスンルームに入っていく。クリス姐さんと雨彦姐さんにも「お疲れ様」と口々に言われ、私と朱雀はそれぞれに「お疲れ様」と返した。
雨彦姐さんがすれ違い様に私の肩に手を置いた。どうしたのかと顔を上げれば、雨彦姐さんに肩口に顔を寄せる様に引き寄せられた。
「あとで話がある。待てるか?」
「い、いいぜ」
彼女の艶めいた囁き声は耳に毒で、返答が不恰好に裏返る。
私から体を離した雨彦姐さんは、にっと両目を細めて手を振りながらレッスンルームへ入っていった。私は思わず胸元のレッスン着を握りしめる。顔中に熱が集まっているのが分かって、顔を覗き込んできた朱雀にも「玄武、赤!」と叫ばれてしまった。
前日にWとC.FIRSTからレッスンルームの使用権を譲ってもらったと、北村から連絡があった。
少し早めに事務所へ行くと、既に北村と古論が揃っていた。入り口から段ボール箱を抱えて現れた山村に道を譲りつつ挨拶をすれば、レッスンルームは神速一魂が使用中だと教えてくれた。
「お茶をお出ししますから、どうぞ掛けておいてください」
「悪いな」
事務所の一角に用意されたソファにかけると、北村がにやにやと意味深長な視線を送ってくる。こいつは、またよからぬことを考えているなと思いながら、彼女に視線を合わせた。案の定「雨彦さんさー」と言って、北村は自身がいじっていた携帯電話の画面を私に見せてくる。
「玄武ちゃんと百合営業してるじゃない? 今日って、キスの日らしいよー」
北村の言うとおり、SNSの流行を示すページには「#キスの日」という言葉が並んでいる。彼女が画面をスクロールすると、頬を差し出してユニットメンバーからキスされているアイドルグループの写真が投稿されていた。
反応に困り北村を見ると、彼女は笑みを深める。
「これを口実に、玄武ちゃんとキスできちゃうんじゃなーい?」
徐々に体温が上がっていく感覚がする。ポーカーフェイスを心がけ、こちらに視線を向ける古論と北村に「さぁ、どうだろうな」とはぐらかした。「口実にするなんていけません。そういったことは、きちんと思いを伝えてからにすべきです」と古論が言い、私はますます参ってしまう。
私と黒野は、いわゆる百合営業を行なっている。きっかけは一緒に出演した情報番組でのやり取りで、玄武の可愛さに少々構い過ぎてしまったのをファンがそういう風に受け取ったからだった。黒野はこの扱いを嫌がってはいないかと思ったが、意外にも受け入れてくれた。そのうえ彼女はこのような関わり合いをファンに対してサービスとして行っていこうとまで言った。だが大きな原因は、彼女が尊敬しているプロデューサーがLegendersと神速一魂のファン層の新規開拓と315プロダクションの広告になると呟いていたことだろう。
彼女がどう思って私と百合営業をしてくれているのか分からないが、私は黒野のことを恋愛的な意味でずっと好いていた。だから多少の後ろめたさはあれど、この状況はとても都合がいい。
山村が持ってきてくれたお茶を、三人で世間話や仕事のスケジュールについて話しながら飲んだ。
空になった湯呑みを下げにきてくれた山村が時計を確認して口を開く。
「そろそろ神速一魂のおふたりがレッスンルームの鍵を返しにきてくださいますよ」
「もうそんな時間かー」
「せっかくですから我々がレッスンルームへ行って鍵を受け取りませんか?」
北村が「そうだね」と相槌を打つ。私たちは山村に湯呑みを返すと、事務所を出てレッスンルームへ向かった。廊下を歩いていくと、ちょうど黒野がレッスンルームの鍵を閉めているところだった。北村が紅井の側へ駆け寄り、会話を交わす。鍵を受け取った北村がレッスンルームの鍵を開け、入っていった。古論と一緒に二人に「お疲れ様」と言って続く。
すれ違い様に黒野の顔を見て、北村が「これを口実に、玄武ちゃんとキスできちゃうんじゃなーい?」と言っていたのを思い出す。胸の奥が熱源になって、身体中が火照る。どうしようもない衝動に任せて彼女の肩を掴み、待っていてもらえるかと囁いた。黒野はあっという間に顔を赤くして、首を縦にふる。何度か似た様なやりとりをしているが、いつまでも反応が初心でいじらしい。年甲斐もなくはしゃぎたくなる。衝動を抑えて黒野から離れ、別れを告げてレッスンルームの扉を閉めた。
「雨彦、顔が赤いですよ」
古論が気遣わしげに顔色を伺うので、私は「大丈夫だ」と言って手を振った。