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    タオ_

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    タオ_

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    クダノボ風味ブロマンス寄り小説

    ※モブが喋ります、ネームドキャラとの会話もあります。躾程度の叩く描写が出てきます。クダリさんの幼少期の喋り方がGクダくん由来のものになっています。上記含め捏造が多分に含まれますのでご注意ください。

    Tempo Rubato ターン、と高い音が響く。
     ギアステーションに設置されたピアノは誰でも使えるようもので、音楽家の卵や老紳士、学生までが自由に弾いて楽しめるようになっている。誰かが弾き始めると多かれ少なかれ人だかりができるもので、リクエストをしたり撮影をしたりと利用客の反応も様々だ。しかし今日この時、現れたのは黒のサブウェイマスター・ノボリであったから、すぐにその事実はSNSで拡散されたちまちピアノの前には人が溢れてしまった。
     まだ一曲しか弾いていないんですが……と、少々名残惜しそうなノボリをクダリが迎えにきた。差し出された手を取るようにノボリも手を重ね立ち上がる。エスコートをするその姿は正真正銘どこかの王子様のようで、クダリ様と呼ぶ少女も少なくないと聞くから驚きだ。

     「ノボリ兄さん、だから言ったじゃないか」
     「ですが息抜きは必要でしょう? わたくしはあれが好きなのです」
     「家で弾けばいいと思うけど……それじゃダメなの?」
     「ダメではありませんが、思考が整理されますので。……ダメ、でしたか?」
     「…………ダメじゃない。ダメなんて言わないよ」
     「ふふ、それはよかったです。安心いたしました」

     職員専用通路を通りマスタールームへ戻る途中、クダリに迷惑をかけてしまっただろうかと首を傾げるノボリを見て、クダリはたっぷり三秒は思案したが結局その首を横に振った。惚れた方が負け、とはよく言ったものである。そうでなくともクダリはノボリを甘やかしてばかりだったが。
     クダリの答えに安心したようにノボリが笑ったのを最後に、しばらく二人とも無言のままゆったりと歩いていく。部屋のドアノブへ手を掛けた時、ノボリは言った。

     「クダリも上手いのですから、弾いたらいいのに」


     ▽▲


     ノボリとクダリの両親は忙しい人だった。朝から晩まで仕事仕事の毎日で、家にいるところなど滅多に見たことがない。たまに帰ってきたと思えばあのねあのねと話しかけるクダリの顔も見ず、書類やデータと向き合っている。そうだね、凄いねと言うばかりで相づちにすらなっていないし、荷物をまとめ終えてしまえば尚も話そうとするクダリを抱きしめ、丸いおでこにキスをして風のようにいなくなってしまう。もちろん家を出る前にはノボリにも同じようにしてくれるのだけど、母と同じようにわたくしも愛してますと伝えるのだけど、ノボリにとっては嬉しくなんかなかった。両親が出て行った途端に玄関からリビングへと走ってソファーに飛び乗り、大きな窓から彼らの乗る車が見えなくなってもずっと外を眺めているクダリを知っているから。次はいつ帰ってくるかな、なんて無邪気に笑うクダリを一番近くで見ているから。

     「クダリ……」
     「……わっ、ノボリどうしたの?…さみしい?」

     両親にあしらわれるような様子のクダリを見ているのが悲しくて、自分には何もできないことが悔しくて、ノボリは悲しげな声でクダリの名を呼ぶ。するとすぐにクダリはソファーから飛び降りて、ノボリのもとへやってくる。笑ったり、泣いたり、怒ったり、ノボリはクダリよりも表情が豊かだ。双子は口元以外は全く同じ容姿で、身長や体重はもちろんホクロの位置も全く同じ。だからこの間見たテレビのように、包み込むように抱きしめることはできないけど、クダリはノボリの背中へ手を回した。

     「だいじょうぶだよ、ぼくがいるよ」
     「ちがうのです、わたくしは寂しくないのです……」
     「でもノボリ、泣いてる……」

     子ども特有の大きな目に涙が滲む。クダリは何とかノボリに泣き止んで欲しくて、いいこいいこと頭を撫でた。



     両親がいない間幼い二人の面倒を見るのは彼らが雇った女中であったが、特にクダリはこの恰幅のよい女があまり好きではなかった。何せ小言が多いのだ。あれはダメ、これは危ない。育ち盛りで遊びたい盛り、特にやんちゃなクダリはよく注意されていた。女中の作る料理は美味しかったが、それ以外はぼくに構わないで! というのがクダリの感想で、住み込みだからそれが週に6日も! 残りの一日は休暇をもらっているらしい女中は、土曜日の夜には家を出て行くので、日曜日だけが二人だけで過ごせる時間だった。

     「ノボリ、すっごくいい天気! おきて!」
     「んぐぅぅ……クダリ、まだこんな時間ですよ……」
     「でもきょう日よう日だよ。二人でいっぱい、好きなことできる!」

     ノボリはハッとして飛び起きた。そうだ、今日は日曜日。あの女中が唯一いない日曜日だ。
     目開けちゃダメだからね! クダリに手を引かれるまま二階の子ども部屋からリビングへ、階段を踏み外さないよう慎重に降りていけば電子レンジで温めたミルクと、ハムとチーズを乗せてトーストしたパンがテーブルに乗っている。火や包丁を使うのは危ないからダメという両親の言いつけを守りつつ、クダリは毎週日曜日にだけノボリに朝食を用意するのだ。

     「すごいですクダリ! ブラボーでございます!」
     「えへへ……さめちゃう前にたべよ?」

     ノボリが起きてくるまで多少時間がかかったので、実はパンは少し冷めてしまっていたのだけども、緊張感から解放されているうえにクダリが自分のためにと用意してくれた朝食が美味しくないはずがなかった。ノボリは両手でパンを持ち、大きく口を開けて頬張る。猫舌であるノボリもすぐに飲めるようにと、ぬるく温められたミルクが喉を滑って胃に落ちていく。食べ終えてぽかぽかとしたお腹をノボリがさすり、ふぅとひとつ息を吐いたところで隣に座るクダリが横から耳打ちするように顔を寄せた。

     「きょうはね、デザートもある」

     クダリが丈の短いズボンのポケットから取り出したのは、プチカップのゼリーだった。数日前に女中が出したおやつの残りだ。ノボリはその日に二つとも食べてしまったが、クダリはレモン色の甘いゼリーをひとつこっそりポケットにしまっていた。これを日曜日の朝ごはんのデザートにしよう。ノボリの驚く顔が目に浮かんで、クダリはこっそりと笑顔になった。

     「……ひとつ、ですか?」
     「うん。ぼくこの間たべたから。ノボリこれおいしいって言ってたでしょ?」

     確かにクダリの言う通り、ノボリはこのゼリーを食べた時に美味しいと言った気がする。けれどそれは隣にニコニコと笑うクダリがいたからで、美味しいですねと言ったらクダリも少しずつ食べながらおいしいと、そう頷いてくれたからだった。

     「ぼくね、ノボリがおいしいって言ってたのきいて、これだっておもったの」
     「クッキーとかチョコはふくろに入ってないけど、これはカップに入ってるからね」

     ノボリのデザート! とクダリは言って、ヒトモシがプリントされたマグカップの横に鮮やかなレモンのプチゼリーを置いてしまう。クダリは純粋に、ノボリの喜ぶところが見たいのだ。この双子の片割れが、笑ったり喜んだりしているところが見たくて、いつだってクダリの頭の中はノボリのことでいっぱいだった。

     「では、半分こにいたしましょう? クダリと一緒に食べたいです」
     「いいの?」
     「もちろんです。クダリと一緒に食べる方が美味しいですよ」

     ノボリはそう言って椅子から立ち上がると、キッチンの食器棚を開けてデザート用の小さなスプーンを持って戻ってくる。薄いビニールの蓋をそぅっと開けて、縁に唇をくっつけると玉になって滲む甘い汁を吸った。ノボリの、色素の薄い唇が濡れて光っている。クダリはこの仕草を自分もやってしまうのに、ノボリがやっているところを見てドキドキした。けれどそのドキドキの正体が分からず、それでもじっと見てはいけないかも知れないと空になった皿に視線を移す。ノボリが自分の甘い唇をぺろりと舐めて、クダリがパンのカスの数を数えていると、ノボリが優しくクダリの名を呼んだ。小さなゼリーを小さくスプーンへ掬い、クダリの方に差し出している。

     「わたくしにもくださいまし」

     小さなゼリーはすぐに飲み込めてしまって、甘いなという以外クダリは分からなかった。次はクダリの番だと言うようにノボリはカップとスプーンをクダリに握らせ、椅子の座面へと両手をつきクダリの方へ身を乗り出す。ノボリかわいいな。クダリは少し多めにゼリーを掬って、同じようにノボリへ食べさせてやった。もう一回と、残りのゼリーも掬ってしまう。

     「ノボリ、あーんして」
     「ですが次は、クダリが食べる番です」
     「ぼくノボリにあーんしたい。だめ?」
     「ダメじゃないです!」
     「うん、じゃあおくちあけて?」

     クダリがノボリにあーんしたいと思っているのと同じように、ノボリはクダリにしてもらうことは何でも好きだった。クダリがしたいと思うことは、何でも叶えてあげたいのだ。ノボリ限定でお世話したがりのクダリと、クダリのしたいことをすべて叶えたいノボリ。それは当然、朝食の用意に止まらない。

     「きょうはこれにしよ」
     「はい、クダリのチョイスはどれも素敵ですね」

     朝食を食べ終えて子ども部屋へ戻ると、クダリはクローゼットの中からお揃いの洋服を出していく。いつもの時間に、ノボリはパジャマを脱いで下着だけの姿になった。

     「ノボリさま、まずはシャツだよ」

     色違いの同じ洋服をすでに身に付けているクダリが、ノボリの背後へ回りかしこまった言葉で丸襟で長袖の白いブラウスを広げる。右手、左手と順に袖へ通してから正面に立ち、淡く虹色に輝く白蝶貝のボタンを上からひとつずつ留めていった。子ども部屋の窓から朝日が差し込んで、澄んだ光が二人を包む。ボタンを留めることに夢中なクダリが俯いているので、ノボリは眩しそうに目を細めた。この光が、惜しげもなく晒されたノボリのきめ細かい滑らかな脚に反射すれば、きっと真っ白に輝くのだろう。太陽から隠すようにクダリが立っているせいで、そうはならないのだけど。ぼくの肩に掴まってと、そう促してから膝がギリギリ隠れない長さの短い黒いパンツに足を通してもらう。背中でクロスしたサスペンダーをつけて、ホックを噛ませる。

     「そこにすわって?」

     ノボリが起きたそのままだったベッドの掛け布団を、ひとまず座れるようクダリはサッと手でならす。言われるままベッドへ腰掛けたノボリの足元で、正座から少し尻を浮かせたような、つま先と膝で身体を支えるような形でクダリは踵に座った。黒いハイソックスをソックスガーターで留める。最後にブラウスの襟の下へ深い赤のリボンを通し結べば、クダリは完璧とばかりに頷いた。

     「ありがとうございます。ホンモノのおじ様みたいでした」
     「ほんと? ぼく上手?」
     「ええ、とっても!」

     ノボリが言ったおじ様というのは、父行きつけの仕立て屋の主人のことである。ノボリとクダリは一ヶ月ほど前に、帰宅した父について老舗のスーツ店に連れて行ってもらったのだ。ワックスでピカピカに磨かれたフローリングと、小さく流れるクラシックの音。今までは職人が家に来てくれていたので、ノボリとクダリはなんだか凄い所に来てしまったと身を寄せ合う。父の足元で緊張する二人の隣を、この店の主人のパートナーであるサーナイトがスカートのような白をひらめかせ通り過ぎた。庭に迷い込んだ小さなポケモンとは遊んでいたものの、まだ自分のパートナーたちと出会っていなかったノボリとクダリにとって、初めて見るサーナイトの優美さは息を呑むほどのものだった。
     父と店の主人が話している間、サーナイトは二人の面倒を見てくれていて、特にノボリは目をキラキラとさせていたものだ。クダリはというと、初めて見るポケモンへの興味ももちろんだが、父の方も気になるようで時折そちらへ視線を移す。主人が出来上がったスーツを父へ着せているところをたまたま目にして、とても「大人っぽく」見えた。こうなるとクダリはノボリに「これ」がやりたくて仕方なくて、家に帰るまでソワソワと落ち着きがなく、新しいシャツを仕立てに来たというのに採寸で何度か注意される羽目になった。クダリ坊ちゃん、じっとしてください、と。おじ様を困らせてはいけませんというノボリのひと言でようやく大人しくなったが、クローゼットの中のシャツやジャケットを思い浮かべてはどう着せたらいいかとシュミレーションをしてどこか上の空。
     家へ帰れば早速その日のシャツに合うジャケットを引っ張り出し、あの主人がしていたようにノボリに着せようとする。途中で腕が引っかかり、仕立て屋で見たようには上手くいかなかった。しかしそこで癇癪を起こしたりするクダリではなく、今できないのなら練習すればいいのだと毎朝こうしてノボリに服を着せている。すぐにクダリはコツを掴んだが、ひと月経った今でも飽きることなく、この仕立て屋さんごっこはすでに毎朝のルーティーンになっていた。





     「今日は何をしましょう」
     「ノボリのしたいことなら、何でも!」

     二人は揃って庭へ飛び出した。小さな花が植えられた庭の、柔らかい葉っぱの上を走ってクダリはブランコに飛び乗った。ノボリはすぐに後ろからクダリの背中を押してやると、次第に振り子が大きくなっていく。

     「クダリ、危ないですよ……!」
     「だいじょーぶ! すっごくきもちいい!」

     胸の前で両手を握り不安げに見つめるノボリの心配もどこ吹く風、クダリは目いっぱい漕ぎながら笑っている。最後にえいっと飛び降りると、両手を上げて体操選手のようにポーズまでとって見せた。片割れが空を飛んだその瞬間、ノボリは飛び出す悲鳴を押し込めるように口を押さえたけれど、無事に着地し目を輝かせたクダリの表情を見れば次第に今見たものへの興奮にノボリも手を叩く。

     「クダリ凄いです! すっごく高かったです! ぴょんと! あんなに軽々!」

     凄い凄いとその場でジャンプして、クダリの軌道をなぞるように片手で弧を描くノボリ。こんなに手放しで褒められて、クダリはとてもいい気分だった。女中に毎日小言を言われるのも、日曜日を過ごすためなら全然平気だった。

     「クダリ、わたくしも今のやつがやりたいです!」
     「えっ……! でもノボリ、……ううん、じゃあぼくが教えてあげる」

     慎重で人見知りもするノボリは、いつも前を走るクダリに着いていくような子どもだった。目を離すとどこかに行ってしまいそうなので、クダリはわたくしがきちんと見ていなければ。双子でもほんの少し先に生まれたノボリの、兄心と言っていいのか分からない感情。それでもやっぱり双子なので、クダリのやることはノボリだってやってみたい。
     クダリは心配して言葉を濁らせたが、怖くないところから自分が教えてあげればいいのだと頷いた。

     「ぼくもね、さいしょは怖かったから、低いところからにしよ?」
     「はい!頑張ります!」
     「今はおりれる?ぴょんって」
     「……できました!」
     「カンペキ!じゃあ背中、おすね?」

     今度はノボリがブランコに乗る。ブランコが何も揺れていないまま、まずは座った状態で飛び降りれるかとクダリが聞いた。それはできるらしい。なら揺らしても大丈夫だろうとクダリはそっとノボリの背中を押す。ブランコがちょっとだけ揺れて、ノボリは緊張でロープをいつもより強く握った。

     「ノボリだいじょうぶだよ、力ぬいて」
     「一番はしっこまで行ったらね、その場でぴょんってするイメージだよ」
     「そしたらブランコ、勝手にうしろにいくよ」

     クダリは極力分かりやすく伝えたし、先ほどと比べれば二人の腰までもない、何てことのない高さだったがノボリは怖くなってしまった。

     「ク、クダリ……やっぱり、怖いかもしれません」
     「やめる?」
     「でも……」

     怖いがやめたくはないらしい。どうしたものかと思案して、クダリは正面へ回るとノボリの左手をとった。安定した揺れに合わせて手を上下させる。

     「ぼくがひっぱってあげる。ノボリがえいって飛んでくれたら、ぜったい手はなさないから」
     「分かりました……」
     「ぼくと息をあわせて」

     無言で頷いたノボリに、クダリは笑顔を向けて安心させた。クダリなら立ち漕ぎしていてもジャンプできるような高さだったが、ノボリは繋いだ手を強く握っている。いち、にの、で後ろへ下がったタイミングでノボリの両手を握り、ブランコが上がりきった3のタイミングでクダリは合図した。
     ぎゅっと目を瞑ったノボリはクダリの声を信じて腰を浮かせる。また後ろに戻ってしまうかと思ったが、クダリがしっかりと手を握って離さない。ノボリの足が地面について、少しよろけたところをクダリがぎゅっと抱きしめるように受け止めた。半ば真下に落ちたような状態で、クダリのように綺麗な弧を描いてとはいかなかったが、ノボリの小さな心臓は高鳴った。

     「で……できました!」
     「うん! ノボリできてた! すごい!」
     「クダリが引っ張ってくださったからです! わたくし一人ではとても……!」
     「ノボリががんばったからだよ!」

     くっついたままだった身体を引き、指を互い違いに絡めるように両手を繋ぐ。ノボリとクダリは鈴が転がるように笑いながら、その場でくるくると回った。そのうちに目が回って、二人して柔らかい芝の上に寝転がる。笑いすぎて回りすぎて、しばらく息が整わず横になったまま身体ごと向き合って見つめ合う。

     「毎日日曜日ならだったらって、思う時はありませんか?」
     「……まいにち、朝から夜まで!」
     「でもね、ノボリがいたらぼく、それでいい。ママとパパがかえってこなくても、おばさんにおこられても、ノボリがいたらいい」
     「クダリ……わたくしも、あなたがいるなら何にも寂しくありません」
     「えへへ……ずーっといっしょ」

     二人はしばらく庭で野生の小さなポケモンとバトルごっこをして遊んだり、少し歩いた先の森にある湖へ行ったり、かくれんぼや鬼ごっこをして過ごした。途中でイッシュ地方では珍しいきのみが成っている木を見つけたが、いくら二人が同じ年頃の子どもよりも身長が高いとはいえ、手を伸ばすだけではさすがに届かない。

     「ちょっとまってて。あれ取れるかやってみる」

     落ち着いていて人当たりの良いノボリが人の心の機微を読み取るのが得意なら、好奇心旺盛で観察好きなクダリは身体を使ったりするのが好きで、細かいところによく気がつく。そしてお互い、相手の得意なものはほどほどに不得意だった。
     クダリはきのみを取りに行くべく、ブラウスの袖を捲った。ソックスガーターを外し、先の丸い靴を脱いで、ハイソックスをその中に丸めて押し込む。しばらく正面や後ろから木を見ていたと思えば、最も登りやすそうなルートから軽やかに一番下の太い枝まで上がっていき、そこからまたルートを探してと繰り返してきのみに手を伸ばした。
     枝に抱きつくように腕を回したり座ったり、真っ白に洗濯されたブラウスとパンツは当然汚れて、また月曜日にクダリは心配した女中から小言を言われるのだろう。けれどその実、クダリは怒られることを全く気にしてなどいないのだ。鬱陶しいなとは思っているが、別に雇われの女中を怖いと思ったことはない。ただ女中が注意しだすとノボリがハラハラしているのが分かるので、それは嫌だなとポーズだけ謝っておく。
     クダリがもいだきのみはモモンのみで、木の下でブラウスの裾を引っ張り出し受け止める体勢のノボリに声を掛ける。

     「ノボリ、これ落とすね」
     「はい、ここを狙ってくださいまし!」

     極力柔らかく落としたモモンのみを、ノボリは上手くキャッチした。その間にクダリは行きと同じようにスムーズに下まで降りて戻ってくる。両手できのみを包んで、ノボリは首を傾げた。

     「クダリ、これは何のきのみか分かります?」
     「えっとね、たぶんモモンのみ」
     「思い出せそうでしょうか」
     「……『植物の世界 シリーズ12巻 きのみ編』の148ページ、モモンのみ。一般的に夏頃に多く木になっている。モモンの木の青々としたみどりに淡い色が映えるが、葉の奥に実がなるため見落としやすい。その淡く優しい色味から、表皮の色を指しこの色に似たものはモモン色と呼ばれる。ポケモンに食べさせると毒を分解する効果があるものの、アーボックやハブネークなどの神経毒からベトベターやマタドガスが生成する有害物質による毒まで、あらゆる毒に効果がある理由は未だ解明されていない。特定のポケモンに与えると脚が早くなったり瞬発力が上がることが分かっている。甘く瑞々しい味で食用としても人気のきのみ。だって」
     「なるほど! つまりこれは甘くて美味しいんですね。クダリ、つまみ食いしてしまいましょう?」

     丸々本の内容を暗記しているクダリに解説をしてもらえば、ノボリは両手で大事に持っていたモモンのみを顔の横へと掲げて目を細める。そうして黒いパンツで汚れを拭うように擦れば綺麗に並ぶ歯を覗かせてきのみを齧った。

     「んんっ! すごく甘いです、クダリもどうぞ!」
     「……ん! ほんとだ! これおいしいねノボリ」

     初めて食べたモモンのみはデザートのようだけれど自然な甘さで、走り回って乾いた喉を潤すのにもちょうどいい。ひと口食べてクダリに渡し、ひと口齧ってノボリに渡す。モモンのみはあっという間に二人のお腹の中へ収まった。もうそろそろ太陽がてっぺんに上ってくる頃だとノボリが思った時、不意にノボリのライブキャスターにメールが入った音がした。

     「クダリ、母様からメールが来ました」
     「あれ、もうお昼のじかん?」
     「また先週と同じ所のデリバリーのようです。ボックスに入れてもらいますからすぐに戻らなくても大丈夫ですが、温かい方が美味しいかと」
     「……ぼくのおなかも、ごはん食べたいみたいだった」

     ノボリの話を遮るように、クダリの腹が鳴った。少し食べ物を入れたことで火がついてしまったらしい。恥ずかしそうにはにかみながらぺったんこで薄い腹をさすり、クダリはノボリと自宅へ向かう。庭が見えてくればちょうど配達員が双子の昼食を持ってきたところだった。知らない人が来てもドアを開けないようにと教えられている二人は庭に面している壁から顔をちょこっと覗かせて、配達員がバイクで走り去るのを見ている。排気ガスの音が遠くなればボックスに近づいて、ノボリはまだ温かい弁当を取り出した。母は日曜日は唯一ノボリとクダリの面倒を見る人間がいないので、こうして昼時には仕事先からデリバリーを頼むのである。

     昼食を食べ終えると午前中にたくさん遊んだからか、ノボリもクダリも眠くて仕方なく、先ほどから何度も欠伸をしている。前日にノボリが除菌スプレーを振り撒いたふかふかのソファーからは清潔な香りがして、たっぷりと日に当たりポカポカだ。ノボリはお気に入りのクッションを、クダリはお気に入りの毛布をそれぞれ持って丸くなる。すぐに瞼が落ちてきて、ノボリとクダリは手を握ってお昼寝タイムだ。
     しばらくしてからクダリが目を覚ませば大きな窓から西日が差し込む頃で、すぐ横を見ればノボリは未だ眠っているらしい。上下に揺れる胸とうっすらと開いた唇からは、規則的な呼吸の音が聞こえている。起こしてしまうのが惜しくなるほどの安らかな寝顔をしばらく眺めてから、クダリはノボリを揺すった。

     「ノボリ、おきて」
     「……ん……おはよう、ございます……」

     ぽやぽやとしたノボリを起こしソファーに寄りかからせる。クダリは汗で張り付いたノボリの前髪を横に流して、そのおでこにキスをした。それでノボリはパチッと目を覚まして、クダリにも同じように小さなキスを贈る。そして喉が乾いたねと二人でキッチンへ行って、冷蔵庫からパックの牛乳を取り出した。ほのかに甘くて、お腹も膨らむので、二人はジュースよりも牛乳の方が好きらしい。
     またしてもデリバリーで届いた立派な夕食を食べながら、ノボリはクダリに笑いかける。

     「クダリ、明日はピアノの先生が来てくれる日ですね」
     「ぼくもたのしみ、どんな先生くるかな」
     「優しい先生だと嬉しいですね! 前の人みたいな方がいいです」

     ノボリとクダリは、毎週月曜日はピアノの先生にレッスンをしてもらう。以前両親にオペラへ連れて行ってもらった時に、ノボリがいたくピアノへ興味をもったので、父と母はすぐに先生をつけてくれたのだ。クダリはステージの中央で歌う歌手の方へ興味があったが、ノボリがピアノなら自分もピアノがいいと、結局二人して同じ先生に教わっていたのである。クダリは一度聴くと飲み込みが早いものの、ある程度弾けるようになると興味が次の曲へ移ってしまう。ノボリは最初はたどたどしいものの、完璧に弾けるまで繰り返し練習をするので完成度が恐ろしく高い。一番最初の先生は、完璧でなくてもクダリが次の曲を弾きたいと言えば翌週には楽譜を用意してくれたし、間違えないようにとか楽譜を見ないで弾きたいとか、ノボリが満足するまでひとつの曲を弾かせてくれた。しかしこのピアノの先生は、もうすぐお子さんが産まれるので産休に入ってしまったから、明日からは別の先生なのだ。
     お風呂も入って歯も磨いて、向かい合って磨き残しがないかイーッと確認して。お互いのベッドはピッタリと隣同士にくっついているのだけど、必ず二人はどちらかのベッドの方に寄って、身体を寄せて眠る。そうしたらまた、やんちゃなクダリばかりを注意する女中のいる一週間の始まりだ。
     合鍵を持っている女中はまだ二人が眠る朝早くにやってきて、さっさと朝の仕事を終わらせると後は必要な時以外は二人の好きなソファーへと座っていることが多い。食事をするにも、外へ行くにもそこを通らねばならない。女中にとっては雇い主の子どもが外に出れば分かるので、ちょうど良い場所だった。しかし特にそうする必要はないのだが、クダリは見つかったらゲームオーバー! とこの年代の子どもにありがちなよく分からないゲームをするのでノボリも女中の後ろはなるべく静かに移動する癖がついた。今日も変わらずクダリはノボリの服を選んで着せて、クダリはやっぱり汚した服を怒られて、逃げるように防音室へ転がり込む。

     「もうすぐ先生くるから、おさらい」

     今日は次の曲をやりたいと言ってみよう。クダリは防音室に置かれた黒いピアノの前に座り、軽やかに指を踊らせた。まだクダリほど上手く弾くことのできないノボリは、先生が座るための隣の椅子へ腰掛けて、クダリの指の動きをじっと見つめている。

     「どう?」
     「ブラボーでございますクダリ! もうこんなに上手に弾けるのですね……」
     「えへへ、ありがとノボリ」

     ノボリとクダリは場所を交代した。ノボリは置いてあったクダリの教本を本人に渡してから、自分の本を開く。癖をつけるように真ん中をギュッギュッと押してから閉じてしまわないよう大きなクリップで留めた。そして前のめりになって楽譜を見てから、クダリよりもゆっくりと楽譜をなぞっていく。たまに止まってしまいながらも間違えず最後まで弾き切れば、クダリはわっと拍手した。

     「ノボリもブラボー! やっぱりぼく、ノボリのピアノだいすき」
     「本当ですか? ありがとうございます。ですがやっぱり、クダリは上手ですね」
     「んー……ノボリ、ちょっと場所かわってもいい?」

     ノボリは不思議そうな顔をしながらも、再びクダリと場所を入れ替わった。

     「ノボリ、ぼくのうごき、よく見てマネして」

     同じ曲をもう一度、クダリは先程よりもゆっくりと、ちょうどノボリが弾いていたくらいの速度で弾き始めた。隣のノボリは言われた通りじっ……と見つめて、膝の上に乗せた手をクダリと同じように動かしている。

     「うん、じょうず。そのまま、最後までぼくのマネしてて」

     リズムに乗るようにクダリが身体を揺らせば、ノボリも同じように身体を揺らす。時々ちらりと楽譜を確認するように目線を上げれば、全く同じタイミングでノボリも何もないが目線を上げる。その間、ノボリの手はクダリと同じように、ゆっくりではあるが淀みなく動いていた。これにクダリはやはりと確信する。ノボリは一人で黙々と練習するより、一緒の方がずっと上達が早い。

     「ねえノボリ、いまのぼくを思い出して、もういっかいやって」

     クダリは椅子の端に寄ってノボリが座れるスペースを作る。そこにノボリは移動してきて、鍵盤の上に手を乗せた。できるだろうか。今見たクダリの姿を頭の中に描く。口角が下がって、真剣な表情になったノボリはリズムも息継ぎも、全く同じタイミングで再現した。

     「さすがノボリ! さっきよりもスムーズ!」
     「こう……クダリと同じ動きを意識したら、できてしまいました……!」

     ノボリとクダリは手のひらを合わせ指が互い違いに絡むように両手を繋ぎ、喜びを表すように上下に揺すった。ちょうどその時、ノボリのライブキャスターにリマインド通知が来る。もうすぐレッスンの時間だと二人は立ち上がりリビングへと戻った。午前の仕事を終わらせている女中は、相変わらずソファーでテレビを見ている。ノボリとクダリはキッチンへ少し寄った後そーっと窓に近付いて、いつ車がくるかと同じ方を向いている。そのうちにピカピカの車がやってきた。二人は出迎えに玄関から外に出て、真っ白な車に近付いていく。
     車から降りてきた女は特別若い訳ではなかったが、自然豊かでのどかなこの場所に似つかわしくない、都会的で洗練された佇まいであった。柔らかな地面にピアノ教師の履くピンヒールが刺さっている。二人ははその雰囲気にたじろいで、隣の片割れへ一歩分身体を寄せた。靴の先がこつりと当たる。

     「はじめまして二人とも。……本当にそっくり。どちらがノボリで、どちらがクダリ?」
     「ぼ、ぼくクダリ! はじめまして先生」
     「わたくしが、ノボリです。はじめまして」
     「あら、喋ると分かりやすい。今日は青い方がクダリで、赤い方がノボリね」 

     教師は二人の胸元のリボンを指差した。職業柄長くはないが、鮮やかなターコイズのネイルが爪を飾っている。

     「あの、前の先生とはレッスンの前に紅茶とお菓子を食べてました。先生も、いかがですか……?」
     「いいえ、結構ですよ。あと10分で時間ですから、そのまま部屋に案内してください」

     ノボリは玄関で来客用のスリッパを出しながら首を傾げるが、教師はすぐにキッパリと申し出を断った。実はキッチンにはいつも通り紅茶缶と、三人分のティーカップが用意されていたのだけど、その日一日それが使われることはなかった。

     「ご両親には、一人一時間ずつ指導するようにと言われています。いつもはどちらから?」
     「いつもぼくからやってる。でも毎回ノボリのも見てるよ」
     「では今日からは一人ずつにしてください。集中の妨げになります」
     「でも、わたくしクダリが応援してくださると、いつも頑張れて……」
     「……コンクールの際、クダリは隣にいません。一人でできるようにならないと」
     「コンクール、ですか……?」

     実はこの教師、かなりのエリートであった。かつて指導した教え子たちは、大抵名の通ったコンクールで金賞を受賞した経験があるのだ。大きなスクールに教師として籍を置いていて、レッスンも厳しいことで有名である。ただしノボリとクダリの両親が望んだ人選ではなく、いい先生をというオーダーが少し間違って届いてしまったという不運。そして教師はサービス残業は絶対にしない主義、しかし給料分の働きは必ずする主義であった。なので先程もノボリの言葉にノーと首を振って、今も厳しい言い方をする。その様子を見たクダリは話を遮るように教師に話しかけた、ノボリとこの教師は相性が悪そうだ。

     「先生、もうじかん! はやくやりたいな」
     「ねっ、ノボリも。おわったら見せ合いっこしよ? ヒミツの練習みたいでたのしいかも」

     二階のお部屋で待っててと、クダリは上手くノボリに言って自分は教師とピアノのある防音室へ入った。カバーが開いたままのピアノと、中途半端に引かれて斜めになった椅子と、出しっぱなしの教本が教師の目に映る。天板も見られたが、幸い仕事はキッチリとこなす女中が掃除をしているため埃を被っている訳ではない。

     「前任の先生から話は聞いています。あなたは飲み込みが早いらしいですね」
     「実力を見ますから、弾いてちょうだい」

     じっと見ているのは同じなのに、ノボリが見ている時とは全く違う。腕を組む教師の視線が何となく居心地が悪くて、クダリは椅子に座ったまま足の先を擦り合わせた。それでもクダリは頑張るぞと意気込むように袖を肘まで捲ってから鍵盤の上へ手を置くと、緊張した面持ちで弾き始める。自分のものだが音楽が聞こえてくれば少し緊張もほぐれて、クダリはリズムに乗って気持ちよく指を滑らせていく。こんなアレンジってステキだと思う! クダリが楽譜にない旋律を奏でた瞬間、教師はクダリの手を強めに叩いた。

     「ッ! ……え?」
     「そんな音は楽譜にはありません。きちんと、楽譜の通りに弾きなさい」

     ノボリもクダリも、両親はもちろん、あの女中にだって手を上げられたことはなかった。だからクダリは驚き自分の腕を見て、それから教師の顔を見た。叩かれた場所がピリピリとした余韻を伴って痛む。

     「きちんと弾けばあなたは見込みがありそうです。アレンジなどせず、楽譜の通りに弾きなさい」
     「でも、それじゃ……たのしくない、よ」
     「楽しく弾きたいなら、まずは完璧に弾けるようになってからです」

     凍えるような教師の声音に、クダリはぐっと唇を噛んだ。大人にこんな厳しい目を向けられるのは初めてで、怖くて、そうしていないと泣いてしまいそうだったからだ。その時ふと、脳裏にノボリの姿が過った。自分よりもまだたどたどしいノボリも、同じようにされるのだろうか。クダリはノボリが楽しそうにピアノを弾く姿が大好きだった。優しい先生がいいと、そう言っていた。泣くのを堪えるように、何度も唾を飲み込む。
     教師はクダリの大きな丸い目に涙の膜が張っているのを見て、この子どもも泣くだろうかと思っていたらしい。しかしクダリの口から出てきたのは、泣き声ではなかった。

     「あっ、あのさっ。ぼくがカンペキに弾いたら、ノボリたたかない?」
     「クダリの演奏が完璧なのと、ノボリは関係ありませんよ」
     「ノボリのこと、たたかないで……!」
     「甘いレッスンでは上達しません」
     「上達しなくていいから……!」
     「それをクダリが決めるのですか」

     この言葉に、クダリは黙ってしまった。ノボリだって、クダリと同じように上達していくのを楽しんでいると知っていたから。それでもノボリが叩かれるなんて、クダリには耐えられない。大好きな片割れに、痛い思いなんてさせたくない。

     「……うん、そう。ぼくが決める。ぼくがノボリのぶんまで、カンペキに弾く」
     「ノボリたたいたら、ぼくの先生してたこと、だれにも言いたくないような教え子になるね」

     クダリのこの言葉に、今度は教師の方が黙った。クダリは笑ってはいるが、底知れない不気味さを感じさせるような笑顔である。そして教師の方へ笑顔を向けたまま、先程アレンジを加えて指導された箇所を今度は本当に楽譜通り、寸分の狂いなく弾いて見せた。

     「どう? 先生しだいだけど」

     クダリは己の伸び代を、ほんの少しだけ教師に見せた。その上で、教師に選ばせようとしているのだ。叩かないでと乞うわけでも、癇癪を起こすわけでもない。教師と教え子という立場は明白なのに、クダリは交渉しようというのである。

     「ぼく、けっこう器用なほう。先生、なにか弾いてみてよ」

     教師は訝しむそぶりを見せながらも、クダリの年齢くらいの子どもによく弾かせる曲を四小節分弾いた。クダリはじっとその手を見つめている。弾き終わって、少し間が空いたと思えば、ド、ソ、ラ、と言葉で譜面をなぞってから初めて聴いたばかりの曲を演奏した。それを見た教師はクダリのポテンシャルにいたく喜んで、どちらかが優秀な生徒になればいいと思っていたと、クダリが真面目にやるならばノボリのレッスンでは叩かないことを約束した。
     クダリは安心したが、そうなると当然教師の期待でクダリは普通よりも厳しく指導された。女中に怒られるのはへっちゃらなクダリだったが、教師に叩かれるのは痛い。一時間がやけに長く感じられて、早く終わって欲しいと、クダリは初めてそう思った。

     「ノーボリっ! おわったよ」
     「クダリ! お疲れ様でございました。どうでしたか?」

     やっと終わった。クダリは防音室の外で息を吐いてから、子ども部屋で待つノボリの元へと向かった。
     ……いつものにっこりスマイルで。
     クダリは笑顔を浮かべ、部屋の扉を開ける。ノボリは自分の机に向かい、本を読んでいた。ポケモンの生態について書かれた本だ。クダリの声にノボリは本を広げたまま、回る椅子と半回転する。ヒトモシの描かれたステンドグラスの栞を間に挟み、ノボリは立ち上がった。そしてクダリの元へやってきて、不安を瞳に滲ませながら首を傾げる。

     「先生、どうでしたか……?」
     「、やさしかった! だいじょうぶだよ」

     クダリは、ノボリに嘘を吐くのが苦手だ。いや、吐こうと思えば吐けるのだが、なんと言うか罪悪感が募る。だから今のノボリの問い掛けにもクダリは本当のことを言わなかったが、今しがた厳しくされていたところだったので、心の底から優しいなどとは言えなかった。それでもノボリを怖がらせたくない一心で、クダリは笑顔とともに頷いた。
     ノボリを見送ってから、クダリは一時間が過ぎるまでずっと気が気ではなく、リビングにある椅子に座って何度も壁掛け時計を見てしまう。ノボリにバレないように下ろしていたシャツの袖を少し背中を丸めながら捲って、赤くなった腕を直接さすった。




     おかしい。クダリが最近、腕の出る服を着ようとしない。正しくは、月曜日には腕の出る服を着ようとしない、だ。
     ノボリもクダリも、特別暑がりでも寒がりでもないが、お日様の出ているいい天気の日はクダリは身軽な格好を選ぶことが多く、雨の日はその逆だ。衣替えもとっくに済んで、クローゼットには軽やかな装いがたくさん詰まっているのに。家は空調が効いているので一年中適温であるが、外に出るとやはり暑い。

     あの日、ノボリの指導をした教師はとっても優しかった。初対面の雰囲気から怖かったり厳しいのだと思っていたのだが、間違えても怒るようなことはせず、大丈夫だから楽しんで弾きましょうというのが口癖だった。だからノボリは失敗を繰り返しながらも、今まで通りピアノが大好きであった。
     とっても楽しい、ノボリがそう思うのだからクダリも当然楽しいはずなのに。ノボリは、クダリがピアノのレッスンを楽しんでいないことに、初日から気が付いていた。笑ってはいたけれど、一瞬言葉が詰まったことにも気が付いていた。それでもノボリとクダリは違う人間なので、何か言いたくないことだとか、内緒にしたいことがあるのかも知れないと思っていたからノボリは何も聞かないでいた。でもそれは違ったと知ったのは、先生が変わり三回目のレッスンが終わった後のことである。
     その日は朝から暑い日で、いつものようにレッスンを終えて遊びに庭から森へ出たのだが、照りつける太陽にノボリは袖を捲ったほどだ。クダリも暑いとは言うものの、頑なに服を緩めようとしないので、熱中症になりますよと少し言い合いになったくらいだった。走り回って遊んでいたので、ノボリの忠告が現実になるまでそうかからず、一時間もすればクダリは汗の一滴すらかかず真っ赤な顔になっていた。忠告されていた手前、すぐに身体の不調を言い出すことができずに我慢していたクダリだが、木陰へ入った途端に涼しくなって安心したのか全身から力が抜けてその場にうずくまってしまう。

     「クダリ!」

     呼吸音がハッキリ聞こえるくらいの荒さで息をするクダリにノボリは慌ててしゃがみこみ、額に手を当ててみる。真っ赤な顔に違わず、クダリの身体の内で燻る熱さにノボリは驚いて手を離した。

     「ノボリ、だいじょぶ……だから……」
     「ちょっとだけ、休んだら……」

     クダリはノボリに心配をかけたくない一心で力の抜けた笑みを浮かべたが、少し休んだくらいでは回復しなさそうだった。ノボリは一刻も早くクダリを家に連れて帰らなければと思ったものの、同じ体格のクダリを担いでは行けない。クダリも何とか歩こうと、引っ張られている腕と反対の手を地面について力を込めるが、まず上手く立ち上がることができずにいた。
     しばらく奮闘していたノボリも少し疲れてしまって、一度クダリの腕を離し辺りを見回す。かなり奥まで来てしまったが、一度戻って女中を呼んできた方がよかったか。でもその間クダリを一人にしてしまう。どうしようとノボリが悩んでいれば、森の奥からバチュルがひょこりと顔を出した。木に寄りかかりぐったりとして動かないクダリを不思議そうに見ながら近付いてくる。咄嗟にノボリはクダリを己の胸に抱いて守るようなポーズを取ったが、バチュルはクダリの足元まで来ると二人を交互に見てすぐにいなくなってしまった。バチュルのいなくなった方を見ていたノボリだが、我に返ると早くクダリを何とかしなければと未だ熱い身体に触れた。そこでようやくキッチリと着込んでいるシャツのボタンに気付く。熱中症の時は、体温を下げるといいと聞いたような気がする。ノボリはひとまず上まで留められたボタンを外していった。手触りのいい肌着が見える。前を開けると少し涼しくなったようで、クダリの呼吸が穏やかになった。そのまま腕の方も捲ってしまおうと手を伸ばすが、ここでもクダリは首を横に振る。そんなことを言ってる場合ではないでしょうとノボリが少し怒ったような声を出し、ノボリの手を押さえているつもりらしい弱々しい抵抗を振り切って袖を捲った。

     「……クダリ、これは……」

     そこにあったのは、今日もたくさん指導されて赤く熱を持ったクダリの手であった。今のクダリはどこもかしこも熱いが、ここだけが赤く、うっすらと腫れている。ノボリにはこれが叩かれた跡だとは分からなかったが──何故ならノボリもこれまで誰にも叩かれたことなどなかったので──何かの怪我の跡だろうとはすぐに分かった。

     「ちがうよ、ノボリ。あのね、ぶつけちゃったんだ。だからね、だいじょうぶ」

     ノボリとクダリはいつでも一緒だ。そしてここ一週間、ノボリはクダリが腕をぶつけて怪我しているところなど見ていない。いつでも一緒なのだ。……ピアノのレッスンを除いては。
     ノボリは、クダリがピアノの先生に何かされているとここで気が付いた。恐らくこの腕の腫れも、今日のレッスンでできたものだろう。ノボリが気付いたことを、クダリはまだ気が付いていない。責めて隠されでもしたら大変だと、ノボリは特に追求するようなことはせず、ただ優しく手を撫でた。

     「ぶつけてしまったんですか? それは痛かったですね……腫れていますから、戻ったら冷やしましょう?」

     とにもかくにも、まずはクダリを連れて帰らねばならない。幸い意識はあるのでおぶって行こうとノボリはクダリの前に背中を向けた。

     「……もうちょっとやすんだら、歩けるよ」
     「いいですから! 早く乗りなさい!」

     なおも遠慮するクダリに、ノボリは強めに言った。脱力した人間というのは案外重い。ノボリはふらつきながらも何とかクダリを背に乗せると、一歩一歩と歩き始めた。
     どのくらい歩いただろうか、ノボリは一生懸命に出口へと向かっているがなかなかたどり着かない。普段は何てことない距離が、今はやけに遠く感じる。少し立ち止まり息を整えていれば、不意に脇の茂みが音を立てて揺れた。大型の野生ポケモンだったらどうしようと、ノボリは焦る。クダリを置いて逃げる選択肢はない。ただ歩いているだけであって欲しい、ノボリの願いも虚しく、斜め前から出てきたのはデンチュラだ。ギョロリと、丸い目がノボリを映している。これにノボリの心臓は跳ねて、思わず後ずさった。ほんの二、三メートルだろうか。この程度の距離、ひと飛びで詰められてしまう。ノボリも動かないが、デンチュラもじっと二人を見つめたままで動こうとしない。十数秒間膠着状態が続いたその時、再び脇から今度はバチュルが数体飛び出してきた。何匹かいる内の一体はノボリの姿を見ると、デンチュラを振り返って何か鳴いている。近付いてきた! ノボリが固まっていると、バチュルはデンチュラの上に乗って何度か飛び跳ねるところを見せてから、クダリへ視線を移す。

     「クダリを……運んで、くださるのですか……?」

     このバチュルは、普段クダリと庭でよく遊んでいる個体だ。いつも遊んでくれる人間の匂いがしたので探してみたら、普段は元気に動き回っているというのに今日は何だか元気がない。どうやら体調が悪いようだと分かったバチュルは、群れの中でも大きなデンチュラを連れて戻ってきたのだった。デンチュラは腹が地面に付くぐらい体を低くして、ふわりとした体毛の上にクダリを乗せる。八本の脚に力を込めて元の体勢へと戻れば、心配するノボリと一緒にクダリを家まで送り届けてくれた。
     家が見えてくればノボリは夕飯の下ごしらえをする女中の元へ駆けて行き、クダリの様子がおかしいと訴える。雇い主の子どもに何かあったらしいと聞かされると女中はすぐに走って外へ出て、デンチュラの上で横たわるクダリを抱き上げた。

     「あの、皆様ありがとうございました。近いうちに、何かお礼をしますから」

     ノボリは慌ただしく走る女中をちらと見てから、デンチュラとバチュルたちに頭を下げた。クダリと仲良しのバチュルが、ノボリの頭に飛び乗って小さな脚で抱き着いてくる。デンチュラはバチュルをじっと見た後ひと鳴きしてからノボリに背を向ければ、バチュルを置いたまま住処の森へと戻ってしまった。
     女中はこれ以上何かあってはいけないとノボリも一緒に車へ乗せて、急いで病院へ向かう。手続きの間ノボリはクダリが心配で心配でたまらなかったが、幸い一時間程度の点滴で帰れると聞き酷く安心した。それと同時に、おそらくクダリにキズをつけたであろうピアノ教師を、ノボリは絶対に許せなかった。母に言えばすぐに替えてくれるだろうが、それでは自分に隠していたクダリの我慢が必要のなかったものになってしまう。どうするかとノボリは逡巡した。


     ▽▲


     結局ノボリはその後親に言うこともなく、目が覚めたクダリから「うで見た……?」と聞かれたものの、ぶつけてしまうなんてうっかりさんですねとくすくす笑って見せた。あの時のホッとしたようなクダリの顔といったら、全く素直な弟である。そうしてノボリは何も知らないと言うよういつも通りに一週間を過ごした。
     そして月曜日。ノボリは本当ならもう一度だってクダリにあの教師を近づけたくはなかったが、クダリの意思を尊重するため今日だけは我慢すると決めていた。相変わらずクダリは今日も大層叩かれたはずだけれど、そんなことはなかったかのように交代と笑ってノボリを呼びにきた。微笑みを携えて自分の名を呼ぶ教師を、ノボリは今までのようには見れなかった。それでもどうにかレッスンを乗り越え、いつも通りクダリと二人玄関で見送った。クダリの身体から力が抜ける気配がする、無意識なのだろう。もちろんノボリは気が付いていて、玄関の扉が閉まった瞬間目から涙を零した。

     「っ、クダ、クダリ……!」

     ノボリが泣いている。クダリは驚いたが、すぐに一歩距離を詰め手を握ってどうしたのと訊ねた。ノボリは涙を流しているもののすぐに理由を教えてくれず、視線を手元に落とす。それを追うようにクダリも視線を落としてみれば、ノボリの腕が自分と同じように赤くなっているではないか。クダリはすぐに涙の理由に思い至って、頭がカッとなった。ノボリに手を出した。約束を破った。それはクダリにとって到底許容できるものではなかった。それでもクダリはノボリに怖い顔をしているところを見せないよう、落ち着けと自分に言い聞かせた。

     「ノボリ、先生になにかされたの……?」
     「いつも上手くできなくて、躓いてしまうところがあって……っ、ぅ……!」

     やっぱり叩いたんだ! クダリの疑念は確信に変わった。手を伸ばしてノボリを抱きしめ、頭を撫でる。

     「ノボリ、痛かったよね。アトになるから、ひやそう? ぼくがやってあげる」

     ノボリが考えたのは、クダリに自分で母に言わせる方法だった。ノボリが言えば母はすぐにでも教師を替えてくれただろうが、ノボリにとってそれではダメなのだ。ノボリはクダリなりに、ピアノが好きな自分を気遣ってのことだろうということは分かっていたので、最後までクダリに対処してもらうことにした。
     実際のノボリは教師に叩かれてなどおらず、ただ思い切り何度も己の腕を叩いてつけた跡であったが、ノボリに手を上げられたと思ったクダリの行動は早かった。ノボリの腕を冷やして、涙を拭い、大丈夫だよとほっぺにキスをした。そうしてから母のみならず父にもライブキャスターでメッセージを送った。もちろんノボリの赤くなった腕の写真も付けて。これに気づいた両親は驚いて、もちろん可愛い息子に手を上げるような教師はすぐに替えなければと教室へ連絡した。翌週から、あの教師が二人の前に現れることは二度となかった。ピアノが好きなノボリは先生を変えて習いごとを続けたし、クダリもノボリが習う間は隣に並ぶように弾き続けた。そのうちに、ポケモンバトルへの興味の方が大きくなって、完全に趣味になったけれど。


     ▽▲


     マスタールームへの道すがら、ノボリは幼いころ二人で練習していた日々を思い出していた。クダリがピアノ自体を嫌になってしまわなくてよかった、と。
     ノボリは見えてきた扉のノブへ手を掛けながら、顔だけでクダリを振り返った。

     「クダリも上手いのですから、弾いたらいいのに」

     クダリは肩を竦めて笑う。ノボリ兄さんが、好きなものを、好きなまま大きくなれてよかった。



     「僕はノボリ兄さんのピアノが好きなだけ。聴いてるだけで十分だよ」


     End.
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    タオ_

    DONEノボクダです。
    クダリくんが不意にノボリさんに好きって言っちゃったお話。
    ひとしずく 「ノボリ、すき」

     その日最後のマルチトレインでのバトルを終えた直後、クダリは言ったのだ。ノボリに向かってハッキリと、好き、と。挑戦者もかなり手強い二人組で、正直今までで一番白熱したバトルだったとノボリは思う。ジャッジが「勝者、サブウェイマスター ノボリ・クダリ!」と宣言した瞬間二人は同時に顔を見合わせた。

     ところでわたくしノボリは、それはもうクダリのことが可愛くて可愛くて仕方ないんですね。周りからは似ているだとか、見分けがつかないと言われることばかりですが、わたくしからすればどこが似ているのか! と叫んで差し支えないほどなのです。クダリはとても心の優しい子でございまして、その話も挙げだせばキリがないのですが、例えばつい昨日も大量の書類と戦っているわたくしにコーヒーを淹れてくださったのです。今そんなことで? と思った方がいらっしゃったかも知れません。ですがわたくしの状態を見て淹れてくれるコーヒーは甘さや濃さがその時その時で違いまして、これを心遣いと呼ばずして何と呼ぶのでしょうか。幼い頃から花が綻ぶように笑って、鈴が転がるような声でわたくしを呼ぶのです。そしてクダリといえば、わたくしのやることを何でも、すごいと手を叩いて褒めてくださり、カッコイイと褒めてくださり、さすがノボリ! と褒めてくださるのです。そうです、クダリはわたくしのやること成すこと全て褒めて認めてくださるもので、そんな笑顔の可愛いクダリを大好きにならない選択肢などございませんでした。そう、これは運命、デスティニー。
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    タオ_

    DONEクダノボ風味ブロマンス寄り小説

    ※モブが喋ります、ネームドキャラとの会話もあります。捏造が多分に含まれますのでご注意ください。
    ジャックポット・ジャンキー さあ行きますよクダリ! なんてはしゃいでぼくの手を引く兄さんをあの時ちゃんと止めてれば良かった。兄さんの目の前に積まれていくチップの山と、ギャラリーの視線にクダリは頭が痛くなってきて、溜息を吐くとともにこめかみを押さえたのだった。

     いや、最初のうちはよかったのだ。赤か黒か、奇数か偶数か、ハイかローか。これはどうやるんですか? ノボリが慎ましやかに尋ねるものだから、黒服も初心者向けのルーレットの卓を案内してくれて、イチから丁寧にルールを教えてくれた。飲み込みの早いノボリはすぐにルールを理解して、持っていた二〇万円分のチップをあっという間に倍にした。あとから考えれば、まずそれが良くなかったのかも知れない。倍になった辺りでディーラーから声を掛けられて、今やっている一枚一〇〇〇円のチップから、一枚一万円のチップを使う卓に移動した。しかしそこでもノボリは勝ち続けて、あんた強いから向こうでやっておいでと、今は一枚一〇万円のチップを使っている。
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