おおかみノボリとひつじのクダリ あるところに、大きくてそれはそれは広い国がありました。真ん中には空にも届くくらいの大きな山があり、山の周りはひつじたちの住処、山はおおかみたちの住処でした。
ひつじの住処は一年中柔らかい草が生い茂る原っぱがあって、おおかみたちも滅多にそこまでは降りてきませんから、ひつじたちはお喋りを楽しんだり眠くなったら眠ったりして過ごしていました。
おおかみの住処は荒っぽい場所でしたが、毎日駆け回っても飽きることのない土地や、お腹が空いたらすぐ近くのひつじを一匹二匹捕まえてペロッと食べてしまえるので、おおかみたちはこの場所が好きでありました。
「ねぇ、あれはなに?」
ある夜のこと。首を伸ばして、空から落ちてくる光を指し訊ねるひつじがおりました。彼は名前をクダリと言いました。クダリはひつじたちの中でも特に身体が大きかったですが、その優しい笑顔と穏やかな喋り方で皆の人気者でした。
「あれはね、お空の星だよ」
群れの中でも一番長生きのおばあちゃんが、クダリの指した方を見上げてから言いました。
「お星さまが落ちてくるの? それって、すっごく大変じゃない?」
「あれはねぇ、お願いを叶えてくれるお星さまなんだよ」
「お願いを?」
「そうよ。ぎゅっと目を瞑って、心の中でお星さまにお願いしてごらん」
次々と落ちてくる流れ星を見上げ、クダリはおばあちゃんに言われた通りにくりくりとしたおめめをぎゅっと瞑り、心の内でお願いを唱えました。
ある夜のこと。首を伸ばして、空から落ちていく光を見つめるおおかみがおりました。彼は名前をノボリと言いました。ノボリはおおかみたちの中でも特に身体が大きく、その乏しい表情とかしこまり過ぎる喋り方もあってよく一匹でおりました。
ノボリは落ちてくる光が星だと知っていました。年頃の女の子たちが、星の降る夜に願い事をすると叶うとお喋りしていたのを聞いたことがあったからです。
「願いごと……ですか」
一匹で山の上から呟くノボリの鳴き声は、夜に溶けて消えました。
それから数日経って、最初に星が降った日よりもずっとずっと多くの星が流れました。それはひつじたちとおおかみたちの願い事の数だけ降っていたのです。もちろんクダリのお願いも、神様はきちんと聞いておりました。
一際ぴかぴかと白く光るお星さまを見たクダリは、お星さまの落ちる方へと駆け出しました。一生懸命に四つの足をぴょこぴょこと動かし、駆けていきました。
白い光は、山の麓の大きな木に落ちました。クダリは走りながら、その木の根本に何かいるのが見えました。きっとひつじの誰かが眠っているのだろうと、クダリは一層脚をぴょこぴょこ動かしました。しかし大きな木の根本に眠っていたのは、真っ黒でスラリとして、とっても怖そうなおおかみでした。
それは普段はあまり山から降りてこないノボリでしたが、今日は流れる星であんまり空が明るいので、麓の大きな木まで降りてきて静かに眠っておりました。夜のいきものたちの声を聞きながら眠っていたノボリでしたが、ふと自分の方へ駆けてくる足音に横たわったまま首を持ち上げ辺りを見渡しました。少し離れた所にいたのは、真っ白でふわふわで、とっても美味しそうなひつじでした。
「………………ぼくの運命のつがい!」
少しの間見つめ合ったクダリとノボリでしたが、沈黙を破ったのはクダリでした。突然鳴き声を発したかと思えば、そのままノボリの方へ飛び込んできたのです。これにノボリは本当にビックリして、思わず固まり目をぱちぱちとさせました。
「なっ!? えっ!?」
驚いて身動きの取れなかったノボリのお腹に、クダリが覆い被さるように抱き着いてきたのです。これがノボリでなくお腹を空かせた他のおおかみであったなら、クダリはぺろっと食べられていたでしょう。しかしクダリはおめめをキラキラと輝かせて、ノボリのお腹に鼻先をすり寄せました。
「う、運命!? なんですかあなたは! 食べてしまいますよ!!」
ようやくこの異常事態とも呼べる状況に頭が追いついたノボリは、目の前のふわふわで美味しそうないきものに半ば悲鳴のような鳴き声を浴びせました。しかしクダリは怯みません。なぜならこのおおかみからは、自分を食べてやろうという気配が感じられなかったのです。
「ぼくね、お星さまに【運命のつがいと会えますように】って、お願いしたの。それでお星さまを追ってきたら、きみを見つけちゃった! きみがきっと、ぼくの運命のつがいだよ!」
そう言われてノボリは、数日前に自分が願ったことを思い出しました。しかしノボリもおおかみのプライドがあるので、できる限り怖い顔をしてクダリを見つめます。
「わたくしは、おおかみです。その気になればあなたのことなど、お耳のてっぺんからヒヅメの先までバリバリと食べてしまえるおおかみなのですよ」
「ぼくのこと食べたいの? えっとね、いいよ! 大事に食べてね!」
ノボリの怖い顔も何のその、クダリは頭を下げるようにして、白く柔らかな耳を差し出してきました。鼻先に近付いた美味しそうな匂いに、ノボリはごくりと喉を鳴らしましたが、いらないと言うようにそのままぐいと頭で押しやります。ノボリほど忍耐強いおおかみが他にいるでしょうか。
「いりません、ほらっあっちへ行きなさい」
「あれ? 食べないの?」
「お腹が空いていないのです、見逃して差し上げますから群れに帰りなさい」
「……じゃあぼく、きみの非常食になる! それなら一緒にいてもいいでしょ?」
「はい!?」
「きみのお腹が空いたらね、ぼくをぱくっと食べていいよ」
ノボリはもう、訳が分かりませんでした。いっそこの、ふわふわで美味しそうないきものが恐ろしくすらありました。
「おおかみに、食べていいよ、などと言うひつじがおりますか!」
「えへへ、ぼく?」
クダリは首を傾げてにこにこしておりました。
ノボリのお腹が空いていないというのは本当でしたが、こんなに近くでひつじをまじまじと見る機会などなかったものですから、まるで獲物を見るように上から下まで眺めてしまうのは仕方のないことだったのです。だって何しろノボリは、同じおおかみたちからも怖がられているのですから!
「ぼくクダリ、ひつじのクダリ。そんなにじーって見られると少し、恥ずかしい……」
「何なんですかあなたは!!」
前脚のヒヅメを擦り合わせてもじもじとするクダリに、首が取れるのではというほどの速さで顔を逸らしたノボリでしたが、やがて再びその場へ体を横たえました。言葉が通じないようなので、クダリを追い払ってもう一度眠ってしまおうと思ったのです。これ以上自分が構わなければ諦めるだろうと、ノボリは考えたのでした。
「……あなたとわた」
「クダリ! あなたじゃなくて、ぼくクダリ!」
ノボリの言葉を遮る形でクダリは再び自分の名前を口にしました。
「……クダリ様と」
「ク、ダ、リ!」
違う違うと、有無を言わさぬ雰囲気のクダリにノボリは再び怖い顔を向けてみましたが、名前で呼ばれることを少しも疑わないクダリのキラキラとした視線に一つため息を吐きました。
「…………クダリ、と、わたくしは運命ではありませんし、非常食にもいたしません。早くどこかへお行きなさい」
最後に前脚をちょいちょいと揺らし、群れへ帰りなさいと促します。それからノボリは、もうあなたの相手はしませんよと言うように頭を低く下げて地面へ伏せると目を瞑りました。するとどうでしょう、しばらく周りをウロウロとしていたクダリも隣に寝転んできたのです。
「お休み中だったもんね。ぼくも一緒に寝てもいい?」
しかし寝たふりを決め込むノボリはクダリの問いかけに答えません。鼻先で顔の横をつついたり前脚で脇腹をふみふみしていたクダリでしたが、ノボリは本当に眠ってしまったのだと思い、普段群れでしているようにノボリへと身を寄せクダリも目を閉じました。ノボリにとって、こんな温もりは初めてでした。クダリは隣で子守唄を口遊んでおりました。それは、群れのおばあちゃんがいつもクダリに聴かせてくれていたお歌でした。寝たふりをするだけのつもりだったノボリでしたが、ミルクのいい匂いと優しいお歌に包まれて、翌朝までぐっすり眠ってしまったのです。
眩しい朝の光で、ノボリは目を覚ましました。何だかお腹の辺りが暖かく、お腹の空くいい匂いもしています。微睡のままに、暖かい方へ目を向けました。そこにはなんと、未だにすぴすぴと寝息をたてているひつじがいるではありませんか。飛び退いたノボリはそこでようやく昨夜のことを思い出し、夢ではなかったと、辺りにおおかみの群れはいないかと見回します。幸い、ここにいるのは自分とこのひつじだけだとノボリは安心して大きく息を吐きました。
「ん……おはよう?」
ノボリが起きた気配にクダリも目を覚まし、眠たそうにあくびをしました。毛繕いをするように前脚を舐めてから呑気に笑顔を向けるクダリを見たノボリは、こんなにハラハラしているのが自分だけのようなのが何だか悔しくて、意地悪をしてやろうと柔らかくてふにふにしたお耳へカプッと噛み付いたのです。
「わぁっ!」
急に食べられると思っていなかったクダリはとっても驚いて、その場でぴょんと飛び跳ねました。
「ぼ、ぼくのこと、食べる?」
「おや、嫌なのですか? 昨日は非常食になると言っていましたのに」
「嫌じゃないもん! あ、あのね……ぼくの毛、あったかいからね。きみが冬を越すのに使って欲しいからね、綺麗に食べて欲しいなって!」
ノボリはそれを聞いて目をぱちぱちと瞬きました。思わず甘噛みをしていたお耳から牙を離せば、ひと思いにやっちゃって! とクダリはころんとその場に寝転びます。これにノボリはすっかり毒気を抜かれてしまって、クダリへ背を向けると呆れたように険しい山の方へと去って行ってしまいました。クダリは慌てて起き上がり、山の麓までは追いかけて行きましたが、それ以上先へは入ることができませんでした。運命のつがいは怖くないけれど、おおかみの住処は少し怖かったのです。
「ぼく! 今日の夜もあの場所に来るから! だからきみも来てね! 絶対だよ!」
ノボリは後ろから聞こえる声に返事をしないまま、軽やかに険しい山肌を駆け上って行きました。辺りにはしばらく、クダリが絶対だよ約束だよと鳴く声が響いておりました。
クダリが群れへ帰ってくると、仲間のひつじたちが集まってきました。昨日はどこにいたの、心配したよと口々に喋っているのをクダリは変わらずにこにこしながら聞いています。
「えっとね……運命のつがいに、会えちゃったんだ」
「えっ!」
「運命のつがい!」
「クダリ、お星さまにお願いしたの?」
「……えへへ」
「いいなあ、おれもお願いしたのに」
クダリは恥ずかしそうにはにかみました。けれどどんなひつじなの、と尋ねられると、まさか相手がおおかみとは言えませんから、少し考えるように視線を揺らし、短くひと言答えて走って逃げてしまいました。
「内緒!」
皆は逃げたクダリを追いかけましたが、一番大きなクダリに追いつける者はおりません。これに皆は、きっと内緒にしたくなってしまうくらい素敵なひつじなんだと想像を膨らませました。クダリの運命のつがいなのだから、くるりとカールした毛がオシャレなんだとか、鳴き声が鈴の音のように軽やかなんだとか、どの群れのひつじだろうとか、次こそは自分もと皆話しておりました。クダリはその日一日中とってもとっても幸せで、今夜会えたらあそこに美味しい葉っぱがあるとか、いい匂いのするお花があるとか、秘密にしているキラキラの石を見せてあげてもいいなと思って自然と笑顔になってしまいました。
夜になるとクダリは、もちろん約束──クダリがそう思っているだけなのですが──の通りにあの木の根元へやってきました。どうやらまだノボリは来ていないようでした。昼間にお花畑を転がったので、クダリのふわふわの毛は素敵な匂いで満ちています。その中でも一番素敵な白いお花を、クダリはノボリへのプレゼントとして持ってきておりました。運命の番に会うならオシャレをしなくちゃ! クダリは後ろ脚を折りたたみその場へ伏せると、前脚をぺろぺろと舐めて毛繕いを始めました。
月も真上に登った頃。まだかなぁ、まだかなぁとうとうとしているクダリのお耳が、足音を捉えました。ノボリだ! クダリが慌てて立ち上がり辺りを見渡せば、やはり視線の先にはおおかみがおりました。しかも三匹も。クダリの前に現れたのは、涎を垂らした三匹のおおかみだったのです。ノボリではありません。
「お、おおかみだ……!」
ノボリと同じ姿形をしているのに、中身は同じなんかじゃありません。この三匹は、クダリのことを美味しいラム肉としか思っていないのですから!
これにクダリは慌てて逃げ出しました。硬いひづめで地面を目いっぱい蹴って、全速力で走ります。もちろんおおかみも、群れからはぐれたであろうひつじを逃がすはずありません。
クダリは一生懸命走っていましたが、途中であの白いお花を落としてしまいました。クダリは慌てて少し戻り、柔らかい葉っぱを鼻先でかき分けお花を探しました。無事にお花を見つけたクダリは、今度は落とさないようにとしっかり咥え直し再び走り出そうと顔を上げましたが、既におおかみたちに囲まれてしまっていたのです。
じりじりと距離を詰めてくるおおかみは、クダリを脅かすように低い唸り声を上げました。クダリは足踏みしながら、三匹の鳴き声が聞こえる度にそちらへ顔を向け怯えました。
「ノ、ノボリ……」
クダリの泣きそうな声が静かな夜に溶けていきます。その名前を聞いたおおかみたちは、仲間うちで笑い始めました。
「おい! 聞いたか! ひつじの仲間にもノボリってやつがいるらしいぞ!」
「オレあいつのこと思い出しちまった!」
「オレもだ!」
おおかみたちはゲラゲラと大口を開けて笑いながらもクダリを逃すつもりはないようで、少しずつ距離を詰めてきます。けれどクダリだって、ここで食べられるわけにはいきません。固いひづめで地面を蹴って草を寝かせた上にお花を置き、三匹の中で一番大きなおおかみの方を向くとキッと鋭い視線で見据えました。
「ぼくはノボリの非常食なんだから! きみたちになんか絶対食べられない!」
頭突きするように走り出したクダリでしたが、頭がおおかみにぶつかる前に「ギャッ!」という声と、何かが空から落ちてくるような鈍い音がしました。顔を上げて目の前を見れば、一番大きなおおかみが地面に倒れているではありませんか。いいえ、一番大きいのは、クダリを助けるべく全速力で駆けてきたノボリでした。ノボリはすぐさまクダリを背におおかみとの間へ入ると、未だ地面に伏せているおおかみに向かって声を張り上げました。
「これは! わたくしのひつじだ! 薄汚い真似をするな!」
ノボリのあまりの剣幕に三匹のおおかみはすっかり怯え、慌てて走り去っていきました。だっておおかみたちは、いつもノボリを怖いと思っておりましたから。ノボリは三匹の姿が地平線の向こうに消えるまで、牙と爪を剥き出しに低く唸っていましたが、やがて姿が見えなくなると力を抜いて息を吐き出しました。これで明日から一層遠巻きに見られてしまう。クダリに文句の一つでも言ってやろうとノボリは息を吸い込み後ろを振り返ると、当のクダリはにこにこした笑顔で白いお花を咥えていました。
「まったくあなたは!……なんです、その顔は」
「ノボリ来てくれたの、とっても嬉しくて。ふふ、これノボリにプレゼント。きみの黒い毛並みにすっごく似合うと思う!」
おおかみはひつじのようにふわふわの毛並みではありませんから、クダリのお土産がノボリの毛を飾るのは少し難しいことでした。
「わたくしがいなければ、今頃彼らの夕食だったのですよ!……わたくしの非常食だというなら、寿命を縮めるようなことはやめなさい」
「!! ノボリ! それって!」
「そんな顔をしないでください。あなたはわた」
「クダリ!」
「……クダリはわたくしを怖がりませんし、いざという時に食べられるものがあるのは悪いことではないと思っただけです」
「それってノボリがぼくを運命のつがいだって認めてくれたってことだよね!」
「…………は?」
「ぼく、あの星の降る夜にお願いしたの! 言ったでしょ? 運命のつがいに会えますようにって!」
ノボリは驚いて目を見開きました。クダリが全然話を聞いていないことではありませんよ。クダリがまだ、ひつじのクダリとおおかみのノボリを運命のつがいだと言っていたことにです。
しかしクダリのそれは「運命のつがいなど、いるというなら会ってみたいものです」と、誰に言うでもなく呟いたあの日のノボリの願いと同じだったのでした。
「ノボリ、助けてくれてありがとう」
すり、とクダリが頬を寄せます。ノボリはまさか、こんな賑やかな、しかもよりによってひつじが運命のつがいであることに困ったような顔をしつつ、それでもこのふわふわでいい匂いのする生き物を見放そうという気持ちにはなれませんでした。
三匹のおおかみに囲まれて、今にも襲われそうなクダリを見つけた時のノボリの引き攣った顔といったら。やはりお星さまの見立てに間違いはなかったようです。だって二匹はそれから、ずっとずっと幸せに暮らしましたからね。
おしまい。