あとちょっと待っててね「環さん、起きてください、環さん」
壮五朝ご飯を食べる前の日課。それは隣の部屋で眠っている環のことを起こすことだ。
MEZZO"の相方で、最近恋人になった年上のこの人は朝起きるのがとても苦手で付き合い始める前から壮五が起こすことになっていた。
「んー……」
環は少しだけ顔を顰めながら抱きしめていた王様プリンのぬいぐるみに顔を埋めた。
そんな顔にきゅん、とときめいてしまうのは惚れた何たら、というやつだろうか。
今日環はオフだし、日頃夜遅くまで働いている環を起こすのはなんだか申し訳なくて壮五は部屋から出て行こうとすると、
「そぉちゃん?」
と少しだけ寝起きの掠れた声で背後から名前を呼ばれた。
離れようとしていた壮五を逃さないぞ、と言わんばかりに環が腕を引っ張って壮五を布団の中へと引き摺り込んですりすりと壮五の髪に環は頬擦りする。
「た、たまきさん、」
こんなふうに一緒に横になるなんて今までしたことがなかったから片言になりながら環の名前を呼んでしまった。
けれど環は壮五を抱きしめたままだった。心なしか下半身を押し付けられている気がする。
「たまき、さん!」
「っ、あ、そーちゃ……ごめ、間違えた」
パチリと目を開け、環は慌てて壮五を追いやると布団をガバリとかぶってしまった。
「たまきさ」
「ごめん!」
壮五の言葉を遮るように言われたら壮五は部屋から出ざるを得なかった。
「間違えた……」
先ほどの環の言葉を繰り返すと壮五はため息をついた。
環と付き合い始めたのはつい最近のこと。でもまだキスもハグも、何もしていなかった。
「また四葉さんですか?」
「ああ、一織くん……」
昼休み、三月の作ったお弁当を食べながらため息をついた壮五を見かねて一織が尋ねてくる。また、というのは一織に環とのことを逐一相談しているからだ。
「何かあったんですか?」
「あったというか……。今日も環さんを起こしたんだけど、その時環さん、寝ぼけていて僕のことを抱きしめたんだけどね」
壮五の言葉にごほん、と咳払いをしたのは惚気話ならやめろという意味だろうか。
「僕を誰かと間違えたみたいなんだ」
「は?」
「ごめん間違えたって。……誰かと間違えたってことだよね」
「なんですかそれ」
一織はそれこそ壮五と環のことは応援してくれているように思う。
壮五が環に告白すると決めた時も最初は二人の今後のことを考えたら一線を越えるべきではない、と言いつつも環に対する気持ちを言えば最終的には「応援してます」と言ってくれたのだ。
環が壮五の告白を受け入れてくれるかは少しばかり賭けだった。環も壮五に対して相方以上の気持ちを持っているように見えていたから告白したし、結果として環は壮五の告白を「俺も」と受け入れてくれたのだ。
晴れて恋人になった時、一織は喜んでくれていたように思う。
「……環さん、僕より年上だし、きっと人気だってあったと思う。僕以外の誰かと付き合ってたって言われても納得はするんだ」
壮五にとって初めての恋も、もちろん恋人も環だ。けれど壮五よりも年上である環の恋愛遍歴は壮五は知らない。ただ、一緒に仕事をした共演者からよく連絡先を聞かれているし、打ち上げ(壮五は年齢の関係で途中で帰ってしまうのだが)でもいつも男女問わず色んな人から囲まれている。そのことに嫉妬しないわけではないけれど、そんなことを言ってしまえば環に嫌がられてしまうのではないかと考えてしまって結局何も言えないのだった。
「過去の誰かと僕を比べられるのは嫌だし、間違えたって言われると……。環さんは僕のことを気遣って付き合ってくれたのかな、と思っちゃって」
「それはないと思いますが」
「うん……」
それに、今更になって気づいたが、環から壮五に対して「好き」という言葉を言われたことがなかったのだ。
「でも、僕たちまだキスもしてないんだ」
「ぶっ……ごほっ」
ペットボトルの水を吹き出しそうになった一織がげほげほと咳き込んでいる。
「ご、ごめん……」
「急にそんなこと言わないでくださいよ!」
「そうだよね、ごめん……」
一織に謝りながら以前クラスメイトが話しているのを思い出す。
付き合い始めていつ恋人とキスをしたのか。
環だって二十歳の青年。そういう欲求だって決してあるはずだ。けれど、壮五がそれとなく誘ってもやんわりと断られてしまったのだ。
「タイミングとか、シチュエーションの問題では? 案外四葉さん、そういうところがあるのかもしれませんよ」
「うーん……」
そういうものなのだろうか。もう何度も断られている壮五にはわからなかった。
放課後仕事がある一織と正門で別れ、寮へ戻ると今日は環と同じくオフだった大和の声がする。声の大きさからして酒を飲んでいるようだった。
「まー、タマはよく我慢してるよ」
「だろ!? 今日の朝超焦ったし」
今日の朝、という言葉にピクリと身体が動いた。
「ヤマさんどうしよ、俺もう無理かもしんない」
朝、無理、そして間違えたという環の言葉が頭の中で響く。
環には他に好きな人がいるのだ。けれど、MEZZO"の相方である壮五との関係をうまくやるために壮五の気持ちを受け入れざるを得なくて好きな人への気持ちを押し殺し、壮五の恋人になった。
「はは……」
なぜ環が壮五とキスをしないのか。簡単なことだ。好きでもない壮五と付き合っているのだ。キスまでしてやる義理なんてないし、環は好きな人とだけしたい人なのだろう。壮五だってそうだ。
「四葉さんとちゃんと話してみては?」
別れ際そう言った一織に今日の夜は泣きつきそうだと思った。うまく泣けたことなんてないけど。
よろよろと部屋に戻ろうとすると力が抜けていたようで鞄を落としてしまった。
ばたん、と大きな音がして環が慌てて部屋から出てくると目の奥が熱くて何かが込み上げてきそうだった。
「あ……そーちゃん……」
「あ、あはは、た、環さん……あの」
「おっきな音したから。怪我とかしてない?」
我慢して壮五に付き合ってくれているというのに壮五に怪我がないかを心配までしてくれる。それが嬉しくて悲しかった。
「……環さん、僕たち、こいびと、ですよね」
「え? うん。そう、だけど」
「……でも、我慢してるんですよね」
「えっ、そーちゃん俺たちの話聞いてた?」
「はい」
「うわ、まじか」
バツが悪そうに環は頬をかいてそれから壮五の目をまっすぐみた。
ああ、別れを告げられるのだ。そう思ってぎゅ、と目を閉じるといつまでもそんな言葉は出てこなくて、代わりにぎゅうっと環に抱きしめられた。
「朝はごめん、そーちゃん。俺ずっと我慢してたから」
「っ……」
その言葉に身体を離そうとするとそれを許さないと言わんばかりに環は抱きしめる力を強めた。
「夢の中でそーちゃんとイチャイチャしてる夢見てたから、朝目開けた時目の前にそーちゃんがいて俺嬉しくて」
「……?」
「俺、そーちゃんが高校卒業するまで恋人っぽいことすんのはやめとこうって思ってたじゃん」
「え?」
「だから告白するのもそーちゃんが高校卒業するまで待とうって思ってたんだけどそーちゃんが先に告白してくるから」
「あの?」
「ん?」
「環さん、僕のこと、好き? なんですか?」
「へ。好きじゃなきゃ付き合わねーじゃん」
ぱちぱちと瞬きすると、環も同じような顔をしていた。
「今日の朝間違えたって」
「だから、夢の中のそーちゃんと」
「キスしたいっていうのをいつもそれとなくかわしてたのは?」
「え、だってそーちゃん高校生じゃん。高校卒業するまでは待った方がいいじゃん」
「……」
「本当はさ。付き合うのだってそーちゃんが卒業するまで待った方がいいって思ってたけど。そーちゃんを誰かに取られんのぜってー嫌だったから」
言ってなかったっけ、と環が首を傾げた。
壮五が縦に首を振ると申し訳なさそうに頭を掻いて「ごめんな」と言った。
「環さん、僕のこと好きなんですか」
「おー。好きだよ。そーちゃんが好き」
「僕、キス、とかしたいです」
「ん。俺もしてーけどそれはそーちゃんが卒業してからな」
「あと二年くらいあるじゃないですか……」
「だってそんくらいすぐじゃん。……待てるよ」
「それまで恋人でいてくれるんですか」
「元々卒業してから告白するつもりだったって言ったじゃん。俺と恋人でいてよ」
環の言葉にほわんと胸の奥があったかくなるような気がしたが、一つ疑問があった。
「あれ? でももう無理って言ってたじゃないですか!」
「あー……うん。待てるって言ったけどさ。待つけどさ。……時々我慢できないって思う時があるから」
そう呟いてから環は壮五の頬に触れ、それから親指でゆっくりと壮五の唇をなぞった。きゅ、と何かを堪えるような顔をしたのはきっと壮五とキスしたいと思っているのだろう。
「環さん……」
そのまま目を閉じると環が近づく気配を感じる。環とついにキスするのだ、と思うと唇が何かに覆われる感触がした。
「?」
恐る恐る目を開けると環の大きな掌が壮五の唇を覆っているのがわかる。そしてその掌の上から環がちゅ、と音を立ててキスをした。
「……!」
「……ごめん、我慢できなかった」
「…………くち、がいいです」
「それは卒業してから」
くしゃりと壮五の頭を撫でて背中をポン、と押した。着替えてこいということらしい。
「約束ですよ」
「おー。約束な」
そう言って小指を出してくる環がどうしようもなく愛おしくて壮五もそっと小指を出した。