雨の日、桜日和「……雨か」
朝。窓を開けた獅子神は、小さく呟いた。その言葉の通り、窓の外はそれほど強くは無いが雨粒が路面を濡らしている。
視線を動かせば、傘を差し俯きがちに歩を進める、出勤中らしき人たちの姿も見える。
「花散らしの雨、とは言うけどな……」
まだ咲いてない場合は、何と呼んだものか。
今年は、冬が長かったように思う。だから、昨年よりも花が咲くのが遅い。
さて、と気合を入れ直して窓を閉める。外を眺めていても、一分一秒で天気が変わるわけでは無い。
今日の予報はどうだったか……とスマートフォンを手に取る。天気予報アプリを起動しようとした、手が止まる。
いつ、目が覚めたのか。
ついさっきまで自分も横になっていた寝台から、暗赤色の目がこちらを見ていた。「起きたのか」と呼びかけて、歩み寄る。
「……ああ」
低い、相槌。
昨日、連勤(何連勤かは途中で数えるのをやめたと言っていた)を終わらせて連休をもぎ取ったお医者様は、まだまだお疲れのご様子で。
くしゃくしゃと硬い黒髪を戯れにかき混ぜれば、抗議するように下がり気味の眉が寄る。
けれど、止める声は無く抵抗も無い。それがなんとなく愉快で、今度は指を動かして目の下の相変わらず濃い隈を辿る。
鬱陶しそうに目を瞑るのに、猫みてぇ……と思わず笑った。
「飼ったことがあるのか」
「いや、無ぇけど」
何を、が省略された言葉に躊躇わずに返す。今更、この程度を読まれたところで驚かない。
相変わらずだなぁとだけ、苦笑して。そうしながら、視線は無意識に窓の外へ。
「雨……」
「『催花雨』」
「は?」
サイカウ?
……犀を飼う?
いやなんでだよ飼わねーだろ買えるかもしんねーけど餌どうすんだ。
「て、なんだよその呆れた目は」
「催花雨。『もよおし』に『はな』に『あめ』。或いは『なのはな』に『あめ』。春に、植物の開花を促すように降る……」
「あ?」
「心配しなくとも、花はまだ散らない。と、いうことだ」
「……」
そうかよ、と声にならない言葉で返す。どこか溜息に似たそれは雨の音に溶けて消える。
桜を、見たいのだ。満開の花を。
恋人と。あの、騒がしい友人たちと。何度でも。
「むしろ、明後日には見頃かもしれないな」
「それは……まぁ、願ってもねぇことだけどよ」
明後日は、桜を見る。
ここから数時間分、離れた土地で。
この、眠そうに眼を細め寝台に転がったままの、恋人の育った場所で。
出発は、明日。帰ってきた日には、真経津たちと花見。予定は、いくらでも詰まっている。
「準備はできているのか」
「あ?あー……まぁ、な」
この『準備』とは、ただの旅行の支度では無い。
土産となる、菓子の仕込み。
時間をかけて拵えたさらしあんの出来は上々で、これなら……と思う一品に仕上がった。
「そうか」
「て、なんだよその顔は。そんな目で見てもやらねーからな」
「私は何も言っていないが」
「顔に書いてんだよオレに敢えて分からせるように表情に出してんだろつまみ食いはさせねーからなアホ!」
「そうか」
この「そうか」はどういう意味だろうか。考えた所でそれほど意味はないと思われる為、五秒でやめる。
「まぁ、最終的には私の胃袋に八割収まる」
「多すぎだろ!?土産だぞ一応!」
「弟とは、そういうものだ」
「弟、ね……」
明後日、村雨の実家には兄とその家族も揃うという。いったいどんな人なのだろう?何度か訊ねてみるも、恋人は意味深な笑みを浮かべるだけだった。
「それよりあなたは、花見弁当の心配をするといい」
「帰ってきた日のか?とっくに出来ることはやってるよ」
当日に買うべきものは別にして、買い出しは終わっている。仕込みもできる範囲で済ませておいた。
ステーキに、桜餅。玉子焼きに鳥の唐揚げ。今年は重箱何段分になるだろうか。
「随分と、楽しそうだな」
「あ?あー………たぶん、そうだろーな」
淡々とした指摘に笑う。
自分の作った沢山の弁当と、それを「美味い」と食べる恋人と友人たち。全部、自分がずっと持っていなかったもの。
そしてきっと、これからも続いていくものであり、続けていくもの。
「獅子神」
「ん?どーした」
「眠い」
端的な言葉に、ハハッと笑う。
布団を捲り、滑り込む。すぐ隣にある、確かな体温を抱き寄せて。
「もうちょっと寝るか。休みだもんな」
「……うん」
素直に頷く村雨の声は、既にどうしようもないくらい眠そうで。
もう一度、笑い。雨の音を聴きながら、眼を閉じる。
次に目覚めるのは、きっと、この恋人が「腹が減った」と騒ぎ出す頃だろう、と。
瞼の裏に薄桃の花を描きながら、獅子神は眠りに落ちていった。