夏の夜は夢のあと 村雨礼二は決断を迫られていた。
目の前には、小さな手がある。
おずおずと、けれど決して引かないという自信に満ちて自分に伸ばされた手。
とるか。
とらざるか。
そもそも何故こんなことに。と、もう何度目か分からぬ毒吐きを脳内で繰り返した。
***
話は、数時間前へと遡る。
いや発端は更に数日前。叶が見かけたという街頭の貼り紙だった。
夏祭りのお知らせ。
行こうぜ! という提案から、自然な流れで(誰も口を挟めない程の自然さで)行くことが決まった。
そして、当日である今日。
4人連れ立って祭りに赴いたわけなのだが……
動画配信に走り回る叶、面白い物に躊躇せず突撃をかける真経津、それを一応は止めようとしながらも、明らかに振り回されている獅子神、それを手伝おうとしない村雨自身……この面子で、はぐれない方が不思議だった。
気が付けば村雨は1人、人混みに取り残されていたわけである。
やれやれ……と、人だかりを縫い、敷地の隅で足を止めた。
あまり着慣れない浴衣が着崩れていないか、確認する。
これも提案者である叶が準備したものだった。
全力で楽しむ雰囲気の為にはこれくらい必要だろう! とのことである。
「……」
軽く、溜め息。
さて、どうしたものか。
そこまで祭に興味をそそられていた訳ではないが、ここで一人帰宅するのが悪手であることは、村雨礼二であれどさすがに理解していた。
だから、悩んでいた。
悩んでいたから、その人物がすぐ近くにしゃがんでいることに、少しも気が付かなかった。
****
「おじさん」
最初に声をかけられた時、自分が呼ばれているとは思わなかった。
三十が目前に迫ったとは言え、甥姪以外に「おじさん」と呼ばれることはあまりない(そもそも彼らが呼ぶのは『叔父さん』だ)。
なので応えずにいると、ツイ、と、横から浴衣の袂を引かれた。
怪訝に思い、視線を下ろす。
そこに居たのは、小さな子どもだった。
長めの髪はあまり整えたことが無いように無造作で、やや薄汚れているように見える。
伸びっぱなしの不揃いの前髪の奥の瞳が、村雨を見つめていた。
「……私か」
「そうだよ、おじさん」
頷かれる。
念の為に記憶を辿ってみるが、子どもに心当たりはなかった。
身内や親戚は勿論、過去からの患者とその身内含め、覚えのある顔ではない。
「……」
子どもは得意では無い、という空気を滲ませ、無言で視線を送る。
それに怯えた様子はなく、子どもは「おじさん、迷子?」と訊ねてきた。
「私は迷子ではない」
迷ったのは連れの方だ、と続け、あなたは? と訊く。
念のための確認ではあったが、あっさり「はぐた」と回答があった。
なるほど、と呟く。
さすがに知らない子どもとは言え、このまま立ち去るのはあまり良い判断とは思えなかった。
それに今ここに居ない誰かなら、きっと全力で子どもを助けるだろう。
そんな想像に苦笑し、問いかける。
「私に、どうして欲しい」
とはいえ、小児科は絶対に無理だと評価される村雨礼二である。
言葉になったのは、そんな簡潔な一言だけであった。
「うーん……」
しばし、子どもは考える素振りを見せる。
そして「えっと……」と、呟いて。
連れを探すのを手伝って。
出てきたのは、そんな結論。
「……」
眉を寄せ、村雨は考える。
さっさと運営テントか何かに連れて行き、スタッフに任せるのが恐らく最適解だろう。
子連れでいることで、面倒に巻き込まれないとも限らない。
けれど、自分も、連れを探す必要があった(運営に迷子放送を頼むのは、流石に躊躇われる面々ではある)。
それに、本当に、これは村雨にとって不可解極まりないことなのだが、もう少し、この子どもと居てやろう、という気になったのだ。
「……いいだろう」
嘆息混じりに、頷く。
「私も連れを探す。あくまでついでに、貴方の連れを探してやろう」
パッと、子どもの顔が明るくなることがわかる。
伸びっぱなしの前髪の奥で、目が喜色を帯びていることが伝わった。
そうと決まれば、と、歩き出そうとする村雨の前に、ずいっと手が差し出された。
またはぐれたら嫌だから、おじさん、繋いでよ、と。
それで、冒頭の事態に繋がったわけである。
****
「おじさん、アレ何」
「……神輿だ」
「あれは?」
「わた菓子」
「どんな味??」
「砂糖の塊だ」
「なら、甘いんだね」
村雨の手を引き歩きながら、子どもは辺りを見渡しつつ、質問を重ねて来た。
その一つ一つに答えながら、引かれるままに会場を歩く。
人混みの中は暑く、髪の間から汗が流れてくるのを感じる。
繋いだ手は、子供の体温特有の熱を伝えてきていた。
「おじさん、あれは?」
「金魚すくい」
「金魚? 掬うの? なんで? 食べるの?」
「……食用ではない」
子どもの質問は、目に入る全てに渡っていた。
そんなことも? と気になる内容もあったが、この年頃の子がどこまで世間を知っているかは分からない。
いや、甥姪と同じ歳頃であれば、もう少し……?
「……?」
つ、と、引っ張られるような力に、村雨は足を止めた。
子どもが足を止め、一つの祭屋台を凝視している。
そこからは村雨自身も嗅ぎ慣れた、芳醇な香りがしていた。
食欲を唆る匂い、と言い換えてもいい。
「……肉か」
牛串の屋台、である。
ステーキ、牛タン、或いは豚肉。
複数の肉が串に刺され炭火で焼かれ、周囲に堪らないニオイを放っていた。
そう言えば、と、村雨は思い出す。
今日は朝に食べた以降、何も口にしていなかった。
祭に来て、何かを食べる前にはぐれたから、であるが……当然のように、空腹である。
ふと、子どもを見る。
とても、真剣な、或いは信じられないようなものを見る目で、肉を凝視していた。
「……」
らしくない、と思った。
何故かひどく、その目が気に障った。
子どもなら、美味しそう! とキラキラさせるか、買って欲しい、と、期待に満ちた目をしていればいいのに。何故そんな、切実過ぎる顔をしているのだ。
「……食べたいのか」
こう、声をかけたのは、普段の村雨であればあり得ないことであった。
知らない子どもである。
どんなアレルギーを持っているか分からないし、そもそも、そんな義理は元よりない。
それなのに、だ。
この子どもは、自分が、お腹いっぱいにしてやらないと気が済まない、と思ったのだ。
「え?」
「食べたいなら、言えばいい。私もちょうど空腹だ」
食べ慣れたステーキではないが、祭りの場所で食べるなら、こういう物が相応しい。
「え、でも……」
ああ、だから。
子どもが、そんなに遠慮しなくていいだろう。
「どうだ?」
「……たい」
「……」
「食べたい!!」
思いの外大きい声に、子ども自身、驚いたようだった。
頷き、村雨は屋台の人間に「牛串二本」と注文する。
お金と引き換えに渡されたそれを手渡したせば、子どもは満面の笑顔で笑った。
そう、それでいい。
ひどく満足感を覚えながら、牛串を口にした。
****
「おじさん、射的下手くそー」
「この角度であの位置に当たれば倒れるはずでは……?」
解せん、と呟いた村雨をおかしそうに子どもは笑う。
頭には、キツネのお面。
片手には、りんご飴。
すっかり、祭を楽しんでいるスタイルだ。
その全ては勿論、村雨が買い与えた物で。
子どもが何かを……特に食べ物をあの目で見る度に、財布を出さずにはいられなかった。
まったく、不可解極まりない。
けれど決して、不快ではなくて。
手を繋ぎ引かれるまま、祭をまわる。
歩きながら村雨を振り返る顔が、段々と子どもらしいと感じるものに変わっていく。
「おじさん」
「なんだ」
「おじさん、南の国って行ったことある?」
「?」
唐突な問いかけに、子どもの視線を追う。
そこにあるのは、ひっそりと立つ掲示板。
宣伝や告知の貼り紙の中、いかにもなヤシの木を前面に写し出した、南の島風の写真を使ったポスターがあった。
近くのショッピングセンターでやっている福引の告知らしい。
じっと写真に見入る子どもを見やり「何度か」と答えた。
「いいなー大人になったら行けるのかなー」
「それはあなた次第だ」
「……そっか」
大人になれるのかな? と続いた呟きに、答える言葉を持たなかった。
繋いだままの腕に、目を落とす。
コツコツとした肉の下の骨を感じる……不自然なまでに、折れそうなまでに、細い腕。
甥姪とは全く違う、その、手触り。
「おじさん」
「なんだ?」
「あれ何??」
子どもの興味が移ったことに、安堵する。
指差していたのは、一つの屋台。
何人かの大人や子どもが、机に半ばかがみ込む様になりながら真剣に向かっていた。
「ああ『カタヌキ』か」
「カタヌキ?」
「行ってみればわかる」
言えばグイグイ腕を引っ張られるのに、ついて歩く。
辿り着けば、皆んな小さなピンクの板を、細いピンと呼ぶべき物で突いていた。
誰もが無言で、時折「あぁ……」と絶望に溢れた声がする。
「……?」
「澱粉や砂糖でできた、小さい板がある」
「うん」
「それを、線の通りに、ああやって抜く」
「……」
やってみるか? と促せば、しばし考えた後に「ううん」と首を振る。
しかしその目は、明らかに興味を持っているに違いないのに。
「……何故だ」
「たぶん、うまく、できないから……」
牛串を食べるか? と訊いた時と、同じ目をしていた。
ひどく、村雨を苛立せるあの目だ。
いや、違う。
苛立つのは、子どもにではない。
こんな目をさせる、この子を取り巻く環境全てに、だ。
「……うまくいく必要はない」
その苛立ちを抑えきれず、村雨は囁いた。
「うまくいかなくても、誰も、あなたを……」
いや、と、思い直す。
「私は、あなたを、馬鹿になどしない」
どうか、伝わるだろうか。
不思議そうに目を瞬いた後、子どもは「やる!」と口にした。
村雨が金を払い、受け取った板を手渡す。
適当な椅子に腰掛けて、真剣な顔で取り組み始めた。
意外と手先が器用なのか、ウサギの形はスムーズに抜けているように見え……
「あ!」
驚く声。
パチっと、軽い音と共に、板は割れた。
悔しそうに、けれど楽しそうに、子どもは笑う。
その後……何かを言いたげに、村雨に向けられる目。
ふむ、と、頷き。
再度お金を店の人間に手渡し、板を入手。
期待を一心に感じながら、ピンを操った。
「………」
ほどなく、ヒビ割れなく、型抜きは完成する。
やったー!! と、万歳する子を見て、ふっと小さく笑いが漏れた。
「おじさん、凄いね!!」
「……あなたも、できるようになる」
「ほんと?」
「……あなた次第、だ」
****
祭会場を歩き回り、二人は外れの方に来ていた。
あの、目立つはずの三人は全く見つからず。
また、子どもの連れも見つかることはなかった。
いや。
既に、見つけることを諦めていた。
そう表現する方が、正しいかもしれない。
「……」
する、と。
不意に、繋いだ手が離された。
子どもの方に目をやれば、こちらを向いて微笑む顔が目に入る。
どうした? とは訊かない。
子どもは……濃い金の髪に、青灰色の目の『男の子』は、その様に何かを察したのか。
ただ「ありがとう、おじさん」とだけ呟いた。
「ああ」
頷く。
「おじさん、名前は?」
今更か、と、小さく笑い。
「村雨礼二」
むらさめさん、と、また少年は笑った。
「今日はありがとう!! オレ、祭で食べたり遊んだりしたの、初めてだった」
「構わん」
大人になった貴方が、返してくれたら充分だ、と笑う。
いや既に、もうお釣りが必要なくらい、受け取っているのかもしれない。
そう思ったことは、目の前の少年にも、あのお人よしで世話焼きな男にも内緒だと決める。
「また会える?」
「そうだな」
返答に、満足したのか。
軽い足音を残し、子どもは夜の帷へと走っていった。
闇夜でも映える、金の髪が溶け込むように見えなくなるまで見送り、一息。
「すぐにでも、会えるだろう」
****
「村雨」
聴き慣れた声は、思いの外近くから響いた。
顔を上げ、人混みを抜けてこちらに近づく長身の男を見据える。
「獅子神」
「やっと見つかった……ここに居たのか」
あちこち探し回ったのか、金の髪は汗で湿り、乱れていた。
呼吸は上がり、心拍数もやや高い。
「真経津も叶も全然見つかんねーし。オレだけ必死に探してたのかよ……」
愚痴を溢す男を見つめる。
身長が高く、トレーニングによって鍛えられた筋肉を持つ、成人男性である獅子神敬一を静かに見つめる。
「……村雨?」
「貴方は」
不思議そうに呼びかけられるのを遮るように、声を出す。
「『カタヌキ』は、できるか?」
「カタヌキ??」
唐突な質問に目をシパシパさせた後、どうかなー? と首を傾げる。
「最近、やってねーからな。ガキの頃、成功した覚えはあるけど」
そうか、と頷き。
自然な流れで、獅子神の手首を取った。
今から試しに行こうではないか、と引いて歩き出す。
手の中の獅子神の手は、男らしく筋張っており、けれどそれなりに肉付きもある、肌もハリのある、健康な成人男性のソレだった。
「うぉ!? 村雨、手、なに……」
「そうだ、ついでに牛串も食べるか。祭りの食事には相応しいだろう」
「牛串?? いや、てゆーか、手……」
「キツネの面も買ってやろう。ああ、リンゴ飴はまだ好きか?」
「まだ? いや、だから、手……」
手、手、と繰り返すなマヌケが。
決して、離してなどやるものか。
「おい、どうしたんだ? 村雨……」
困惑しながらも、決して振り解こうとしないことに、満足して笑う。
どうした? と?
先に、手を差し伸ばしたのは少年の方からだった。
だから今度こそ、私から、貴方に手を差し出すのだ。