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    雨音@ししさめ

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    雨音@ししさめ

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    2023.2.14。VD軸。🦁さんが恋を自覚するまでの7日間+1日。

    ##VD軸

    ハッピーエンドじゃ終わらない7day6day5day4day3day2day1day0day7day
     恋に落ちた瞬間のこと覚えてる?

    「……それは」
     叶黎明に問いかけられ、傾けていたカップを置きながら村雨は言葉を発した。
     カップの中身は、蜂蜜の入ったミルク珈琲。
     温度も、甘さの加減も、濃さも、全て村雨の好み通りで申し分が無かった。
    「それは、重要なことなのか?」
     口の中に広がった甘さの余韻を感じながら、首を傾げる。
     そもそも、恋だの愛だの友情だの、感情を言葉で定義することに意味はあるのか。
     そう言えば、正面に座る叶は自信満々に「あるさ」と頷いてみせた。
    「礼二君、オレや晨くんのこと、好きだろ?」
    「……好感は抱いている」
    「それは光栄だ」
     ハハっと笑い、じゃぁさ、と人差し指を立ててみせる。
     その人差し指を何か面白がるようにくるくると回しながら、続けた。
    「敬一くんは?」
     問われ、村雨はチラッとカップに視線を投げた。
     このミルクコーヒーを淹れた、村雨の好みに100%合致する飲み物を作り上げた、この家の主のことを思う。
    「愛している」
     回答は躊躇うことなく滑り出た。
     今更、隠す必要のないくらい、この観測者には全て伝わっているだろう。
     元より、獅子神への思いの丈を隠すつもりなど最初から無かったが。
     回答に満足したように、叶はニィっと笑った。
     さすが礼二くん、と嘯き、続ける。
    「でも、じゃぁ、オレらの『好感』と、敬一くんの『愛』は何が違うんだ?」
     どっちも『好き』て意味だろ?
     そう続けられるのに、なるほど、と笑う。どうも、村雨礼二にとって獅子神敬一は『特別』だと、はっきり認識付けさせたいようだ。
     そのことにどれほど意味があるかは不明だが、乗ってみることにする。
    「覚えている」
    「お?」
    「恋に落ちた瞬間とやらだ。私は覚えている」
    「さっすが礼二くん」
     目に興味津々な光を湛え、こちらに身を乗り出す。頬杖をつき顔を覗きこみながら、恋バナしようぜ、と続けた。
    「いいだろう。あれは……」
     言葉にしながら、あの日を振り返る。
     偶には自分の想いを言葉にしてみるのも良い気はした。
     そう、あと数日で、バレンタインデーも控えていることだ。


     ***
     恋に落ちた瞬間のこと覚えてる?

    「……は?」
     真経津の問い掛けに、獅子神は片付けの手を止めた。
     いつもの通りに獅子神宅に四人集まっていた時のこと。
     獅子神が調理器具を片付けるキッチンへ顔を出し、問いかけられた。
    「は?」
     恋? 誰が? 誰に?
     意味わかんねーという顔をすれば、分かったような顔で「獅子神さんが。村雨さんと」と断言される。
    「……なは?オレ……村雨……」
     パクパクと口を開けるも、何も言葉にならない。
     そんな様子を満足気に見ながら、真経津が更に問いかける。
    「獅子神さん、ボクや叶さんのこと、好きだよね?」
    「……身内だと思ってるよ」
     言わせんな。
     目線を逸らしてそう言ってやれば、真経津は嬉しそうにニコニコ笑ってみせた。
     その顔のまま「じゃぁ、村雨さんは?」と続くのだ。
    「村雨?」
     あの初対面で目を合わせた瞬間からヤベェってわかる、バケモンみたいな医者が何だって?
    「獅子神さん、村雨さんのこと好きだよね。特別に」
    「……」
     答えず、獅子神は片付けを再開した。
     冷静な態度に見せながら(真経津には見抜かれているだろうが)、頭の中の混乱は治らない。
     好き? 誰が。オレが? 村雨を……?
     勿論、村雨のことは大切だ。
     来れば好物を振る舞うし、疲れている様子であれば身体を気遣う。体調を崩したとなれば看病もするだろう。
     けれど、それは他のヤツらだって同じこと。
    「獅子神さん?」
    「ちょっと、待て。今考えてるから」
     はーい、と返事されるのを聴きながら、食器類を食洗機に入れ終えてスイッチを押す。
     凄いやつ、ということは分かる。真経津も叶もとんでもないが、タッグマッチで共に闘った今なら、もっとアイツの強さがよく分かる。
     でもそのくせ、一人で何でもできるのかと思えば、妙に生活が破綻している。自宅のキッチンには何も無かったし、何かに夢中になれば寝食が疎かになって、隈が三割増しになる。
     だから偶に家に来た時には、栄養のある物を食べさせてやりたいし、ゆっくり身も心も休めて欲しい。
     そもそもあんなに観察眼が鋭くて、とんでもない情報量を常時処理してて疲れねーのか……?
    「獅子神さん」
     あと、時々、ビックリするくらい表情が柔らかくなる。そんな顔もできたのか、て、何回考えたのか。
     感情を読ませないのなんか朝飯前のくせに、オレたちといる時は隠す必要が無いからか、結構そのまま出してくる。『取り繕う』ということをしないからむしろ分かり易いくらいだ。
    「獅子神さん」
     肉と甘い物が好き。成分がわからない物は食べないって言ってたくせに、今ではオレが作ったもの何でも食べる。食べ方が綺麗で、食べる前に手を合わせる仕草が好きだ。いつも背筋がスッと伸びてて姿勢がいい。
     でもたまに、凄い眠そうでフワフワしてることあるよな……そーいやさっきのミルクコーヒーはどうだったんだ……?
    「獅子神さん!」
    「……あ」
     パン、と目の前で打ち鳴らされた真経津の手。その音にようやく思考が途切れた。
     目を瞬かせながら、額に手を当てる。オレは今、何を考えてたんだ……?
    「んー……獅子神さんは、まだ答えが出てないみたいだね」
     ニッコリと、真経津が笑った。
     そのまま背を向けて、キッチンの出口へと向かう。
    「あ、おい?」
    「あ、そーだ獅子神さん」
     呼びかけに、くるりと振り向く。
    「君を助ける答えは、君の中にあるかもしれないよ」
     そんな言葉を残し、叶と村雨が居るリビングへと向かう。
     後には、速くなった自分の鼓動に戸惑う獅子神だけが残された。

    6day
     ベンチプレス。ランニングマシン。更に水泳。
     行き慣れたジムでいつも以上に身体を動かし、けれど獅子神の心は晴れなかった。
     いつもならば感じる達成感も、体を動かしたことによる爽快感も、今はない。
     それ以上のものが、常に頭の中を占めていた。

    『恋に落ちた瞬間のことを覚えてる?』

     昨日の真経津の言葉だ。
     シャワーで汗を流し、着替えた獅子神はジムを後にした。
     そのまま、自宅を目指して歩く。今の状態で運転するには危険性を感じた為、敢えて車は置いてきた。
     (恋……恋? )
     何度考えても、答えは出ない。
     自分が、村雨に? あの、村雨礼二に??
     と、いうことは勿論だが。
     (そもそも……恋、て、何だよ)
     恋とは何か。
     愛とは何か。
     今まで獅子神にも、無難に付き合った女性は居た。告白され、特に支障も無いので恋人関係になった。
     けれど、彼女たちから向けられる『恋愛感情』と、同じものを持ったことは一度も無かった。
     (恋……オレが、落ちた……? )
     恋とは。
     愛も、あまり分からない。それでも、恋よりはまだ分かる。親が子に向ける、と一般的に言われるもの。相手を気遣うこと。幸せであって欲しいと願うこと。
     人生の殆どで、向けられた思えのない物。
     それでも、まだ、イメージはできた。
     (恋、て……こう、キラキラふわふわしたもんじゃねーのか)
     世の中に溢れる恋愛映画や恋愛漫画。その殆どは、キラキラしてふわふわしている物では無いか。
     自主的に読んだり見たりすることは殆ど無かったが、会話に困らない程度には把握している世間の流行り。キラキラふわふわ。或いは、泣ける。切ない。
     それが恋であるのなら、自分の抱くコレは恋なのか。
     (村雨に……)
     いつか隣に並びたい。頼りにされたい。生活を支えたい。たまに見せる柔らかな顔が忘れられない。
     そんな想いに、嘘はない。
     けれど時々。このまま、オレに閉じ込められてくれないと、思うことがある。
     賭場で命なんか賭けずに。ただオレの傍で世話を焼かれて、健康に生きててくれないか、と、願ってしまうことがある。
     それは最早、村雨礼二であって村雨礼二ではない存在となってしまうのに。
     そんな感情は……恋などと、綺麗な言葉で表現されるのか。
    「……わかんねぇ」
     嘆息し、ふと、足を止まる。
     何かを思い出し目をやれば、そこは覚えのある場所だった。
     ある日真経津に呼び出され、訪れた地下バーの前。あいつと、初めて会った場所。
     マヌケの中ではまだマシ、と。褒めているのか分からない評価をされた場所。
     (そーいや……)
     その後で訪れた、バーガーショップでのやり取りを思い出す。
     耳が聞こえない、と真経津から聞いて、改めて自己紹介をした。
     名刺なんか渡すつもり無かったので、手近にあった紙ナプキンに名前を書いてみせた。
     そうすれば、同じ紙に名前を書いて『村雨礼二』と名乗ったのだ。
     その時の、トメ払いがしっかり守られたどこか神経質な……けれど少しだけ右肩下りの字を覚えている。
     (あの紙ナプキン、どうしたっけな……)
     誰も回収してなければ、ゴミとして捨てられたのか。少し、惜しいなと思う。
     あの時、これはそのまま取っておきたい、と、確かに思ったのに。
    「……帰るか」
     ひとりごち、足を早める。
     いくら考えても、問いの答えも……そもそもの自分の気持ちにも、答えは出なかった。

    5day

     ピンポーン。
     鳴り響いた呼び鈴に、村雨は読んでいた本から顔を上げた。
     しおり代わりの紙ナプキンを挟んでテーブルに置き、席を立つ。
     今日は特に来客の予定は無かったが……とインターホンのディスプレーを見れば、そこには見慣れた金髪が映っていた。
     どこか居心地悪そうに、視線をそわそわと彷徨わせている。
    「はい」
    「お、おう。居たのか、村雨……悪ぃな、急に」
    「開ける。待っていろ」
     端的に応じて、玄関へと向かう。
     開錠して扉を開ければ、そこには紙袋を携えた獅子神が居た。やはり居心地悪気に、そわそわとした様子を隠せないでいる。
    「よう……悪ぃな、ほんと。急に」
    「構わん」
     答えながら、リビングに通す。
     あ、これ土産、と差し出された紙袋を受け取る。とある洋菓子店のフルーツタルト。
     こういう点も、獅子神敬一の好ましいと想える所だ。気遣い自体もそうだが、一社会人として彼がそれを身につけるに至った努力を思えば、尚愛おしいと村雨は思う。
    「今日は、何も予定はない」
    「あ、そっか。今日は、てことは、明日は何かあるのか?」
     仕事か? と問いかけられるのに、いや、と首を振る。
    「銀行だ」
    「……あ。あ、そーか」
    「……?」
     獅子神の変化に疑問符が浮かぶ。
     本人に自覚は無いであろう、些細な変化。呼吸が速くなり、一瞬、心拍が上がる。
    「それで……用件は?」
    「あ。いや、用件、というか……」
     更に一層、視線を彷徨わせる。
     そこから見えるのは、戸惑い、迷い、それと……恐れ?
     人間がどう言った感情を抱えているのか、挙動や身体の状態を観察すれば手に取るように分かる。
     けれど決して心を読めるわけではないし……そこに至る理由については、思考回路が理解できずに度々正解に辿り着けなかった。
     処理する情報量が違いすぎる故の弊害とも、或いは言えるかもしれない。
    「……」
     言葉を発しない獅子神をリビングチェアに座らせ、その向かいに腰を下ろす。
     テーブルを挟み向かい合い、ちょうど良い機会だと思って獅子神をじっくり眺めることにした。
     夏の穂のような金髪。澄んだ湖面の碧い瞳。鍛えられた結果の逞しい身体。努力の結果身に付いた正しい姿勢で座る姿。
     どこをとっても、村雨にはひどく魅力的に見えた。或いは、それは『獅子神だから』かもしれないが。
     もし今、似た容姿に同じくらいの誠実さと努力を惜しまない姿勢の誰かが……仮に存在するとして……現れても、同じように好ましく感じるとは思えなかった。
     既に、村雨礼二の心は獅子神敬一に占有されている。
     全く度し難いことに、だが。
     先日の叶の言葉を借りれば……これが『恋に落ちた』ということなのだろう。
    「……なぁ」
     ようやく、獅子神が言葉を発する。
     相変わらず視線は落ち着かないまま、辺りをソワソワ見渡す。
    「オレ、お前に……あれ?」
     何が言いかけた言葉が途中で止まる。彷徨っていた視線は、二人の間のテーブルに注がれていた。正確には、村雨が読みかけで、先ほど放置した本に。
    「お前、それ……しおりにしてんの」
    「ん? ああ」
     本を手に取り、何でも無いことのように挟んでいたしおりを引き抜く。
     それはよくあるバーガーショップの紙ナプキン。既に古く、だいぶよれている。
     そこにボールペンで並んで記された、二つの文字。
    『獅子神敬一』
    『村雨礼二』
    「コレ、お前が持ってたのか」
    「そうだが?」
    「……なんで、また」
     問いかけられ、目を瞬く。
    「捨てるには惜しいと思ったからだ」
    「!?」
     返答に対する、獅子神の変化は劇的だった。一瞬呼吸を止めたと思えば、そのまま浅く速くなる。心拍が上がり、頬には朱が広がった。
     言葉にされずとも、これは誰でも分かる。ここにあるのは『嬉しい』だ。
     溢れんばかりの感情を浴びながら、村雨は小さく首を傾げる。この態度からも間違いなく、獅子神は村雨に好意を抱いている。
     ただ、それが、分からない。
     正確に言えば、何がそれを妨げ、彼の自覚を阻んでいるのかが理解できない。
    「……それで」
     理解できないまま、口を開く。今は、他にできることは無いと結論付ける。
    「先ほど、あなたが言おうとしたことは?」
     紙ナプキンに気付いたことで中断されたが、他にも言おうとしたことは別にあったはずだ。
    「あ? あ、ああ……お前さ」
     コクン、と。
     獅子神が唾を飲み込んだ音が、優れた五感に届く。
    「銀行、明日だろ? いや、また、なんか怪我とかしねぇかな、て……いや、その。なんでお前、ずっとあそこ……」
     途切れ途切れの言葉。
     それが、村雨を苛立たせた。……苛立っていると、自覚してしまった。
     いつもの獅子神ではない。
     あなたはいつも、私を真っ直ぐに見てくるのではなかったか。
     その碧い目を逸らさずに、見つめてくるのではなかったか。
     (……)
     なによりも。
     獅子神敬一はこうあるべき、と考えた自分に。それ以外を拒絶するような心理が一瞬でも己に浮かんだ事実が、何よりも村雨を苛立たせていた。
    「あなたは」
     できるだけ、その苛立ちが漏れないように。声に怒りが乗らないように、静かに口を開く。
    「私に、銀行に行くな。と、言いたいのか」
    「!!」
     再度。反応は劇的だった。
     呼吸が止まり、その後、浅く速くなる。但し……顔の色は赤では無い。
     青。或いは、蒼白と言ってもよかった。
    「いや、オレは、そんな」
     言えばいい。
     行くな、と。お前が傷付くのが嫌だから、と。
     それを村雨が受け入れるかは別だが、言葉にするのは自由の筈だ。
     何より、村雨に好意を持つ獅子神なら、それを充分言う立場にあるはずだ。
     言葉にしない理由が、村雨にはわからない。
    「……いや……オレには、そんな権利無ぇーし」
     やがて、沈んだ声に告げられたのはそんな言葉。
     権利?
     それは、誰が認めるものだ?
     私が?
    「オレは。オレだって、銀行、行ってるし。辞める気、無ぇし。それに、オレは……お前の……家族でも、恋人でも無ぇ、し……」
    「……そうか」
     深く、溜息。
     指を組み合わせ、村雨は姿勢を正す。
     目を閉じる。
     否定する言葉は、恐らくいくらでもある。けれどそれを告げて、何になる?
     村雨が許可を出して初めて口に出る程度の願いなら、それは……
     (私が……望むものではない)
     諦めに似た心地で、考える。
     獅子神が自覚するように導くことも、おそらく可能だ。それでも……今はまだ、時期では無い、と。

    4day

    「じゃぁ、えーと……気をつけて? な」
    「ああ……いってくる」
    「……ん」

     昨日の別れ際の挨拶を、想い出す。
     何故、『いってらっしゃい』と。その言葉が言えなかったんだろう。

    「……」
     一通り家事とトレーニングを終え、更に仕事に打ち込んだ獅子神がメッセージの受信に気がついたのは、日付が変わる直前のことだった。
     携帯を取り上げ、内容を確認した、その目が見開かれる。
     携帯を握り締め、荒い足音を立てて、玄関に向かう。


    『村雨礼二の意識が戻らない』

     届いていたメッセージは、ただこの一文のみだった。


    3day 村雨は、何処とも知れない場所に居た。
     辺りは暗く、何も見えない。ひやり、とした空気が触れる。
     視線の先には、子どもが一人。黒髪に、眼鏡。仕立ての良い服を着た、五歳程度の男の子。
     これは、自分だ。
     顔をしっかり見なくても、村雨にはわかった。
     男児はその場に座り込み、何やら熱心に弄っている。
     近づき、それが何が分かった。
     人体模型。
     本物ではない。だいぶデフォルメされた、プラスチック製の子ども向けの人体パズル。記憶の中でも、幼少の頃に買ってもらい持っていた。
     パズルをカチャカチャと弄る自分の顔は、角度的に見えない。ただ恐らく、楽しそうな顔をしているのだろう。
     もっとも幼少の頃から表情の変化に乏しい自分の感情を、読み取ってもらえる相手は非常に稀ではあったが。
    「……人って」
    「?」
    「人って、簡単にバラバラにできるんだね」
    「簡単というわけではない」
     目の前の自分から発せられる疑問に答える。今でこそ何人も腹を開いてきたが、容易く身につけた技術というわけでは決して無かった。
    「……これ」
     立ち上がった少年が、握りしめた何かを差し出してくる。その顔は、やはり幼い頃の村雨自身だった。かけている眼鏡は今と同じ物ではなく、子ども用。
     懐かしいな、と思った。
    「これ、心臓」
     差し出された物を、反射的に受け取る。手の中のプラスチックの塊は、妙な温かさを伝えてきた。
    「それが止まると、人は死ぬ」
    「そうだな」
     頷く。
     子どもの頃の自身と、見つめ合う。
    「じゃぁ、あなたの心臓は?」
    「……?」
     訝しむ。
     ふと見ると、子供の足下の人体模型は消えていた。
     代わりに横たわっているのは、ジャケットを着た男。金縁眼鏡の奥の瞼は、今は閉じられている……
    「!」
     反射的に、手の中のオモチャの心臓を見つめる。それはいつの間にか、確かに弱々しく脈打っていた。
    「このままなら、いつか止まるね」
    「……」
     自分の身体を見つめる。二九年見慣れた、けれどこうして具に見ることは本来は叶わない、決して自分で開くこともできない身体だ。
    「じゃぁ、このお兄さんから貰おうか」
     次の瞬間には、横たわるのは別の男になっていた。
     金の髪。逞しい身体。今は閉じられているがわかる、碧い双眸……
    「ししが……ッガ」
     呼びかけようとした言葉が、途中で途切れる。何処からともなく現れたロープが、首に硬く巻き付いていた。そのまま如何なる力を持ってしてか、身体が持ち上がる。爪先が浮く。ギリ、と縄が食い込む感触。
    「あなたがこのまま死ねば、このお兄ちゃんは助かる……そう言われたら、どうするのかな」
     刈り取られそうになる意識の向こうから響く声。気が付けば、手の中の心臓は違う感触を指に伝えてきた。
     ひんやりとする、あまりに触り慣れた、細長い金属の感触。
    「……ッ」
     躊躇うことなく、腕を動かし、ロープを切った。ドサっと、身体が地面に落ちる。
    「……このお兄ちゃん、あなたの好きな人だよね」
     獅子神を冷めた目で見下ろし、子どもが問いかける。
    「……そうだな」
     頷く。
     その場にフラリ、と立ち上がる。
     ふと、耳に何処からか声が聞こえた。『…ム……メ……お……』途切れ途切れのそれが何を言っているかは分からない。
     聴き慣れた声だ、と思った。けれど分からないので聞き流す。
    「本当に? 本当に好き? 『あなたが死ねば助かる』と言ったのに、少しも躊躇わなかった」
    「……仮定の話などに意味はない」
     冷静に答える。
     どこからか聞こえる声が、だんだんと鮮明になってくる。『……ム……メ……おい……』
     何故か、ひどく心が掻き乱される声だ。
    「そうかな? ねぇ。あなたのそれは、本当に『愛』?」
    「私がそうだと決めた」
    「何を犠牲にしても……自分さえ捧げても、助けたい。それが愛なんじゃ無いの?」
    「……」
    「君にそんな気持ちはある? 無いよね。いつだって自分を先に助ける」
    「……」
    「でも、それは本当に愛?」
     矢継ぎ早の少年の言葉。
     己からの問いかけに、村雨は小さく笑う。愛か、だと? 私はそんなことを躊躇っていたのか?
     否。
     私は私の想いを疑わない。私は、私が正しいと知っている。
    「私は医者だ」
     答えは、一言。
    「私ならば……私自身が助かり、そして獅子神の命を救うことも可能だ」
     凛、とした声が断じる。
     人を救う為に医者になったわけではない。ただ、手術が好きで医者になった。
     けれど、人を救う技術は確かにこの身に存在している。
    「私は、我が身など犠牲にはしない。しかし、獅子神を死なせはしない。アレは、死なせるには得難い存在だ」

     決して、死なせない。

     共に生きたいと。
     隣を歩んでいて欲しいと、願ってしまったから。
    「それが、私の愛だ……私が、私に愛を語るな」
    「……ふーん?」
     面白がるように……満足気に、目の前の自分は笑った。
     そのまま「ねぇ?」と呼びかけてくる。
    「さっきから、うるさいと思わない?」
     そう言われるように。何処からか響く声は、今やかなりの音を持って二人しかいない空間に割り込んできていた。
    『ムラ……メ……おき……』
    「……そうだな」
     頷いた、次の瞬間。
     その声が、世界を切り裂いた。
     無視を許さないほどに鮮烈な。声に温度があれば火傷しそうな熱を伴ったソレは、こう言っていた。

    「--------息をしろっ村雨礼二ッッッ」

    2day
     海で溺れていた所を、引っ張り上げられたようだ。
     そんな経験は無いが、村雨はそう思った。
    「……ッハ! ハァ…………ハァハァ……ッ」
     喘ぐように、必死に空気を吸う。生理的な涙が溢れ、何も見えない。
     ただ、右手をしっかり握る誰かの手だけは感じていた。
    「……ッハ」
     徐々に、呼吸は落ちついた。そっと目元に何かが触れる気配。長く逞しい指に、優しく、涙を拭われる。
    「村雨」
     気遣うように、名前を呼ぶ声。
     ようやくはっきりと……いや、眼鏡が無いのでかなり曖昧ではあったが……した視界に、明るい金色の髪がぼんやりと見える。
    「……ししがみ」
    「……村雨ッ」
     呼びかけてきた声は、まるで悲鳴のようだと感じた。
    「あなたが……来ていたのか」
    「銀行から連絡があった。医者の説明だと、命に別状無いし、とっくに目は覚めてるはずだ。て……でもお前、さっき、いきなり息……しなくなって」
     ああ、と納得する。
     同時に、妙にヒリヒリする頬に気がついた。
    「だから……人工呼吸の後、頬をひっぱ叩いた……と」
    「……あ……悪ぃ」
    「怒ってはいない」
     あなたが医療従事者でなくて何よりだ。そう続ければ、だってよ……と決まり悪げに言葉が続く。
    「お前、顔……いつも白いけど、どんどん白くなるし……全然息、しねーし。人工呼吸、やってみたけど、正しいかわかんねーし」
     いかに混乱していたのかが伝わってきて、獅子神には悪いが小さく笑いが漏れる。
    「……笑うな」
    「いや……すまん」
    「……オレ、本当に、怖かったんだ。村雨が……」
     言葉が途切れる。
     同時、パタパタと。何かが、頬に落ちてくる気配がした。
    「……村雨」
     眼鏡がないせいで、よく見えない。けれど、確かにその向こうで獅子神が泣いていた。
     常時よりはだいぶ鈍い五感を可能な限り総動員し、目の前の男から注がれる感情を探る。
     怖い。怖かった。よかった。安心した。怖かった。
     好きだ。
     好きだ。
     好きだ。
    「……獅子神」
     ゆっくりと、身体を起こす。
     そっと握られた手を解き、慎重に腕を伸ばす。泣き続ける、どうしようもないくらい臆病で、失うことを何より恐れる、けれど真っ直ぐな愛を向けてくる男を抱きしめる。
     (……ああ)
     溢れんばかりの愛に酔いそうになる頭で、痺れるように実感する。この臆病で真っ直ぐな、得難い愛を受け取るのが、自分だけであればいい。
     私は私の愛を、あなたに注ごう。
     あなたがそれを理解するまで。たとえ理解したとしても、その先もずっと。
    「獅子神」
     想いを、言葉に乗せて名前を呼んだ。
    「私は、ここに居る」
    「……」
     腕の中、コクリ、と確かに頷く気配。
    「私は、どこにも行かない」
     また、ひとつ。頷く気配。
    「だから……あなたは、心のままに生きていい」
     耳元で囁くそれは、解放の呪文。
     はっと息を飲む気配が、腕の中から伝わる。
     今彼がどんな顔をしているか……己の両目で見えないことを、少し残念に思った。

    1day
    「で、礼二くんは大丈夫だったんだな?」
     叶の問いに、獅子神はああ、と頷いた。
     昨日、目を覚ました後。短時間とは言え呼吸が止まっていたとは思えない早さで村雨は回復した。
     今日はもう、仕事に復帰しているはずだ。
    「よかったね、獅子神さん」
    「ん? ……ああ」
     そーだな。
     無邪気な真経津の問いに頷く。
     ふ、と、右手を見る。
     呼び出されて出向いた銀行の医務室で、横たわっていた白い顔。
     とっくに目覚めている筈、とそう聞いたのに全く目を覚まさず、ただ手を握り待ち続けていた数時間。
     止まった呼吸。色を失っていく顔が怖くて、必死で唇を重ねて空気を送り込んだこと。
    「で。敬一くん。答えは出たか?」
     叶の問い。
     一度瞑目し、大きく息を吸う。
    「ああ」
     答える声には、もう迷いも葛藤も無かった。
    「オレは、村雨が好きだ」
     断言する。
     たとえば、意識を失ったのが村雨以外の誰かだったら。同じように呼び出されたとしたら、獅子神は間違いなく駆けつけるし、この上なく心配する。同じような事態になれば、人工呼吸も躊躇わない。回復すれば、心底喜ぶ。
     そこに、何一つ偽りはない。
     自分は……獅子神敬一は、そういう人間だ。
     ただ。
     あの時、目を覚ました村雨の、名前を呼ぶ声に涙が溢れて止まらなかったこと。
     怖くて。失うことがどうしようもないくらい怖くて……だからその声だけで、苦しくて堪らなくなったこと。
     それは、村雨だから。村雨礼二だから。
     今でも、これを『恋』と呼んでいいかはわからない。でもこの自分を『堕ちた』と形容せず、どう呼べばいいのか。
     本当は。とっくに、落ちていた。
    「うむ。さすがだね、敬一くん。いやこの場合『さすが』なのは礼二君かな」
    「あー……」
     そう言われると決まりが悪い。
     だから何も答えないまま、手元の作業に集中する。
    「ボクたちは、二人が自覚してくれた方が面白いかなーて思っただけなのにね」
    「バレンタインまでにな。それがこんなに拗れるとは思わなかったぞ」
    「……悪かったよ」
    「まさか、敬一君がここまで全方位に鈍いとはな!」
    「……」
     返す言葉もない。
     溶かしたチョコレートを卵と砂糖に混ぜ、更に薄力粉を振るって加える。
    「でもこれで、二人は結ばれてめでたし、だね」
    「ああ。ハッピーエンドで何よりだ」
    「……結ばれ?」
     二人の会話に疑問符を浮かべる獅子神。
     瞬間。空気が凍った。
     確かに、自分は村雨が好きだと自覚はしたけれど。それで、結ばれる。と、なると……
    「……は?」
    「えぇ」
    「獅子神さん、まさかそこは分かってないの」
    「さすがに酷いと思うぞ、敬一君」
    「だー! 待てオマエら」
     身を乗り出して二人抗議してくるのを、押しとどめる。思わず顔に手を当てれば、その手には熱が伝わってくる。真っ赤になっていることは間違いない。
     なんとか動揺を押し殺し。混ぜたボールの中身を型に流し入れ、トレーをオーブンに押し込める。温度を合わせて、タイマーをオン。
    「……わかってる。ての」
     多分。と、小さく続ける。
     いや、流石に、もう分かっている。
     ここまで来て『わかって』ないのなら、鈍いでは済まされない。
     あの柔らかな笑い方も、真っ直ぐな言葉も。全て、自分だけに向けられたものだ。
     あの時。『私はここに居る』と囁かれた声のどうしようもない優しさも、自分だけのものだ。
    「でも、アイツの口から、聞いたわけじやねーから」
     ボソボソと呟くのに、叶が「あーそっかー」と頭を抱えた。
     そのままスマホを取り出し、何やらメッセージを打ち込む。即返信があっとのか、ピロンと受信を告げた端末の画面を、こちらに向けてきた。
    「明日の夜! 仕事上がりに礼二君を呼び出したから! ちゃんとして来ること!」
    「はっ」
     画面には『明日の夜、x×ホテル! 詳細は後で送る』
     という叶からのメッセージと、それに対する『承知した』という短い返事。
    「二人を見てるのは楽しかったけど、そろそろ飽きてくるよね」
    「まったくだ。進展のない恋物語は視聴者にはウケないぞ」
    「……だから、悪かったよ」
     ふわり、と、オーブンから立ち昇った甘い匂いが、部屋に漂う。
     だからこうして、村雨に贈る物より先に、二人へのお礼兼、お詫びの品を制作しているのだ。
    「敬一くん、焼き上がったらエナドリかけてていいか?」
    「いいわけあるか! 触るな!」
    「そろそろ焼けたかな? もう、開けていい?」
    「そんな短い時間で焼けねーよ! トビラ開けんな」
     二人に言い返しながら、獅子神は一つだけ伝えないでいることがあった。
     あの日の真経津の問い。「恋に落ちた瞬間を覚えてる?」それに、まだ答えが出せていないこと。
     ここ数日ではない。けれど、それなら、いったいいつ『堕ちて』いたと言うのだろう。
     オーブンを死守する獅子神の、スマートフォンがメッセージの受信を告げる。
     送信者は、勤務中の医者から。
     後から確認すれば、届いていたのはただ一言だった。

    「貴方には権利がある」
    0day
     エレベーターを降り、上質な絨毯で覆われた廊下を歩く。足音は絨毯に吸い込まれ、響かなかった。
     叶が予約を取ったという高級ホテル。その廊下を真っ直ぐ歩みながら、ふと獅子神は「前もこんなことあったな」と思い出す。妙な言葉遣いの行員に先導され、歩いていた時のこと。
     そう、あの時は、角を曲がった先に……
    「あ」
     自然、声が漏れた。
     あの時と同じように……廊下を曲がったその先に、見慣れたジャケット姿があった。
     金縁眼鏡。艶やかな黒髪。不機嫌にも見える無表情。暗赤色の目がこちらを真っ直ぐに射抜く。
    「」
     その目を見た瞬間。衝撃が、獅子神を貫いた。記憶の糸が解ける。痺れる頭で思い出す。
     見つけた。
    「……村雨」
     走りそうになるのをなんとか抑え、大股で近づく。
    「……あなた」
    「村雨!」
     何か言いかけたのを遮るように。力いっぱい、抱きしめた。
    「村雨! 好きだ……ッ」
     言葉は、自然と滑り出た。
     見つけた。見つけたら、もう感情が溢れ出して止まらなかった。
     あの日。廊下を曲がった先で、村雨が居た時。眼鏡越しの瞳と、視線が合ったその瞬間。
     コイツと戦うのか? と。思って。コイツとだけは戦えない。戦いたくないと自覚した時。
     見つけた。焦がれて、探していたその答え。
     本当は、それまでも、ずっと村雨のことは好きだった。けれど自分が恋に『落ちた』のは、その瞬間だったのだ。
    「村雨……っ」
     名前を呼ぶ。
     腕の中の存在を抱きしめる。
     ここに、確かに生きている。ただそれだけで、こんなにも嬉しくて堪らないのだ。
    「……獅子神」
     静かに呼ばれる。
     抱きしめていた力を少しだけ緩め、顔を覗き込む。
     眼鏡の奥で、赤い目は笑っていた。そう、今まで何回も見た……獅子神だけに見せる、柔らかな笑い方。
     そのままそっと、冷たい手が頬に触れる。
    「……私もだ」
     愛してる。
     蕩けるような温度で、言葉は胸の中を滑り落ちる。自然な動作で、唇を重ねた。
     人工呼吸の時のような、冷え切った唇ではない。平熱の低いこの医者らしくひんやりとはしていたが、確かな温もり伴った柔らかさを感じる。
    「……あ、村雨」
    「獅子神」
     屋上に行くぞ。
     告げられ、は? と目を瞬いた。
    「おくじょう?」
    「……」
     無言で腕を引かれ、そのまま歩く。エレベーターに乗り込み、屋上へ。
     チラッと視線をやれば、お医者様はいつもと変わらないような見えて……いや、やはり、頬がいつもより赤かった。
     エレベーターが屋上に着く。
     外に出れば、そこは屋上庭園だった。バレンタインデーらしく何組ものカップルが思い思いに散策している。
     遠くには、街の灯りが見えた。
    「お……すげぇな」
    「ああ」
     手を引かれるまま、庭園を散策する。二月の風はまだひんやりとしていたが、今だけは寒さを感じなかった。ただ、村雨が掴む腕だけが、確かな温かさを伝えてくる。
     ふと、歩いて行く先にハート型のイルミネーションモニュメントが見えた。カップルがその前ではしゃぎながら撮影をしている。
    「獅子神」
    「ん?」
    「撮るぞ」
    「はっ」
     腕を強く引かれ、ちょうど人が途切れたタイミングでハートの前に二人で並ぶ。
     撮るぞ、と言った割に、医者は涼しい顔のまま。獅子神がスマホを構え、自撮りすることになる。
    「お前、もう少しこっち寄れるよ」
    「あなたが屈めばいいだろう」
    「もっとくっつきたい、ってんだよ!」
     言わせんな。
     ああ絶対、今、真っ赤になってる違いない。
     それを見ながら、この男はめちゃくちゃ満足したように笑うのだ。
     撮影が終われば、当然のように撮った写真を送るように要求される。
    「……待受にでもするか」
    「職場で見られたら騒ぎにならねーか?」
    「?」
     それが、何か とでも言いたげな顔をされた。ああ、コイツも、相当浮かれてる。
    「……村雨」
     人気が少ない場所まで歩き、獅子神は呼びかけた。ちょうど灯りが少ない場所で、陰になり村雨の表情はよく見えない。
    「オレ、お前が好きだ」
    「……」
    「他のやつらを大事に想うのとは、違う『好き』で……お前だけに、恋してる。んだと、思う」
    「……思う?」
    「あ、いや」
     戸惑えば、ククっと村雨の肩が震えた。こんなにも、分かりやすく笑う顔を初めて見た気がする。
    「私は、ずっと、待たされていたわけだが」
    「あー……笑ぃ」
    「答えは見つけたのか?」
     どうせあなたも、叶か真経津に訊かれただろう?

     恋に落ちた瞬間のことを覚えてる?

    「まぁ、私はあなたのその答えを知っているが」
    「はぁ」
    「……私の答えが知りたいか?」
     問いかけられ、目を覗き込む。見つめられながら、考える。村雨が自分の答えを分かっていたなら、なんとか……
    「あー……」
    「降参か?」
    「……ああ」
    「『ご苦労、上出来だ』」
    「」
    「『あなたは、マヌケの中でもまだマシに見える』」
    「」
     遅れて、気が付く。これと同じ言葉を、確かに以前言われていた。そう、あれは……
    「……オマッ……それ……早すぎだろ……」
    「マヌケが」
     あなたが遅すぎる。
    「ハー……すみせんね」
     それでも、こうして自覚できたのだから及第点として欲しい。
     ただ、自覚してから改めて見れば、村雨から注がれる愛はとても分かりやすかった。これが分からなかったのか……と頭を抱えたくなるほどに。
    「あ、そだ……村雨」
    「?」
    「これ、バレンタイン」
     ずっと提げていた紙袋を差し出す。中身は、獅子神自ずからが作成したチョコレート。医者の好みにぴったりな甘さが、ショコラティエにも負けない出来栄えで箱に詰められている。
    「ありがとう。後で頂こう」
     あなたが食べさせてくれるんだろう?
     耳元に囁かれた言葉は、聴こえないフリをした。これ以上、体温を上げないでほしい。
    「私は……これを」
     どこからか取り出したのか。村雨は、小さな花束を渡してきた。赤い薔薇のミニブーケ。薔薇は四本。
    「薔薇は、本数ごとに意味がある。四本は……」

     死ぬまで私の愛は変わりません。

     どこか厳かな響きを持つ声は、夜の風に溶けて流される。
    「私は、これからも銀行に行く。あなたも、きっと行くだろう」
    「……ああ」
    「だが、あなたには私に『傷ついてほしくない』と、望む権利がある。失いたくない、と、願って当たり前の立場だ」
    「……あ」
    「だから、私は……必ず、あなたの元に帰ろう。何があろうと、必ずだ。そして……あなたのことも、決して死なせない」
     ふっと。
     村雨の顔が柔らかく緩む。
     そのまま少し背伸びをするようにして、口付けられる。
    「死が、我々を分かつまで……私は、あなたを愛している」
     真っ直ぐな言葉に、目が熱くなった。涙を流す代わりに、唇を重ねる。
     ああ、本当に。なんで、いつも、オレの欲しい言葉がわかるんだ。
    「……ありがとう、先生」
    「……」
    「これで、めでたしめでたしのハッピーエンドだな」
     昨日のやり取りを思い出しなんとなく言葉にすれば、即「マヌケ」と切り捨てられた。
    「好きと伝えたら、あなたは満足なのか? 同じように好きと伝えてもらい、想いが通じたらそこで満足か? 私はそんなもので満足しない。想いが通じ合いさえすれば『ハッピーエンド』なのであれば、そんなもので終わらせて堪るか」
    「あ」
    「私は、この為だけにあなたを想い続けてきたわけではない。これからを、共に生きていく為だ。ここで『結末(エンド)』になるような物語に用はない」
    「……」
     ここに在るのは、ハッピーエンドじゃない。これから続いていく、二人のただの日常だ。
     お互いを、『いってらっしゃい』と今度こそ言葉に出して送り出して、『おかえり』と迎える。
     そうやって積み重ねられる、ただの最高な日常だ!
    「……そうだな」
     顔を見合わせて、笑う。
    「さて。どーする? 今から。今夜は」
    「叶が、ここのスイートルームをとったと言っていた。好意にこのまま甘えよう」
    「そか。じゃー……あー……」
    「まずはあなたお手製のチョコを頂く。あなたが一つ一つ食べさせてくれるんだろう?」
    「あ? あーまぁ……」
    「飲み物は、蜂蜜の入ったミルクコーヒー。あなたが淹れろ。じっくり甘さを味わい、シャワーを浴びる。そのあとは……」
     言葉が途切れ、村雨がこちらを向く。
     唇が弧を描き……妖艶、とも言える笑みを見せる。
    「私を、あなたの好きにするといい」
    「……はっ 好きに…………? て、おい!」
     好きに? 好きに、てつまり、そーゆー……? と茹だりかけた思考は途中で止まる。医者の涼しげな切れ長の目が、どこに注がれているかに気がついて。
     畜生。絶対バレてる。
    「あなたに期待している」
    「て、おい、それ流石にセクハラじゃねーの オヤジかよ!」
    「あなたの三つ上だ」
     抗議さえ聞き流され、軽やかに笑う声が響く。
     絶対に後で泣かす。
     そんなことを誓うこちらの胸中を知ってか知らずか、ひどく村雨は上機嫌だった。いつも白い頬が、わずかに赤い。
    「あー……」
     けれど。自分もきっと、同じ顔をしている。
     その事実をどうしようもないくらい噛み締めながら、もう一度、愛する男の腕を引き、抱きしめた。
     誰にも渡さない。決して離さない。
     これが、オレたちの、これから続く日常だ。
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