まだ海を見ず「あれ? 村雨くん、食欲ないの?」
不意に声をかけられ、村雨は箸を止めた。口に入れた一切れの牛肉をじっくり咀嚼し嚥下した後、ゆっくり目を瞬く。
「……いや?」
首を傾げる。
声をかけてきたのは、同じ病院に勤務する麻酔科医の男。
年齢も近く、特別親しくしているわけではないが、顔を合わすと軽い雑談をできる程度の関係である。
同僚は「えー? そう?」と言いながら村雨の隣に腰掛けた。他にも席はあるのに何故? とは思うが、敢えて口にはしない。
「俺の勘違いかなー?」
首を捻る男を横目に、食事を再開する。
更に……これは品がないこととは自覚しているが……正面に広げた資料の山に目を通す。
隣では、オーダーをとりにきたスタッフに、同僚が海鮮定食を注文する声が聞こえる。
「村雨くんさ」
「?」
声をかけられ、目線だけを隣にやる。
オーダーを終えた同僚は、グラスを手に取り水を一気に飲み干し、村雨の目の前の和牛定食を指さした。
「いつも、もう少し美味しそうに食べてると思うんだよねー。それ、君の好きなステーキだろ?」
「……」
口の中に肉を入れたばかりだった為、返事はしない。
同僚も期待しているわけではないのか、「だから食欲ないのかと思ったんだよな」独り言のように呟いている。
「……」
牛肉を嚥下し、そのまま村雨は箸を止めた。
なんとなく、目の前の定食を見つめる。
「まぁ、君も俺も疲れてるからそう思ったのかなー」
空になったグラスを手の中で転がすようにしながら、呻く。
「学会、あと何日だっけ? 俺らいつ帰れんだよー」
「あと三日だ」
不満気な声に冷静に答える。
今、村雨は学会のために地方の街を訪れていた。他に同行は何人か居るが、宿泊場所が同じなのはこの同僚のみだった。
それでもお互い忙しく、こうして顔を合わせて言葉を交わすのはこの街に来てから初めてのことだった。
「三日!? マジで!? 耐えられない……」
絶望した! という顔で突っ伏す同僚を放置し、牛肉の最後の一切れに箸をつける。
隣では「嫁と娘に会いてーーー!」という悲痛な叫びが聞こえていた。
家庭持ちの悲哀は理解できなかったが、表面上は、同情した顔を作っておく。
「……あ!」
牛肉を口に入れた途端に耳元で叫ばれ、さすがに一瞬、動揺する。
苦労して口の中の物をゆっくり咀嚼しながら、隣に恨みがましい視線を向けた。
「ごめんごめん」
大して悪いと思っていない様子の謝罪は聞き流す。
どう言うつもりだ? と目で問えば、同僚は「やっぱりさ」と指を立てて見せた。
「今、村雨くん、あんまり嬉しそうじゃなかったなーって」
「……?」
首を傾げ、牛肉を飲み込む。
とびきり高級というわけではないが、そこそこ以上の牛肉をプロが焼き、それに合うソースの掛けられた和牛ステーキ。
味も、何十万円もかける名だたるホテルには及ばないが、美味と言える部類の筈である。
が。
「……そうかもな」
しばしの、思考の後。村雨は呟いた。
もしかしたらこの同僚は、村雨が思っているよりも村雨礼二を見ているのかもしれない。
「あれ? やぱりそうなの? 体調悪い」
しかし、『原因』については少々的外れではあったが。
さすがに、そこまでは考えが及ばないのも無理はない。
「いや」
短く答え、付け合わせの野菜に箸を伸ばす。
元々得意な方では無いが……更に、口に合わないと感じてしまう。
(……)
考えるのは、ここ数日会っていない年下の友人たちのこと。
賭博に負けたことから始まった縁、と奇妙な繋がりではあったが、時間を縫い彼らと集まるのは楽しかった。
中でも鮮明に呼び起こされるのは、金髪に碧い目の一人の男。
彼らが集まる際によく溜まり場にされる家の、その主。
「慣れ。ということか」
村雨の呟きは、ちょうど海鮮定食を運んできたスタッフの声に消され、同僚の耳には届かなかったようで。
茶碗に少し残ったご飯を口にしながら、気が付かれないように小さく笑う。
家に集まった際、その主は手ずから料理を振る舞った。訪問者それぞれが、希望するものを、希望通りに。
例えば村雨であれば、テンダーロイン。
村雨の好みの肉を、好みの量、好みの焼き加減で焼いてみせた。さらにはソースも付け合わせも、硬さや味付け全て好みの通りに。
それは村雨がリクエストしたこともあるし、毎回食べる様子を見て、彼が自分で研究した結果でもある(恐らく村雨のその日の体調により凡ゆる微調整がされていた)。
それはこの世で唯一の、村雨礼二の為に用意された料理である。
村雨が疲れているからでも、ここの定食にほんの少しでも不備があるわけでもない。
ただこの数日、すっかりご無沙汰になった味があり……恋しいと、思ってしまっただけなのだ。
(……度し難い)
けれど、決して不快なわけではない。
あの男の、村雨に対してだけではなく、あの家を訪れる全員に振る舞われる料理の誠実さと弛まぬ研究熱心さは、彼の美徳だと感じていた。また、好ましいとも思う。
「あ、そーだ」
思考は、海鮮定食を無心で食べていた同僚の声に遮られた。
「村雨くん、見てよこれ」
そう言って取り出されたのは、一枚のポストカード。
鮮やかな碧い海の写真が印刷されている。
「昼間、海こんなんだってさ。オレら見たことないよな」
「……そうだな」
毎日朝早くホテルを発ち、戻ってくるのはとっくに日が沈んでから。ホテルにいる日でも、一日中資料と睨めっこしている間に時間が過ぎる。
村雨も、昼の海を見た記憶が無かった。
「これ、土産物屋で見て思わず買っちゃったよ。村雨くんもどうぞ」
「?」
「二枚買ったから一枚あげる。海を見る余裕無い自分たちを慰めようぜ」
趣旨はよくわからなかったが、礼を返して村雨はポストカードを受け取った。
手に取りじっくりと、碧い海の写真を眺める。
遠くまで続く、水平線。
……見覚えのある色だと、思った。
「さて。ごちそーさま。じゃね、村雨くん。あと三日がんばろ」
「……ああ」
早々に食べ終えた同僚の背を見送り、再度、ポストカードに視線を戻す。
碧い碧い、太陽の光を反射する眩しい水平線の写真。
ふと、思い立ち。村雨は万年筆を取り出した。
食べ終えたトレーを横に避け、ポストカードに文字を綴る。
自然と口角が上がるのを、自覚していた。
****
「……ふあ」
獅子神宅。
仕事に一区切りをつけた獅子神は、手を止めて大きく欠伸をした。
そのまま伸びをし、軽く筋肉をほぐす。
「……静かだなー」
自然と、溢れていたのはそんな言葉。
獅子神と使用人二人が居る家は、今はしんと静かだった。
何故か、その静かさを居心地悪く感じる自分がいる。
(……いや)
最近までは、これが普通だったのだ。
真経津にギャンブルで負けて以降。何かと、彼含め三人がしょっちゅう出入りするようになるまでは。
無職と。
医者と。
配信者。
それがここ数日、誰も獅子神宅に訪ねてくる者は居なかった。
医者である村雨が長期出勤中。
三人で遊ぶ話もあるにはあったが、なんとなく立ち消えていた。今は「村雨さん(礼二くん)が帰ったらまた遊ぼう」で話は落ち着いている。
「……やれやれ」
この機会に、と、仕事やそれに付随する雑務を一気に片付けていたが、それでも時間は余りがちだった。
自分はアイツらに会うまでどうやって時間を過ごしていたのか? と疑問に思ってしまうほどに。
「……アイツ、ちゃんと食ってんのかね」
ふと心配するのは、医者のこと。
良い年トシした成人男性……ましてや年上のアラサー男のことをそこまで心配する必要は本来無いのだが……時々、何かに夢中になれば寝食放り出す悪癖を、獅子神は知っていた。
今回は仕事だと言うことなので、その辺の管理含めて社会人らしくきちんとしているかもしれないが。
コンコン
「獅子神さん」
ノックと共に、使用人の一人、園田が顔を出した。手には、郵便受けから回収したであろう郵便物。
親展など重要なもの以外は、開けて処理して構わないと伝えてあるので、いくつかの封筒は開いていた。
「郵便物の処理できました」
「あ、サンキュー。何か重要なものあったか?」
「それが……」
問いかけに、園田は少し困ったような表情を見せた。
郵便物の束を机の上に置き、中から一枚の紙を取り分ける。
「差出人のないハガキがあったので。確認お願いします」
手渡すと軽く頭を下げ、退室する。
残された獅子神は、ポストカードに視線を落とした。
真っ青な、どこかの海の写真。印字された地名を見れば、国内の観光地でもある地名。
消印は二日前。差出人は、使用人の言うように空白。
そして、裏面には……
「」
内容を確認した、獅子神の目が軽く見開かれた。ついでに、口角が上がる。
それだけでは足らずに……ククっと、小さく笑った。
「……園田!」
そのまま勢いをつけて、立ち上がる。ドアを開け、声をかける。
「買い出し行ったか? あ、まだ? じゃあ、今日はオレが行くからいいよ」
「……?」
「ステーキ肉買うんだよ、オレが選ぶからオレが行く」
笑顔で声をかける、獅子神の手には海の写真のポストカード。
トメ払いのしっかり守られた、几帳面な……けれどほんの少しだけ癖のある字で、こう綴られていた。
あなたの焼いたステーキが食べたい。