Dearest「……撒いたか?」
「ああ」
隠れていた物陰から慎重に抜け出しながら、獅子神は呟いた。
それに低く頷きながら、相棒が姿を現す。
「村雨、大丈夫か 怪我無ぇか 」
「ない。無事だ。そしてそれは私の台詞だ、といつも言っているが」
安堵して駆け寄り捲し立てる獅子神とは反対に、医者の言葉はどこまでも冷静で。
分かってるけどよ、と言いながら、それでもその細い身体のどこかに異常が無いか真剣に観察する。
何せ、この恋人が本気で隠せば、それを読む手立ては獅子神には無いのだ。
「……無事だ、と言っているが聞こえてないのか?」
「聞こえてるよ……痛ぇ耳を引っ張るな耳を」
二人の声が、ガランとした廃屋に響く。
埃っぽいその場所に、今は人影はない。
「……にしても、思ってたよりしつけーな、カラス銀行……」
「……」
「なんで、そうまでしてオレ達に殺し合いさせたいんだよ……」
「私に分かるかマヌケ」
わかりたくも無い、と続くのには心の中で頷いて。
村雨と二人、銀行賭博から足を洗い……洗おうとして『引退試合』を蹴って逃亡してから、もうどれほどの月日が経ったのか。
いくつも海を越え、幾度も空を飛び、数えきれないほどの国境を超えてきた。
もはや、今自分たちがどこの国に居るのか、その認識すら曖昧になる。
「ほんと。いい加減諦めてくれりゃーいいのにな……」
毒吐く。
何処に行って平穏に暮らしても、気が付けば銀行の存在がすぐそばにあった。
罠を張り誘いをかける。そんなにコストをかける価値が自分達にあるのかと問い詰めたくて仕方がない。
しかも狙いは、あくまで『獅子神敬一と村雨礼二の殺し合い』だ。
そういう『ショー』を望まているのだろう。悪趣味にも程がある。
「オレが村雨を殺せるわけねーだろ……なぁ? むら……」
「……」
顔を見ながら言いかけた言葉が途中で止まる。
明らかに不機嫌だと書いてあるような、紅い瞳に突き刺されて。
「……礼二」
「……そうだな、敬一」
それでいい、とばかりに頷かれる。
「悪かったよ……」
「私は別に怒ってはいない」
嘘だろ……という言葉を、声に出す前にすんでのところで危うく止めて。
硬い黒髪に触れてやれば、仕返しとばかりに細い指が脇腹へと触れてくる。
「……ダイジョーブ、もう痛くねぇよ」
「……ああ」
その指先が何を気遣ってるのかわかり、微笑んでみせる。
繰り返される逃避行。
村雨が人質にとられることもあれば、獅子神が重傷を負ったこともある。追い詰められ、絶望の淵に立ち、それでも一度も離れることなく、今ここまで来ていた。
「治療してくれた医者の腕がいいからな」
「当たり前だ」
今はどこの病院に勤めているわけでもないが、それでも村雨の医師としての腕に衰えはなかった。
……或いは、ギャンブラーとしての凄みも、読みの強さも、全て。
「やれやれ。さて。次はどこに行く?」
「私はどこでも構わない」
「オレといれば?」
「言わないと分からないなら、大マヌケだな」
「……いや、礼二、それは反則……」
余裕の表情が悔しい。
やれやれ、と半分諦めながら辺りを見渡し……あることに気が付いた。
「なぁ、礼二」
「?」
「ここ、教会じゃねーか?」
正確に言えば『元』教会。
朽ちた白い壁、ひびの入ったステンドグラス、埃を被った並ぶ椅子。
そしてそれだけは朽ちる様子のない、白い十字架。
「そのようだな」
「だよな」
肯定してくるのに頷いて。
自然な動作で、獅子神はポケットの中から小さな箱を取り出した。
その中の物を摘み上げ、手の中に隠す。
「あのよ……なぁ、礼二」
「……?」
その鋭すぎる観察眼に、こちらの動きを読み取られる前に。
細い手首を掴み、引き寄せた。
戸惑う瞳に笑いかけ、指を持ち上げて口付ける。
そして……左手の薬指に、手にしていた指輪をそっと通した。
細いシンプルな細工の、結婚指輪。
「……」
指輪を目にした村雨の目が、軽く見開かれる。
それに、照れたように笑いかけて。
「礼二。オレと、結婚してくれ」
「……」
「日本から二人で逃げてきて、今更……て言ったらそーなんだけどよ。オレ、やっぱりちゃんと言っときたくて」
ちょうど、ここ教会みてぇだし? と嘯いて。
「ずっと、一生、オマエを大切にする。だから、オレと結婚してくれ」
「……マヌケが」
微笑みかけて続ければ、返ってきたのはそんな言葉。
けれど。その紅玉の目は、隠しきれないほどに震えていた。
「……敬一」
「ん?」
「あなたの指輪は」
「あ? ああ、これ」
取り出せば、些か乱暴に奪われた。
手を出せ、と言われ差し出せば、そこだけやたら丁寧な手つきで嵌められる。
左手の薬指。ステンドグラス越しの陽の光に、微かに光る。
「……あなたを、愛しいる」
「オレもだよ」
「……」
「オマエに誓って、オマエを幸せにするよ」
大真面目に宣言すれば、笑われる。
けれど今更、神になんて誓えない。
オレが誓える相手なんて、オマエしか居ないから。
「礼二」
「なんだ」
「愛してる……」
囁く声は、薄い唇に塞がれた。
それは誰も見守る者のない、二人だけの誓いの証。
病める時も健やかなる時も……たとえば地獄でも。
ただ共に、在り続けることをここに誓う。