夜明けまで 眠りから覚めたのは、或いは、何か予感だったのかもしれない。
不意に、意識が浮上したように。或いは、まるで夢の世界から蹴り出されたように。
パチリ、と目を開けた村雨は、横になったまま疑問を巡らせる。
元々、眠りが深い方ではないが……起きると決めた時間より早く目覚めることが、それほどあるわけでもなかった。
腕を伸ばし、サイドチェストのスマートフォンを手にする。表示された時刻は、深夜3時頃。
朝は、まだ遠い。
ふと喉の渇きを覚え、村雨はスマホを手にしたまま、寝台を降りた。
キッチンへ移動し、冷蔵庫を開ける。ミネラルウォーターのボトルを取り出す時、ちら……と。視界の端に友人手製の、鶏肉と野菜のマリネが目に入る。
肉ばかりでなく野菜も食えよーと、差し入れされた物だ。
必要な栄養素は摂取しており、余計なお世話だと言えなくはないが、彼の気遣う気持ちは本心からであり……また、味も非常に良い物ではあるので、受け取った。
ああ、そういえば。その友人の、1/2ライフの二戦目が、そろそろ近いのではないか。
そんなことを考えていれば……不意に。
手の中の端末が、震動により着信を伝えてきた。
画面を確認すれば、そこに表示されていた名は。
「……はい」
数秒の逡巡の後。画面の通話ボタンを押し、村雨はそれに応えた。
「あ」
電話の向こうで、相手は……獅子神敬一は、驚いたように声を上げた。
かけてきたのは自分だろうに、驚くとはどういうことなのか。
「あ、先生……起きてたのか?」
「ああ」
嘘ではないので、頷く。
「忙しいのか?あんまり徹夜すんなよ」
「ここ数日は、睡眠は充分に摂れている」
「あ、そーなのか?なら、よかった……」
言葉が途切れ。それに続く、不自然な沈黙。
立ったままでいることも無かろうと思い、ソファへと腰掛ける。
「……村雨」
「なんだ?」
「あー……悪ぃ、こんな時間に」
「私にとって不都合であるなら、電話に出ていない。特に問題が無いので、通話に応じている。あなたが謝ることではない」
「……そか」
ほっとしたような声。
また、沈黙が二人の間に横たわる。
その隙に、村雨は電話の向こうの状態を探ることにした。
呼吸が浅く、速い。緊張や不安、ストレスを感じている。
それ自体は、驚くことではない。そもそも何のストレスも無い人間が、こんな時間に電話などはかけてこないだろう。
「……村雨。まだ起きてるか?」
「ああ」
「いや、オレ……明日、試合なんだよ」
「そうか」
それなら、早く寝た方が良い。
そんな当然の指摘は、しなかった。そんなことは本人が一番理解している筈だ。
「1/2ライフの試合2回目でよ。明日に備えていろいろ考えてたら……そういや、1戦目はオメーが居たな、て、思って」
「そうだな」
ふー……と。電話の向こうで、深く長く息を吐く気配。
「怖いのか?怯えてんのか?とか。緊張してるのは、確かなんだろーな……眠れなくて。気が付いたらお前の名前を、スマホで探してたよ」
「……」
「さすがに、こんな時間にかける気は無かったんだけどなー……悪ぃな」
「謝る必要は無いと言った筈だが」
「ん、そーだよな。でも、悪ぃ」
困ったように、笑う声が続く。
ふと、村雨は窓の外に目をやった。
夜空に、月が見える。くっきりとした、下弦の月。
綺麗だな、と思った。
「獅子神」
「ん?」
「あなた、怯えているな」
「!」
息を呑む気配が、端末の向こうから伝わる。
こちらの真意を探るような沈黙を感じる。
「あなたの場合、怯えることは悪いことではない。むしろそうして怯えているからこそ凡ゆるものを見逃さず、勝利に繋がるだろう」
あなたにも、それは分かっているはずだが?
続ければ。さすが先生、お見通しかよ。と、軽口が返ってくる。
そう。獅子神敬一は、理解している。
そして、知っている。
必要なことが何であるか。
怯えることさえ、武器になるということも。
ただ怯えるだけで終わらないことも。
彼の手の中には、既に闘うために必要なものがあることさえも。
ただ、そう……それでも。足りないと、思うことがあることは、村雨であれ理解はしていた。
ふう……と。息を吐く。
あの日。自分の、黒塗りの処方箋を正しく受け取った相方に……世話好きの友人に。
或いは、特別な『何か』になるかもしれないと、そんな予感をさせる、愛すべき臆病者に。
餞を贈るのも、悪くはない。
「獅子神」
「……?」
「思い出せ。あなたの前に、誰がいる?」
「……オレの?」
不思議そうな声に、続ける。
「あなたが最も追い詰められ、怯え、死に近付き……その上で、足掻き、選び、勝利を拾った瞬間。あなたの前に居たのは、誰だ?」
「……あ」
「答えろ、獅子神。あなたを見ているのは、誰だ?」
「……村雨」
静かに落とされた答えに、口角を上げる。
「……そか。オメーが見てるなら、みっともないことはできねーよな」
「当然だ。あなたが無様に負けたら、私が腹を開く」
「開くなよ!何も面白いモンは出ねーよ!」
他の人間に触らせるくらいなら……とは、今は口にしない。
或いはいつか伝えることになるかもしれないけれど、この瞬間に必要なことではない。
「……そーだな。オメーが見ててくれんなら……無敵かもな」
ふ、と微かな笑いと共に、落とされた言葉。
そう、それでいい。敢えて、口にはしないけれど。
「村雨」
「……?」
「サンキュ」
「ステーキが食べたい」
ぶはっ!?と。電話の向こうで大袈裟に吹き出す気配。
ついで、ケラケラと遠慮なく笑う声が続く。
「オメー、ステーキ、て……なんで礼の返事がメシの要求になるんだよ……!」
腹痛ぇ……と呟くのに、電話の向こうの彼の笑う顔が鮮明に浮かぶ。
鮮やかな金の髪と、透明な碧の瞳が、脳裏に鮮やかに描き出される。
「わーったよ。明日、終わったら……オマエん家に行って、焼くよ」
「付け合わせはあなたに任せる」
「はいはい……野菜も食えよ」
「善処しよう」
答えれば、「善処ね……」と、また笑う気配。
まだ声に緊張はある。けれど、それは必要な緊張であり。無駄な強張りは解けていることを感じさせた。
「あ?お……なぁ、村雨」
「なんだ?」
何やら気が付いたような声に、応える。
「外、見えるか?」
「見えている」
「月。キレーだな」
「………そうだな」
電話のこちらと、向こう。
同じ、月を見ている。
「村雨」
「……」
「サンキューな」
「……ああ」
頷く。
会話が終わりに向かう気配を感じ、村雨はソファから立ち上がる。
寝室に移動を始めれば……「なぁ」と、遠慮がちな声がかけられた。
「?」
「……あのさ。オレ、寝ちまうかもしれねーし、オメーが寝ても気にしないから……もう少し、電話このまま繋いでていーか」
続けられたのは、些か予想外の言葉だった。
反応にしばし迷いが生まれ……自分の中に断るつもりがないことに、遅れて気がつく。
「……ああ」
だから、頷いた。
「ん、サンキュー。じゃぁ、えっと……」
「時間は考えていないのか」
「あー……まぁ……オメーは何時までなら付き合ってくれんだ?」
「そうだな…………」
寝台に腰掛け、窓の外を見る。
獅子神からも見えているだろう、月を眺める。
「夜明けまで」
答えは……自然と、零れて落ちた。
「……夜明けまで」
「……」
「ん。リョーカイ」
サンキュ、とまた小さく続くのを聞きながら、横になる。
充電切れにならないよう、充電スタンドにスマートフォンをセットする。
電話の向こうから届く、他愛のない話に相槌を打つ。
このまま、獅子神は眠るのだろうか。或いは、村雨が先だろうか。
どちらにせよ……どちらが寝ても、通話はこのまま繋いでいよう、と思う。
夜明けまで。