愛の名前『お元気ですか?子どもはもう5歳になりました。毎日幸せです』
そんな葉書を受け取った。
差出人は、見慣れた名前。
ほんの数年前まで毎日隣に居て、毎日愛を交わして居た相手。
葉書をひっくり返して見てみれば、金髪の男と優しげな若い女性、そして彼にそっくりな見目の良い男の子。
満開の桜を背に三人、微笑んでいる写真。
父親である男性の碧い目は変わらず、真夏の海のようだった。
変わらぬ美しさに微笑んで。
幸せそうでよかった、と、息を吐く。
そして、目を閉じる。
何秒も何十秒も、何分も……或いは何時間もの逡巡を重ね……薄い唇を開く。
もうずっと、口にしていなかった……口にすることを己に禁じていた、四つの音を、紡ぎ出す。
「し」
祈るように。
「し」
溢れ落ちるように。
「が」
溶けて消え去るような不確かさで。
「み」
胸で高鳴る鼓動は、聴こえないフリをして。
嗚呼。
「…………ししがみ」
一度、均衡を破って仕舞えば……壊れるのは、すぐだった。
思い出す。
焼けつくように、脳裏に描く。
身体を抱き寄せる、逞しい腕。耳を押し付けて鼓動を聴いた、厚い胸板。触れ合う唇の、温度の高さ。
何度も何度も……永遠の宝物のように大切に、名前を呼ばれた声。
ずっと、自分だけのものだったもの。
今は……決して、手が届かないもの。
「なぜ」
ほとり、と。
言葉が落ちる。
頬を伝った涙も、言葉と共に溢れて落ちる。
「獅子神」
あなたは、何故、笑うのか。
私の居ない場所で、私の知らない幸せを手にして……私の知らない顔で。
私は笑い方も、穏やかに眠る方法も、忘れてしまった。
「獅子神」
くしゃり。
握りしめた手の中で、葉書が潰れる音がする。
「嫌だ……獅子神」
最後の別れの時、言えなかった言葉を、繰り返す。
嫌だ……行くな。
ただ、それだけ。
頑なに口にしなかった、ただそれだけ。
私も、あなたを愛していたのに。
失ってから自覚する?なんて愚かで、なんてマヌケなのか。
「嫌だ」
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
ずっと、幸せであれと。幸せになれ、と。願い、祈り、手放しだ恋だった。
けれど、改めて『ソレ』を突きつけられて……眩暈がする。吐き気がした。
村雨礼二の存在無しであの男の幸せが成立する、ということは、酷く耐え固いものだと感じる。
「獅子神……嫌だ」
お前も幸せに……なんて。欲しかったのは、そんな言葉じゃない。
力を込めて、葉書を握りしめる。
叫び出しそうに、喉が熱い。
あなたは。
あなたは……私の、
***
「…………ッ!!」
不意に、意識が覚醒した。
心臓が早鐘のように脈打つ。
喘ぐように口を開き、酸素を求める。
肺が痛い。
自分の呼吸音が、ひどく煩い。
「村雨?」
不意に、声。
「どーした?」
霞む視界に、目を瞬かせる。
徐々に焦点を合わせた目の前に……碧い瞳があった。
今は気遣うようにこちらを覗き込んでいる。
「……獅子神」
「大丈夫か……?」
そっと、逞しい腕が背を撫でる。
ゆったりとしたリズムが、途切れがちだった呼吸を落ち着かせる。
「……」
腕を伸ばし、頬に触れる。
何度も共に眠った、獅子神の家のベッドの上。
2人並んで横になっても充分なそこで、身を寄せ合うように眠っていた。
「?村雨……?」
不思議そうな声を上げるのには答えずに、頬を指先でなぞる。
くすぐったそうに緩む口元に、キスをした。
「獅子神」
ほんの数秒、触れるだけのキスをして。呼びかける。
「ん?」
瞬かれる、碧い瞳。
今はそこに村雨が……村雨だけが、映っていた。
その、酔いそうになる現実だけを噛み締めて、囁く。
「あなたは……私のものだ」
「……っハ!?」
さっと。獅子神の頬に朱が走る。
何言ってんだ……?という顔で。けれど、こちらを心配するような表情で、今度は獅子神から触れてくる。
「どーしたいきなり……?悪い夢でも見たのか?」
悪い夢。
確かに、正しく村雨にとっては悪夢そのものだった。
恋人が……獅子神が『人並みの幸せ』を手に入れる夢。
「……ああ」
それはつまり。村雨礼二の元から永久にこの男が去る、ということ。
「そか」
ぽんぽん、と。
まるで子どもあやすように、背を叩かれる。
心地よいリズムを感じながら……夢の中の自分を、思い出す。
幸せそうでよかった?
何故……そんな心にも無いことを、一瞬でも思えたのか。
「獅子神」
「……ん?」
「獅子神……」
「うん」
くしゃり、と。髪をかき混ぜられる。
「オレは、オメーのだよ」
な?
言い聞かせるように、安心させるように、笑う。
碧い瞳を……そこに映る自分を見ながら、夢の中、咲いていた桜の木を思い出す。
まるで幸せの象徴であるかのように、咲き誇っていた薄桃色。
「……桜」
「桜?」
「もうすぐ咲くな」
「あ?あー……そうだな。もう1ヶ月ねーんじゃねーか?」
あと数日で、春が来る。
薄桃の花が咲き乱れる中を、共に歩く姿を想像する。
「獅子神」
「どーした?」
「私は……あなたと、ずっと、桜を見て歩きたい」
パチクリ、と。不思議そうに目を瞬くのを、愛しいと思う。
「ずっと……て、ゆーと?」
「すっと、だ」
繰り返す。
その単語を、お互いに刻みつけるように。
ずっと。
その単語に、お互いの心を縛りつけるように。
「わかったよ。ずっと、だな」
「ああ」
頷いて。深く長く、息を吐く。
夢で見た、あの、幸せそうな三人の顔を思い出し……次の瞬間には、記憶の奥底へと仕舞い込んだ。
この愛を受け取るのは、獅子神敬一と共に生きるのは、私だけでいい。
「獅子神」
吐息と共に、呼びかけて。肩口に顔を埋め、忍び寄る睡魔に身を委ねる。
たとえ、ここでは無い道の先に『幸せ』が存在し得るのだとしても……この愛は、もう決して、手離せないものだと知っていた。