あの空の彼方まで 雲一つない青を、白い線が一筋、ゆっくりと横切って行った。
「……ん」
目を覚ました獅子神は、目を瞬いた。
スマートフォンを手にとり、メッセージが無いことを確認する。
次のゲームの予定はまだか……と想い、すぐにその必要はもう無いのだと思い至る。
先日、銀行の賭博をやめた。
引退の意を告げた時、行員は惜しんでいた。あのタッグマッチ以降、獅子神の人気は上がりつつあったので、それも仕方がない。
『本当にやめるおつもりで?』
『ああ……ちょっとな』
『有望なギャンブラーを失うのは残念です』
『オレ以外にも、もっと化けモンみてーなのゴロゴロ居るだろ』
『獅子神様には獅子神様だけの良さがあるので……ちなみに、理由をお伺いしても?』
『理由? あー……何だろうな。理由……そーだな、敢えて言うなら……』
『はい』
『世界は、広いだろ』
獅子神の返答に対する、行員の不思議そうな顔は忘れられない。頭の中に自然と浮かんできた顔に、喉の奥で笑う。
ベッドから降り窓を開ければ、穏やかな風が室内に舞い込んだ。鼻先に触れた風に、微かに花の香りを感じる。
「……」
目を瞬き。先ほど、起きる直前まで見ていた夢を思い出す。真っ青な空を横切り、ゆっくりと伸びていった白い線。
青空を横切る飛行機雲。
それに乗っていたのは、もしかしたら数日後の自分かもしれなかった。
窓を開けたまま、キッチンへと移動する。誰も居ない部屋は、しんと静まり返っていた。
使用人二人には、既に暇を出してある。退職金、といくらかの金を渡したら、泣かれて少し困った。
この家で過ごすのもあと何日だろうか? と考えて。
悲観は、していない。後悔もない。自分で考え、己で決めて、出した結論だ。
人生は長い。まだ、長くあるはずだった。だから少し、他の場所に行こうと決めた。
ここではない、どこかへ。
キッチンにたどり着き、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。ボトルを傾けて、喉を落ちる冷たさを感じる。
「……お?」
不意の振動に、スマートフォンを取り出す。画面を確認すれば、グループLINEへの投稿だった。
『獅子神さん、賭博やめちゃうってほんとー?」
『敬一くん、突然どうしたんだ?』
『獅子神くん、みんな突然のことに驚いている』
送り主は三人。
それに、アイツは居ないのか……と、心のどこかが寂しさを感じた。
『急に悪ぃな。別に逃げたワケじゃねーぞ』
『えー。じゃぁどうしたの?』
『特に何ってわけじゃなーよ。ただ……』
入力しかけた指が、途中で止まる。
そう、ただ。
ただ……
『世界は広いんだろ』
結局、行員に対して答えたのと同じような回答を続けて、送信した。
世界は広い。
それを見たい。
動機と言えば、たぶんきっと、それ以上のものなんて無かった。
『明後日には引っ越すよ』
『そっかー。また、帰ってきたら遊ぼうね!』
『どこに行っても、オレの配信は見てろよ』
『神はどこに行ってもキミを見守っている』
三者三様の励まし……と思われるものに笑う。
ただやはりそこに、『あと一人』からの言葉は何もなかった。
既読は『四』となっているので、読んではいるはずなのだが……と思うが、自分から何か言いだすのは憚られた。
答えが無い、ということが、或いは一つの答えだろうか。
『サンキュ。またな、オメーら』
だから、それだけを返信して。
獅子神はスマートフォンをしまい込んだ。
****
旅立ちの朝は、あの、夢で見た空に負けないくらいの、晴れた青空の日だった。
空港に着いた獅子神は、搭乗予定の飛行機を確認する。
まだ、搭乗開始までは余裕があった。ブラックコーヒーを買い求め、適当なチェアへと腰掛ける。
コーヒーを啜りながら視線をやれば、滑走路を行き交う飛行機が見えていた。
春の空を背に走る白が、眩しい。
屋内であるロビーにまで、太陽の光の温度と、花の香りを乗せた風が漂う気がした。
「……ふあ」
大きくあくびしながら、視線を手に持ったスマートフォンへ移す。昨日の内に、友人たちには再度挨拶のメッセージを送っておいた。
照れるから見送りには来るな、と告げていた。
そしてそこにやはり、『あと一人』からの言葉はなかった。
「……怒ってんのか……?」
「そんなことくらいで怒るほど私の心が狭いとでも? マヌケが」
「いやオマエの心ってそんな……って、っは!?」
隣から聞こえた声に無意識に返し……次の瞬間、のけ反った。
いつの間にか。
全く気が付かない間に、隣には当然のように、金縁眼鏡の男の姿があった。
「村雨!?」
「耳元で騒ぐな、やかましい」
淡々と、無表情で切り捨てられる。
眼鏡の奥の目からは感情が読み取れず、ただいつもの通り静かにこちらを見つめていた。
「お、オメー……なんで、ここに?」
「言わないと分からんのか」
「わかるか! アホ!!」
「……あなたは、見送りは要らない、と言ったな」
「あ、ああ」
頷く。
そうすれば、医者は口角を上げ、笑ってみせた。
「安心しろ。これは見送りではない」
「……は?」
じゃぁなんだよ、と目を瞬く。
そして、気が付く。村雨の服装は、いつものジャケットではなかった。それよりも若干ラフな。そう敢えて言うなら、長い空の旅にも耐えられそうな……
「オメー、まさか……」
「獅子神、私はココアが飲みたい」
「自分で買って来いよ!! じゃ、なくてだな!!」
頭を抱える。
ああ、どうも。どうやら、『そういうこと』らしい。
「仕事はいーのかよ……銀行も」
「退職届は出してきた。銀行は些か渋られたが……我々両方を手放すのは痛手が大きいのだろう」
「あー……それは、悪ぃ?」
何故か謝ってしまった。
そうすれば、眼鏡の奥の目が、楽しそうに細められる。
ああ、この顔を、今まで何回見てきて……何度「敵わない」と思っただろう。
「言っとくけど、どこに何年とか、具体的な目的は無ぇーぞ」
「構わん。お互い、資金には困らない身だろう?」
「あーそりゃ、まあ……」
自分より長く1/2で戦っていただろう村雨の懐具合は心配していなかった。
本業での稼ぎもそれなりに蓄えているだろうし。
「なら、問題はないな」
「あー……問題、つーか……ああ。そーですね!!」
降参のポーズをとる。
面白がるような視線から逃れ、外に目をやる。
ガラスの向こうの三月の空はどこまでも澄んでいて、遠く高く。そこを渡る風の色さえ、見える気がした。
ふと、音声が流れた。獅子神が乗る飛行機の、搭乗案内。
行くか、と立ち上がれば、合わせて村雨も立ち上がる。
どちらからともなく視線を合わせ、笑った。
「じゃあ、行こーぜ」
「私はココアが飲みたいと言った」
「あとで買ってやるよ!」
荷物を持ち、搭乗口へと並んで歩き出す。
ちらと、隣に視線をやる。
同じくこちらを向いた、紅い瞳と目が合った。
小さく微笑んだ顔と、青い空が眩しくて。獅子神は、目を細めて……そして笑った。